夢寐
朝の光がオルグリアの石畳に射し込み、街中は徐々に活気づいていく。
ミレイユは小さく息を吐き、宿舎代わりの簡素な部屋を出て、裏路地を抜ける。
隠れるようにして通りを渡り、人波が薄い場所から、ラインと「レイヴンクロウ隊」を遠巻きに見下ろせる路上の一角へと足を運んだ。
そこは広場の外れ、小さな露店や人混みを背後に控え、やや高低差のある場所。
ミレイユはフードを深く被り、遠くにいるラインたちを見つめる。
ラインはいつもの涼やかな面差しでパーティーと話していた。
その顔は、裏で見せる鋭い光を秘めつつも、穏やかで緩やかな笑みを浮かべているように見える。
リーネが笑顔で何かを話すと、ロウェンやセリーヌも明るく応じ、ガルフォードも微笑ましい視線を送る。
ラインはそれを心地よい調子で受け止め、時折頷いたり、肩をすくめるような仕草を見せたりしている。
彼らは小規模な依頼を成功裏に終わらせたばかりなのだろうか。
リーネが「この前のやり方、とてもスムーズだったわ ラインさんがいなかったら絶対もっと時間がかかってた」と声を弾ませれば、セリーヌは「本当に助かるわ、あなたの知識と情報網には感服よ」と続ける。
ロウェンは剣を軽く持ち上げ、「戦闘は得意だけど、こうした下準備は苦手だったからなぁ」と笑っている。
ガルフォードは腕を組んで満足げな表情で頷き、「お前がいると、俺たちは無駄足を踏まずに済む」と静かに称賛する。
ラインは「皆さんこそ有能ですよ。僕はちょっとした道しるべを示しただけです」と柔らかく返す。
その声は裏で見せる冷静な計算とは違い、微かに優しく、パーティーとの絆を感じさせるものだった。
ミレイユはその光景を、他人事のように眺めている。
いつものラインはクールで無駄のない思考を巡らせ、裏社会への布石を打つ存在だ。
でも、パーティーといる時の彼は、どこか表情が柔らかく、リーネたちと笑顔を交わしながら会話を楽しんでいるように見える。
(羨ましい……?)
ミレイユは自分の胸の奥から浮かぶ言葉を振り払おうとする。
計画上、パーティーとラインが仲良くするのはむしろ有利なはずだ。
それは分かっている。
それなのに、彼女は、ああやって笑顔で接してもらっているリーネが少し眩しく感じる。
裏の世界で苦労している時とは別の、緩やかな波長で接してもらえるなんて。
人通りの少ない場所から、ミレイユはそれ以上近づかない。
フードの下で目を細め、心の中で小さく溜息をつく。
彼女はシャルロットやラインとともに裏で暗躍する立場にあり、そこには緊張と警戒が付きまとう。
だがパーティーは表側で、ラインから優しい笑みと手助けをあたりまえのように受け取っている。
しかし、ミレイユはそうした感情を表に出さず、再びフードを深く被る。
立ち止まるのはここまで。
彼女は踵を返し、静かにその場を離れる。
忙しなく動くシャルロットや準備中のラインが待つ裏側へ戻るために。
表のラインとパーティーを見たわずかな時間が、心を揺らす材料になることを、彼女は誰にも悟られないまま噛みしめる。
朝の陽光が、ラインとパーティーを優しく包み、ミレイユは遠くでその光景を瞳に焼きつけていた。
その夜、オルグリアの空には淡い月が浮かび、石畳の道端には、街灯の灯りが小さな輪郭を刻んでいた。
昼間、ラインとリーネが言葉を交わす光景がミレイユの心にわずかな影を落としている。
彼女は倉庫裏手の薄暗い路地で、物音ひとつない静寂を感じながら、フードの隙間から空を見上げていた。
「……気にすることはない」
小さく自分に言い聞かせる。
リーネがラインに近づこうが、それは計画上大した問題ではないはず。
パーティーとラインの信頼関係が深まれば、ますます状況は有利になる。
そう頭では分かっている。
それでも、胸の奥にもやもやとした感情が沈殿していく。
ミレイユはため息をつき、宿舎代わりの簡素な部屋へ戻る。
誰もいない狭い空間で、彼女はフードを外し、寝台に身を横たえた。
シャルロットは既に別の用事で出かけ、ラインも裏社会進出の準備に忙しい。
結局、ミレイユは一人、静かな部屋で、薄暗い灯りの中、目を閉じる。
胸のざわつきを振り払うように、眠りへと身を委ねる。
そして、夢が訪れた。
そこは闇色の小路。
湿った空気と腐食しかけた木箱が並ぶ裏通り。
数年前、ミレイユがまだ若く、今ほど警戒心を研ぎ澄ませていなかった頃の記憶が立ち上る。
彼女は、その頃も裏社会で生きていたが、今よりもずっと無防備で、人を信じる心が残っていた。
