緊急
その日、オルグリアの中央広場には、人々のざわめきが満ちていた。
Aランクパーティー「レイヴンクロウ隊」は、昨日までの小規模依頼を終えて一息ついているところだった。ガルフォードが腕を組んで周囲を見回し、ロウェンとセリーヌは装備の点検をしている。リーネは回復用ポーションの在庫を数えながら「最近、平和ね」なんて笑っていた。
だが、その静かな時間は、鋭い馬蹄音で破られた。
石畳を叩く急ぎ足の響きが広場を駆け抜け、一人の騎士団の使いがパーティーの前で馬を止める。息を切らせ、兜を軽く持ち上げた若い騎士が、焦りを滲ませた声で呼びかける。
騎士が馬上で息を整える間、広場にいた人々が不穏な気配を感じて足を止める。空気が固まったような静寂が生まれる中、その若き騎士は兜の面頬を上げ、その奥に浮かぶ焦燥の光を隠さず、声を張り上げた。
「レイヴンクロウ隊の皆さん! 領内北方の森林付近で、突発的な魔獣の大規模出現が確認されました!」
その言葉が放たれると、周囲から息を呑むような微かな音が聞こえる。穏やかな昼下がりの光が、まるで絵筆で描いた静寂を引き裂くように、一瞬にして消える。騎士は続ける。
「騎士団は手を尽くしていますが、被害は拡大の一途を辿っています! 魔獣たちは通常の単独行動とは違い、群れを成して攻撃的な動きを見せており、想定以上の数が確認されています! このままでは、周辺の村落や交易路が危険に晒される可能性が高いのです。どうか、貴方たちの力を貸して欲しい!」
人々のざわめきが、まるでささやかな風がいきなり荒れ狂う嵐に変わるように、広がっていく。「魔獣が群れを成して?」「まさか、大規模だなんて……」という声があちこちから漏れ、広場の露店商人や子ども連れの母親、旅のヒーラーまで、皆が不安げな表情を浮かべた。
ガルフォード隊長は即座に表情を引き締める。周囲の混乱に目もくれず、騎士を正面から見据えた。
「魔獣出現……それも大規模だと?」
声は低く、驚きを含みつつも冷静だ。セリーヌは驚く間もなく地図を取り出し、ロウェンは剣の柄を握り直して歯を食いしばる。リーネはポーション類の小瓶を手早く点検し、無言で「準備できてる」と目で合図する。その一連の動作が、彼らが即応態勢に入ることを示していた。
ガルフォードは騎士の血走った視線を受け止め、ほんの少し頷くと、浮ついた様子を一切見せず、静かな決断を口にした。
「当然、我々が出る」
まるで日常の仕事を引き受けるかのような落ち着いた声だが、その背後にはAランクの自負と、過去に積み上げた功績への揺るぎない信頼が滲んでいる。
「場所は北方の森林だな? わかった、すぐに向かおう」
騎士は安堵の色を浮かべ、肩の力を僅かに抜く。「感謝します! 騎士団は既に前線を張って応戦していますが、魔獣が十数匹から二十匹以上に膨れ上がっており、何者かが意図的に呼び寄せたのではないかと思われるほどの異常事態です。どうか、皆さんの実力でこの流れを変えてください!」
リーネは頷き、ポーションの小瓶を音も立てずに袋へしまい込む。セリーヌは小声で「魔獣が群れを成すなんて滅多にないわね、これには何か裏があるかも……」と警戒心を顕わにし、ロウェンは「いずれにせよ行くしかない」と短く吐き出した。
「ラインさんが今いてくれたら……」とリーネが囁くが、ガルフォードは苦笑を漏らし、「彼は用事があると言っていただろう」と返す。セリーヌが「ま、仕方ないわね。我々でやるしかないわ」と肩をすくめ、ロウェンも黙って頷く。
