危機
北方の森林地帯は、うっそうと茂る木々と、薄暗い光が差し込む複雑な地形でパーティーを迎えた。
そこには、異様な数の魔獣たちが蠢いている。騎士団が急ごしらえの陣地を張っているが、彼らも苦戦しているようだ。
レイヴンクロウ隊が到着すると、ガルフォードが素早く状況を把握した。
「魔獣が予想以上だな……奴ら、次々と湧いてきている。Aランクの俺たちでも、この数と速さで押し寄せられたら厳しいかもしれない」
セリーヌは矢をつがえ、「数が多いわ。正面から押し返すのは骨が折れそう」と焦りを混ぜた声で言う。
ロウェンは剣を抜き、「とにかく騎士団を支援しつつ、群れを分断するぞ! 突っ込めば押し返せるはずだ」と叫ぶ。
ガルフォードが低く頷き、リーネはすぐに支援態勢へ移行した。
彼女は回復魔法で騎士団兵を癒し、時に毒素を中和しながら、必死に後方支援を行う。
しかし、魔獣の襲撃は続く。森の奥から次々と現れる異形の生物が、牙を剥いて前線へ突っ込んでくる。
火花散る剣戟、セリーヌの矢が空を切り裂く音、ロウェンが吼えるような気合いの声、ガルフォードの的確な指示。
それらが混じり合う中、リーネは何度も回復の魔力を練り上げた。
「はぁ……はぁ……」
リーネの呼吸が乱れる。汗が額を濡らし、指先が震え始めた。
短時間で何度も治癒魔法を行使すれば、魔力と集中力が激しく消耗される。
騎士団兵たちは傷つき、パーティーメンバーも軽傷ながら疲弊している。
リーネは休む暇もなく、次々に回復の光を紡がなければならなかった。
ガルフォードが一瞬こちらを振り向く。
「リーネ、大丈夫か?」
「……少しキツいです……でも、まだいけま」
リーネは辛うじて笑みを作るが、その笑顔は歪んでいる。
セリーヌは矢束の残量が少なくなり、ロウェンも腕に浅い切り傷を負っている。
ガルフォードは頑丈な防具で凌いでいるが、突撃のたびに魔獣の圧力をまともに受けている。
「くっ……これじゃジリ貧だ」
ロウェンが渋い声を上げ、セリーヌは血の滲む唇を噛む。
リーネは治癒魔力を放つたびに眩暈を感じる。
視界の端がかすみ、呼吸を整える暇がない。
「ごめん……」
ポーションを飲むが、魔力回復は一朝一夕にはいかない。
援軍もすぐには来ないだろう。
騎士団兵が悲鳴を上げ、森の影から一際大きな魔獣が牙を剥いて飛び出す。
ガルフォードがそれを迎え撃つが、足場の悪い地面に足を取られてバランスを崩す。
ロウェンがカバーに入るが、セリーヌは矢が足りずカバーしきれない。
魔獣は鋭い爪を振り下ろし、すでに摩耗した隊に追い打ちを掛けるように吼えた。
「リーネ……!」
誰かの声が聞こえるが、リーネは疲労で反応が鈍い。
回復魔法を繰り返したせいで、魔力の流れがまるで泥沼にはまり込んだように重い。
光を編む手が震え、力が出ない。
心の支えになってくれるラインがいれば……と思うが、彼は不在。
今は自分たちだけで乗り切らなければ。
魔獣たちの咆哮が戦場を覆い、パーティーはじりじりと後退せざるを得ない。
リーネは目を潤ませ、必死にもう一度光を紡ぐが、今度こそ体が言うことを聞かない。
(もう……無理……)
彼女の膝が揺らぎ、手から癒しの輝きが零れ落ちるかのように消えかける。
その時、獰猛な魔獣が迫り、森の陰からさらなる群れが押し寄せてくる気配がする。
パーティー全員が限界に近づき、騎士団も崩れかけている。
リーネは疲弊しきって、回復が追いつかない。
このままでは全滅だ。
「ごめん……ごめんね……」
小さな声で謝罪を紡ぐリーネ。
その瞬間、魔獣が大きく吼え、牙を剥いて前へ踏み出した。
凶器のような爪が光を吸い込むように裂きかける。
