追跡
夜が明けきらない曙光の中、ミレイユは薄闇の街角を縫うように歩いていた。
ラインやシャルロットと打ち合わせた後、彼女は一人で行動に移している。これから向かうのは、領主の娘が連れ去られるはずの“想定地点”だ。パーティー側にはまだ正式通達が出ていないが、あと少しで騎士団から緊急招集がかかり、冒険者たちが動き出すだろうと予想できる。
オルグリアの石畳に、淡く濁った夜明けの光が滲んでいる。市場はまだ眠り、衛兵が交代する足音が遠くで響く中、ミレイユは人気の薄い裏道へと足を運ぶ。
その場所は領主邸に近く、かつ緊急時に避難路として使われる裏手の小径。もし領主の娘が襲われれば、警備を突破してラボまで運ぶにはこの薄暗い小径が一度経由されるはず——シャルロットから得た断片的な噂と、自分が掴んだ情報を組み合わせて考えた末にミレイユが導き出した答えだった。
フードを深く被り、ミレイユは路地裏の陰に身を潜める。
(表ではラインが魔獣対策に動くんだろう。パーティーが呼び出されて騎士団や他の冒険者を統率する間、私はここで待つだけ)
彼女は自分の胸を軽く押さえる。前回の一連の出来事から、表で優しく笑うラインが、今度もパーティーを優先するだろうと思うと、ほんのわずかな棘が胸を突く。しかし、それは口にしない。今は任務だ。
小径には、わずかな通行人が一人、二人いるかいないか。朝が近づき、街が目覚め始めれば、この道は人通りが増えるかもしれないが、ヴァランは人目を避けるため、静かな時間帯を狙うだろう。
ミレイユは目を細め、音もなく立ち尽くす。
(領主の娘は必ずラボへ運ばれる……ラインがそう読み、私にその現場を押さえるように言った。なら、信じて待つしかない)
シャルロットとは別行動中で、噂操作による攪乱は後の段階だろう。今、ミレイユは完全に一人だ。遠くから衛兵が交代する足音が僅かに響くが、特に異変はない。
(もうすぐ騎士団が動き出し、パーティーも呼び出されるはず。魔獣対応で大混乱になる中、ヴァランが動き出す……)
思考しながら、彼女は指先で小さな暗号メモを確かめる。そこにはラボ関連の鍵となる情報が記されている。もっと正確な情報が得られれば、裏の計画は進む。
空気が冷たく、吐く息が白くなりそうな朝。
ミレイユはじっと身をひそめる。そろそろ、動きがあってもおかしくない頃合いだ。拉致が起これば、娘を乗せた馬車や小隊がこの道を通る。その瞬間を見逃さず、尾行し、ラボの位置を突き止めなければならない。
(私は裏で命がけ……表では彼らが賑やかに動くんでしょうね。結局、また彼は表か⋯⋯)
内心で苦笑するが、視線は確かで冷静だ。
ミレイユはフードの下で目を細め、朝露にしっとり濡れた石畳を睨みつける。この先、ヴァランがどんな手で娘を運び出すのか、想像を巡らせつつ、弱音は吐かない。
今はただ、隠れ家への道を掴むため、黙して待つのみだった。
薄い空気の中、遠くで小鳥の鳴き声がかすかに聞こえ始め、街はゆっくりと目覚めようとしていた。
だが、ミレイユが潜む薄暗い路地は、まだ眠りの中にあるような静寂を保っている。
(そろそろか……)
ミレイユは僅かに首を傾け、周囲を警戒する。わずかな物音や人影を見逃さないよう、神経を研ぎ澄ましている。領主邸側の見張りが薄くなっているか、衛兵の巡回間隔が変わっていないか、細かい点にも注意を払う。
その時、微かな違和感が走った。
廃材が積まれた路地の向こう側、わずかに人影が揺れたように思える。いつもなら通らないであろう朝早くの時間帯、ここを通る理由のない集団が潜んでいるのではないか。ミレイユは自分の呼吸をさらに静かにし、陰に身を沈めて観察する。
しばらくして、かすかな足音と抑えられた低い声。何かが動いている。
(来た……)
胸の中でそう呟く。領主の娘ラフェリアを攫うため、ヴァランの手先が動いているのだろうか。装備を整えたらしき男たちが視界の端にちらりと映る。彼らは目立たない装いで、闇色の布を身につけ、細心の注意を払って行動しているようだ。
突如、領主邸の方から小さな悲鳴に似た音が混じる。はっきりした声ではないが、護衛を突破されたか、あるいは内部で何かあったのだろう。ミレイユはその微かな合図で確信を深める。
(始まった……!)
男たちが静かに動き、ほどなくして上品な衣服にローブをかぶせられた小柄な人影が数人に取り囲まれ、強引に押し進められてくる。ロフィナ……領主の娘だ。全体に不安と緊張が漂い、誰も大声は出さないが、その沈黙の中にただならぬ気配が満ちている。
娘を連れた一団は、音もなく、通りを抜けていく。その後をつけなければならない。
だが、ミレイユは簡単に動かない。下手にすぐ動けば気付かれるかもしれない。相手は用心深いヴァランだ。
まずは一呼吸おいて、距離を保つ必要がある。
数秒後、ミレイユは動き出した。
(ラボへ必ず連れて行く……ラインの読み通りね。私がこの現場を逃がさなければラボの所在地を特定できる)
彼女は考えを纏める。シャルロットとも合流し、しかるべきタイミングでシャルロットは戻ってラインへ報告する。自分は尾行を続け、ラボに潜入する。そうすれば技術資料も手に入るかもしれない。
ミレイユはフードを深く被り、物音を殺して一団の後を追う。
春先の淡い朝の光が、石畳をかすめながら、彼女の背を無言で押しているようにも見えた。これから先、魔獣の大暴走と、ラボへの潜入、そして己の生死を賭ける戦いが待ち受けている。
僅かに唇を噛み締め、ミレイユはその後ろ姿を闇に溶け込ませるように小さく揺らめかせた。もう後戻りはできない。ここで得る情報が、ラインたちが求める全てを手に入れる鍵になる。
彼女は一度だけ深呼吸し、娘を囲むヴァランの手下たちを見失わないよう、じりじりと追跡の距離を詰めていった。