こうして、Aランクパーティーは蹄音残る広場を後にし、急ぎ支度を始めた。北方へ向かうため馬車を手配し、必要な武具を再点検する。周囲では、市民たちが不安そうに見送っているが、彼らの不安を払うためにも、レイヴンクロウ隊は決然と動き出す。群れを成して襲いくる魔獣、騎士団が防ぐ間にどう攻略するか——まさにAランクとしての名声をかけた戦いだ。
ライン不在でも、彼らは迷わない。それぞれが自分の任務を知り、穏やかな昼下がりから戦闘の空気へと切り替え、静かに決意を固める。その姿を見ていた騎士は、一度深く頭を下げ、再び駆け出していく。燃え立つような緊張感の中、レイヴンクロウ隊は出陣の準備を整え始めたのだった。
北方の森へレイヴンクロウが向かう、その少し前。オルグリアの裏通りにある小さな倉庫部屋で、ラインとミレイユは地図や手書きの記録を並べていた。
薄暗いランプの光が、粗末な机の上に散らばる紙片をぼんやり浮かび上がらせる。
ラインは地図の一箇所を指しながら、「あと少ししたら騎士団からの要請が入るだろう。Bランク以上のパーティーすべてに緊急招集が出るはずだ」と低く言う。
ミレイユはフードの下から落ち着いた視線を送る。
「裏事情を追うのは私がやるわ。魔獣出現の理由も、きっと裏社会の密輸かなにかが絡んでいるはず。調べれば手がかりが掴める」
その声は冷静だが、どこか張り詰めた様子がうかがえる。
ラインは一瞬黙り込み、それから穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、ミレイユ。君がここを任せてくれるなら、僕はパーティーの方へ行ってくるよ。さすがにこの規模だと事前用意なしの彼らは苦戦しているかもしれない。リーネ達はきっと今、踏ん張りどころだろう」
その言葉に、ミレイユはわずかに眉を寄せる。
彼女はラインがパーティーを助けに行くこと自体が悪いとは思っていない。計画上、表の活躍はむしろ有利に働くはずだ。
だが、胸の奥で微かな刺が心をかき回す。
「ここは任せたよ」とラインが再び言い、書類をひとつ手渡す。
「君が裏を探れば、僕は表で流れを変えることができる。そうすれば、全体の計画が進む」
ミレイユは静かに頷く。「わかってる。私が情報源を洗っておくわ」
一見、何の問題もないやり取りだが、彼女は自分でも理解できない僅かな寂しさを感じている。
(ラインは裏でも表でも完璧だ。だから、私がここで動いている間に、彼はあっちで別の笑顔を見せるのね)
心中でそう呟いても、表には出さない。
ミレイユはフードを指で軽く整え、「いってらっしゃい」と低い声で送り出す。
それは素っ気ない言葉のようでいて、彼女なりの見送りだった。
ラインは「あぁ、そっちは任せたよ」ともう一度短く言い残し、扉を開けて外へ出る。
扉が閉まると、狭い室内にはミレイユが一人取り残される。
彼女は机を見下ろし、並んだ資料に集中しようとするが、唇を噛んで微かに息をついた。
ここは任せると言われた。
確かに自分は有能で、ラインに頼られ、信じられている。
それなのに、心には小さな空洞が生まれている。
「……何を考えてるの、私」
ミレイユは自分を叱るように呟いた。
これでいいはずだ。裏仕事は得意だし、ラインが表で活躍している間に自分が重要な手がかりを掴めば、計画は円滑に進む。
なのに、彼がリーネ達と笑顔を交わし、優しい言葉を掛けることを想像すると、胸の奥が乱される。
仕方ない。今は自分の役割を果たすしかない。
ミレイユは紙片を手に取り、冷静な思考で情報を整理し始める。
外ではラインがパーティーの救援に向かい、リーネ達と再び笑顔を交わすかもしれない。
それが少し寂しくても、彼女は歯を食いしばって任務を遂行するしかない。
こうして、ミレイユは寂しさを胸に秘めながら、静かに裏仕事へと向かうのだった。