疑惑
オルグリアは豊かな商業と多様な人種が交錯する交易都市だ。冒険者ギルドを中心に、領主依頼や商家の交渉が日々行われ、街頭には旅人や剣士、魔術士、治癒師が行き交う。そんな市場や鍛冶屋、喧騒と雑踏が満ちる――
オルグリアの朝は、いつもと変わらず賑やかだった。
冒険者ギルドの前には、依頼を探す若者から歴戦の剣士までが列をなし、商人たちが声を張り上げている。
その喧騒の中、治癒師リーネは不安げな面持ちで依頼板を見つめていた。
彼女が所属するAランクパーティー「レイヴンクロウ隊」は、近々、領主からの特別依頼を受ける予定がある。
王都まで珍しい薬草や貴重な装備を輸送する任務で、その準備をマルシェード商会を通じて進めている。
Aランクパーティーは、この世界で最も実績や信頼が厚い精鋭集団の一つと見なされる存在だ。
その名声は、普通の冒険者では扱えない領主直轄の重要任務や、大商会が求める高難度案件など、格式高い依頼を受けるに十分な証である。
だが、ここ最近、パーティー内では「副長セドリックが何か裏で動いている」という噂が絶えない。
加えて「得体の知れない暗殺者がパーティーを狙っている」とか、「領主に献上すべき物資に不正がある」とか、よからぬ話が飛び交っている。
リーネは依頼板の隣に張り出された公示文書を見つめ、微かに眉をひそめた。
そこには領主関連の物資管理ロット番号が整然と列挙されている。
誰もが閲覧できる正規情報だが、彼女は最近、自分たちのパーティー「レイヴンクロウ隊」が領主直轄の依頼を準備する過程で微妙な違和感を覚えていた。
特に、マルシェード商会の納品物に対する数字が引っかかる。
治癒師としてパーティーを支えるリーネは、戦闘では後方支援が主だが、丁寧な性格と周到な下調べによって物資管理にも目を配る癖がある。
だからこそ、こうした小さな異変を見逃さない。
「ロット番号が、いつもと違うような……」
彼女が小声で呟いたその時、不意に横から声がかかった。
「物資リストが気になりますか?もしかして、マルシェード商会の納品で困っているとか?」
振り向くと、見知らぬ男が立っていた。
装備は質素で、特別な武器も見当たらない。
下級冒険者風の青年だが、その物腰は落ち着き、状況をよく見極めているような印象を与える。
「あなたは……?」
「僕はラインといいます。ここで長く暮らしているDランクの冒険者ですよ。実は、マルシェード商会周りで不審な噂を聞いて、情報を集めているんです」
リーネは半信半疑だったが、彼が指摘する「不審な点」は、まさに彼女が抱いた違和感と共通していた。
そこで思い切って話してみることにする。
「実は、私たちは領主依頼の準備中なんですが、最近マルシェード商会から受け取る装備品について、説明が曖昧で……ロット番号が微妙に合わない気がするんです。気のせいかもと思いましたが、気になっていて……」
「それは気のせいじゃないかもしれませんね」
「え?」
ラインは公示板を指し示し、穏やかな調子で続ける。
「マルシェード商会の倉庫では、最近正規ロットとは違う品が紛れ込んでいるとか、似た番号の箱が増えすぎているとか、そんな話を耳にしました。
もし正規の公示ロット表と実物が食い違っているなら、内部で不正が進行中かもしれません」
「同じ番号の箱が複数あるなんて、正規ルートじゃあり得ない。そんな不正、本当に可能なんですか……」
驚くリーネに、ラインは唇を噛み、悔しそうに言った。
「通常なら難しいでしょうが、内部に協力者がいれば別です。……僕の友人は、その不正を告発しようとした直後、行方不明になりました。、そして先日……遺体で見つかったんです」
「……殺されて、口封じをされたと?」
リーネは悲痛な表情を浮かべ、声を震わせる。
そんな彼女に、ラインは静かに頷く。
「領主依頼を準備中とのことでしたね?