小柄な体躯を隠すためのフードはすでに被っているが、今ほど無表情ではない、微かに不安げな少女が、薄暗い路地で何かを待っている。
「本当に来てくれるんだよね……」
若い声が震えている。
その頃、ミレイユは一人ぼっちではなかった。
仲間だと思っていた誰かがいた。
その人物は「少し力を貸してくれれば安全な縄張りを用意する」と言っていた。
ミレイユは彼を信じて、取引の場所にやって来た。
しかし、時間が経っても約束の相手は現れない。
代わりに姿を現したのは、鋭い眼光を持つ見知らぬ男たちだった。
「あの人は? 約束したじゃない……」
懸命に声を上げても、返されるのは嘲笑だけ。
彼女は騙されていたのだ。
無用な情報を渡してしまったかもしれない。
やがて周囲が敵意を纏う前に、ミレイユはその場から必死で逃げ出した。
路地を駆け抜ける少女ミレイユ。
背後で冷たい笑い声が追いかける。
裏切られた痛みが胸を突く。
彼女は裏通りの細い道を、必死に駆け抜けた。
呼吸は荒く、喉が焼けつくような苦しさを伴う。
それでも止まれない。
踏み損ねた石畳の隙間が足を取ろうとしても、木箱や廃材が散らばる狭い路地が行く手を阻んでも、彼女は振り返らずに走り続ける。
しかし、無常にも背後では、男たちの足音が複数重なって聞こえていた。
「待てよ、お嬢ちゃん」
「逃げたって無駄だ」
嘲るような声が空気を切る。
ミレイユは唇を噛み、歯を食いしばる。
もう甘い言葉に騙されることはない。
あいつが必ず来ると信じて、あの裏切り者を待ち続けた自分が愚かだった。
ただそれだけのこと。
自分が信じた結果、情報を手渡してしまった。
それは取り戻せない。
曲がりくねった小径を慎重に進んだ先で、再び静かな気配が迫る。
彼女は疲労と緊張で息を潜め、次の一歩を踏み出せずにいた。
(もう少しでこの区画を抜けられるのに……)
地図もない、支援もない。
若きミレイユは、頼るべき誰かがいるなどと考えられない。
裏切られたばかりの心はすでに冷え切り、足元は震え、体は限界に近い。
だが、敵の気配は確実に近づいてくる。
突然、足音が路地の入口を塞ぐように響き、ミレイユは反射的に身を翻すが、逆方向からも鋭い眼光が光り、彼女を囲む形となる。
両側に迫る人影、それぞれが闇に溶け込みながら微笑んでいるようだ。
(これで終わり……?)
彼女は唇を噛む。
逃げ場などない。
狭い路地、抜け道は皆塞がれた。
ほんのひとかけらの信頼が砕かれた今、あらゆる助けがないことを痛感する。
もし叫んでも、誰も来ないだろう。
ここは裏社会の闇が濃い区域。
弱者に手を貸す者などいない。
彼女は意識が遠のくような感覚を覚える。
弱音を吐かないと決めたが、何もできない。
この暗闇の中、ただ凌辱と死が待っている。
諦め、絶望、すべてが冷たい刃となって胸を突く。
その瞬間、薄い刃の光が路地の片隅で揺れた。
男たちが短く呻き、何かが闇を裂く音が響く。
ミレイユは一瞬理解できず、ただ立ち尽くす。
「ここは通さないよ。彼女のことは見逃してもらおうか」
静かで穏やかな、それでいて圧倒的な自信を宿した声が路地に満ちる。
闇の中から現れたのは、今より少し若いライン。
フードや仮面などなく、控えめな装いで、だが目には研ぎ澄まされた光が宿っていた。
彼が指先で軽く示すだけで、男たちは怯んだように後ずさる。
「誰だ……!」
苛立ちの滲む問いかけにも、ラインは穏やかに微笑むだけ。
男の一人が低く唸り、爪先を小刻みに動かす。
仲間たちも周囲を睨み、ミレイユとラインを挟み撃ちにしようと構える。
すでに退路はなく、彼らがこの好機を逃すはずもない。
ミレイユは身体が強張り、絶望が胸を突き上げたが、ラインは微笑んだまま少し首を傾げる。
「見逃しちゃくれない、か。まあ、想定内かな」
ラインは懐から小さな革袋を取り出す。
それはごく普通の冒険者が持つ道具袋に見えるが、彼はそこから細い金属線や、握りこぶし大の小道具を素早く選び取る。
「何だそりゃ?」
男の一人が訝しむ間もなく、ラインは指先で金属線を巧みに弾き飛ばした。
床に撒かれた数粒の金属球がコロコロと転がり、追手たちの足元に絡むように集まり、奇妙な摩擦で足を滑らせる。
「ぐっ……なんだこれ!」
先頭の男が声を上げ、転倒の拍子に手を突いた途端、ラインが用意していた小さなボタン状の器具が床で微かな音を発した。
次の瞬間、薄い煙が立ち上り、男は目をしばたたきながら後ずさった。