暗鬱な絶望が森を包むかのような刹那——。
視界の端で微かな影が揺れた。
わずかな風を切る音とともに、魔獣が低く唸り、その突進を突然止める。
リーネは半ば意識が遠のきかけた中、何かが魔獣を引き留めたような違和感を感じた。
ガルフォードが驚いたように目を見張り、ロウェンは息を呑む。
セリーヌは荒い呼吸を整えながら、「今、何が……」と声にならない声を押し出した。
魔獣は前脚を止め、牙を剥いたまま硬直したように見える。
その直後、細く白い軌跡が風を裂く。
魔獣の巨躯に、一瞬のうちに刻み込まれる鋭い線。
唸り声が悲鳴に変わる前に、もう一撃が闇を斬り裂く。
光る刃ではない、あるいは特殊な道具を投げたのか——判断がつかぬほど素早い動きで、魔獣は翻弄され、やがて地面に膝を折った。
「皆さん、大丈夫ですか?」
その声は穏やかで、どこか懐かしい響きを宿していた。
リーネが薄れゆく意識の中で聞き慣れた調子を感じ、まぶたを必死に開こうとする。
そこには、短い瞬間でも完全に諦めかけた状況を覆す存在があった。
ラインがいた。
彼は森の陰から静かに歩み出ると、疲弊したパーティーを見渡した。
さっきまでの絶望的な空気が、彼の登場とともにわずかに緩む。
周囲で蠢いていた魔獣たちは、その恐るべき刃の軌跡や奇妙な動きに警戒するかのように距離を取り始める。
「リーネ、大丈夫?」
ラインは柔らかな声で問いかけ、彼女に近づく。
リーネは呼吸を乱しながら目を上げ、「ラ、ラインさん……」とかすれた声で答える。
彼は懐から小瓶を取り出し、それは特別な回復薬を詰めたものだった。
「これを飲んで、少し落ち着いて」
微笑を浮かべ、ラインがリーネに小瓶を差し出すと、彼女は感謝に滲む涙を浮かべかける。
ロウェンは「来てくれたのか……」と驚愕と安堵の混ざった表情を見せ、セリーヌは矢束を握り直しつつ「ありがたい……さすがだわ」と小さな声で呟く。
ガルフォードはわずかに頷き、「助かった」と短く言う。
「ごめん、用事があって遅れたけれど、ここで倒れるわけにはいかないだろう?」
ラインは騎士団の兵たちが後退している方向を素早く確認し、パーティー全員の状態を把握しているかのような落ち着きを見せる。
リーネは回復薬を口に含み、その効能が身体をじんわりと支え直す感覚に安堵した。
その頃、森の中で、ミレイユは地形図を片手に、裏方で魔獣出現の理由や発生源を探っていた。
この場にはいないが、遠方での情報収集や諜報活動を続けている彼女は、通信役としてシャルロットとも連携を図っている。
しかし、ラインがここでパーティーを直接助けたと知れば、胸が再びざわめくかもしれない。
その思いは今は伏せておこう。
ラインは傷ついたロウェンに対し、簡易包帯や特別なハーブを取り出し、「無理しないで、ロウェン。君が倒れたらセリーヌが困るでしょ」と冗談めかして声をかける。
セリーヌには「そっちは矢が足りないなら、一度下がって補充するといい」と余裕の助言を与え、ガルフォードには「状況から見て、ここは退くより士気を立て直して反撃した方がいい」と優しく背中を押すような言葉を投げる。
その光景は、ミレイユが離れた場所から見ていたら、きっと胸を複雑にかき乱すことだろう。
ラインは裏で冷徹に計画を立てるときとは違う、穏やかな笑顔でパーティーを励まし、リーネを気遣っている。
その笑顔に、パーティーは勇気を取り戻し、魔獣たちにもう一度立ち向かう準備を整える。
こうして、絶望的な流れを一瞬で覆したラインの介入によって、戦局は再び動き出した。
卑怯なまでに巧妙な裏工作ではなく、表舞台で示される彼の優しさと助力であった。