その立場なら、正規の確認手続きを求めることもできるはずです。
もし倉庫で実際にロット番号と中身を突き合わせれば、真実が掴めるかもしれませんよ」
リーネは息を呑む。
確かに、領主依頼を受ける私たちなら、その正当な理由で倉庫検分を持ち出すことは不自然ではない。
最初は疑わしかったこの男も、公示ロットと倉庫内現物を突き合わせる検証可能な手段を示した。
リーネは息をのむ。
そうだ、自分たちが領主の依頼を担う立場なら、倉庫を調べる提案も正当な手段に思える。
初めは疑わしかった男の言葉だが、今では筋が通っていると感じられた。
提案そのものに不自然な点は見当たらず、こんな嘘をつく必要性も感じられない。
むしろ、彼女たちが実際に確認すれば真相が明らかになる。
「ありがとうございます、ラインさん。ちょっと仲間に相談してみますね」
「ええ、それがいいでしょう。……あ、失礼、あなたのお名前をまだ伺っていませんでした」
「私はリーネです。『レイヴンクロウ隊』で治癒師をしています」
「レイヴンクロウ隊……あの有名なAランクパーティーですか!
それならなおさら、倉庫に立ち入る機会があるでしょう。
もし行くのであれば、僕にも協力させてください。友人の無念を晴らしたいので」
リーネは深く頷く。
ラインが手を軽く振って立ち去るのを見送りながら、彼女は「重要な手がかりを得た」と実感する。
近々、パーティーが装備や薬品を確保する過程でマルシェード商会の倉庫を訪れることは避けられない。
その際、ロット番号の真偽を検証すれば、疑念を晴らし、あるいは不正を暴けるだろう。
「隊長に報告しなくちゃ」
リーネは足早にパーティーの宿舎へと向かう。
まさかこれが、レイヴンクロウ隊を陰謀の闇へと誘い込む序章になるとは、この時まだ知る由もなかった。
リーネと別れた後、ラインはギルドのカウンター前に腰掛けた。
周囲には依頼を求める冒険者や報酬を受け取りに来た者たちが行き交い、彼はその雑多な雰囲気の中、ひっそりと待機している。
リーネとの会話で得た手応えを反芻しつつ、これから何を仕掛けるべきか頭の中で整理していた。
数分後、ラインの横に、するりと影が滑り込んできた。
現れたのは、艶のあるライトブラウンの髪を肩口で揺らし、微笑を浮かべている美しい女性だ。
体のラインが分かる程度にフィットした軽装を纏い、華やかなアクセサリーはつけずとも、軽妙さと自信に満ちたその瞳が十分な存在感を放っていた。
しかし、彼女はまるで人混みを撫でる風のように、周囲の注意を引かず、しかし確実にラインの隣へと滑り込む。
「やあ、シャルロット。順調?」
ラインはわざと軽く視線を向けるだけで、当たり前のように挨拶を交わした。
二人が並んで座ると、その小さな空間だけがまるで別世界のように落ち着いた空気を醸し出す。
「いい調子よ、噂はすでにうまくいったわ」
その女――シャルロットは満足げな笑みを浮かべる。
淡い光の差すギルド内、雑多な人声をバックに、彼女は小声で報告する。
その声は決して耳障りにならず、むしろ音楽的な軽やかさがある。
「さっき奥のテーブルで居合わせた商人たちが、もう“不正が横行している”なんて囁いてたわ。
ああいう連中は噂を心底愉しむから、すぐ広まるわよ」
「ふふ、さすがシャルロットだね」
ラインは満足気に頷く。
彼女は人当たりの良さと演技力で、意図した情報を自然と周囲に溶け込ませる達人だ。
「次はターゲットが倉庫を探しに行く段階になる。
そこでミレイユに偽造書類を仕込んでもらわないとね」
シャルロットはツンと鼻先を上げ、得意げな表情を浮かべる。
「もちろん、ミレイユが用意する書類ならまずバレないでしょう。
あの娘、夜通しこもって印影や筆跡を再現してたもの。
私が耳にした副長サイドの動きとも矛盾しないよう仕込むって、彼女が言ってたわ」
「いいね、これで仕掛けはほぼ完成だ。
あとはパーティー側がその書類を偶然見つけるように仕向けて、疑惑を本格化させるだけだ」
周囲の喧噪は相変わらず絶えないが、ラインとシャルロットはその中でひそやかに笑みを交わす。
表面上は下級冒険者と、ギルドで暇を持て余している女が何気なく話しているだけの光景。
それだけに、この二人が今まさに大きな陰謀の歯車を回しているとは、誰一人思いもしない。
「じゃ、次のステップはミレイユと合流ね。
私は市場のほうでさらに噂を転がしてくる」
シャルロットが立ち上がり、長いまつ毛をちらりと上げてラインに視線を送る。
「また後で、何か面白い報告ができるといいわ」
「期待してるよ。気をつけてね」
ラインは肩を軽くすくめて見せるだけだ。
こうして、リーネと別れた後、ラインとシャルロットの短い接触は、確かな手応えとともに終わる。
彼らの計略は順調に動き出していた。