「くそっ、煙幕か!」
別の男が慌てる間に、ラインはさらに別の道具を取り出す。
小さな鉄爪が仕込まれたリング状の器具を指先に嵌め、それを投げるように相手の足元へ滑り込ませる。
刺さらない程度の微細な棘だが、踏めば痛みと違和感で踏み込めない。
「痛っ……な、なんだこの棘!」
足元を取られた男がバランスを崩す。
「続けて」
ラインは低く囁き、自分の周囲に生物の体液を嫌う特殊な匂い袋を撒く。
小さなハーブと薬品を組み合わせたもので、嗅覚を頼りにする下層の追手にはたまらない刺激だ。
彼らは鼻を押さえ、飛び道具を構えようとしたが、そのときラインは素早く小さな反射鏡を取り出し、路地に差し込む微かな光を集めて相手の眼を一瞬眩ませた。
「おのれ……卑怯な!」
最後に残った男が狼狽し、完全にペースを乱されている。
ラインはそこへ、粘着性のある樹脂玉を足元へ転がす。
踏み込んだ男の靴底がべったり粘り、まともに動けなくなった。
「僕は別に正面から戦うとは言ってないよ」
ラインは穏やかな声で言う。
「彼女を追い詰めるような連中に、正々堂々やる義理はない」
こうして、罠ではなく、すべてラインが持ち歩いていた簡易の道具や小細工だけで、追手たちは足元を救われ、視界を奪われ、体勢を崩され、まともな反撃もできずに崩れ落ちる。
彼らは理解できないまま敗北を味わい、逃げるどころか再反撃する力さえ失う。
ミレイユはただ呆然とその光景を見つめる。
さっきまで死を覚悟した絶望の中にいたのが嘘のようだ。
ラインは彼女を見やり、柔らかな微笑みで問いかける。
「もう大丈夫だよ。怖かったろう?」
絶望の底から救い上げるかのような温かい声が、冷え切った路地に響く。
彼がどうして助けてくれるのかミレイユにはわからない。
ただ一つ確かなのは、今まさに絶望の底で助からないと思った瞬間に、ラインが現れ、華麗に追手を撃退してみせたということだ。
滴る冷汗、震える膝、それでも彼女の胸には小さな光が灯った気がする。
もう二度と人は信じまいと決めた彼女にとって、ラインの出現は、世界がまだ捨てたものではないと囁く奇跡のような出来事だった。
ミレイユはハッと息を飲んで目を開けた。
汗がじんわりと額に滲み、寝台の上で乱れた呼吸を整える。
今いるのは暗い倉庫の一室、微かな月光が差し込む狭い部屋。
自分が見ていたのは過去の記憶——夢の中、あの夜、絶望の淵でラインが現れた光景だ。
ミレイユは息をついて、フードを指で軽くなぞる。
あれ以来、ラインはずっとそばにいてくれた。
彼はシャルロットとともに裏社会での礎を築き、ミレイユに安定した任務と保護を与えてくれた。
人生ではじめて人から助けられ、それ以来、ずっと一緒にいる。
裏切られた過去を抱えた彼女にとって、ラインたちが築いた安定と信頼は、心地よく、安心できる場所となった。
だけど……
最近、彼がリーネと仲良くしているのをよく見る。
表舞台でレイヴンクロウ隊と接する際、ラインは穏やかでゆるい表情を見せる。
冷静でクールな“裏の顔”を知るミレイユからすれば、リーネが見ているラインは、まるで別人のように柔らかい笑みを浮かべる“表の顔”だ。
(あの柔和な表情を思い浮かべると、胸の奥で妙な波紋が広がる気がする。
複雑な感情がせり上がり、集中が乱される。
何度も“計画上問題ない”と頭では理解しているのに、その笑顔が自分以外の相手に向けられるのが、気持ちに小さな棘を残していくみたいだった)
ミレイユは自分に言い聞かせる。
朝を迎えれば、また裏仕事が待っている。
ラインもシャルロットも、裏社会での地盤固めに忙しいはずだ。
余計な感情を表に出して足を引っ張ることはできない。
東の空が薄明るくなり、オルグリアの一日が始まりかけている。
ミレイユは寝台から起き上がり、フードを整え、朝の準備にとりかかった。
信頼できる仲間がいて、安定した生活がある。
あの絶望の夜からずっとラインは私を見てくれている。
そう、だから、些細なざわつきなど振り払えばいい。
(私はミレイユ。裏社会で生き抜くための刃として、計画を進めるための歯車として働けばいい。それで満足だったはず……だったのに、どうしてこんな気持ちになるのかしら)
疑問を抱えつつ、彼女は静かに身支度を整える。
人を信じなかった過去があり、今はラインたちと共にある現在がある。
これからも歩いていけるはず。
朝の冷たい空気を胸一杯に吸い込み、彼女は扉へと手をかけた。