順応
オルグリアの朝は、まだ薄い霧に包まれていた。
昨日の雨が石畳を洗い、路地には微かに湿った空気が残る。
その中を行き交う人々の足音は柔らかく響き、街は静かに目を覚ましつつある。
そんな穏やかな空気の中、Aランクパーティー「レイヴンクロウ隊」は、既に活動を開始していた。
彼らは領主からの大きな依頼の下準備期間中で、小規模な任務を手際よく片付け、街の信用や名声を保とうとしている。
近隣村との交易品護衛や、街道のならず者対処――どれも派手ではないが、評価を積み重ねるのに有効な依頼だ。
これらを円滑に進めるには、的確な指示が欠かせない。
その役割を担うのが、“臨時参謀”のラインである。
「ラインさんが言った通りだな 北回りルートを使えば辻待ちに遭わなかった」
ロウェンが安堵の笑みを浮かべる。
「私も驚いたわ 市場での交渉もラインさんの助言通りに進めたら、すんなりまとまったわ」
セリーヌは軽やかな笑みを浮かべる。
ガルフォードは腕を組んで静かに頷く。
「俺たちは戦闘や危機対応は得意だが、細かな交渉や情報収集は苦手だから助かる」
治癒師リーネも微笑む。
「ラインさんはまるで先回りして道筋を整えてくれるみたい 本当に助かるわ」
パーティー内でのラインへの信頼は揺るぎない。
だが、彼らは知らない。
ラインが一人ですべてを行っているわけではなく、裏で噂操作を担うシャルロット、諜報・偽造を担うミレイユが支えていることを。
パーティーは「ライン一人で全てこなせる」と思い込んでいる。
日が暮れ、パーティーは小依頼の報酬で必要物資を整え、ラインへの報告を考える。
リーネは「ラインさんに報告しようか」とはしゃぐが、ガルフォードは「今すぐでなくても」と苦笑する。
ロウェンとセリーヌは微笑ましく見守る。
誰もがラインに依存し、その存在を崇めていた。
同じ頃、街外れの倉庫ではシャルロットが集めた情報を吟味していた。
「ライン、裏の方はどう動く? “姿なき黒幕”がいるって話が少しずつ出始めてるわ」
彼女が軽い調子で尋ねると、ラインは指先で机をトントンと叩く。
「いい傾向だね 今はまだ小さな影響力でいい いずれ奴隷商や密売人を裏から潰し、利権を手中に収めたい そのためには……実行部隊が必要だ」
部屋の隅で聞いていたミレイユが、フードの影から視線を上げる。
「新しい仲間を入れるの? 私は反対 人が増えれば裏切りのリスクが高まる」
声は冷静だが、その底には淡い警戒心が滲む。
「まあまあ、ミレイユ」
シャルロットが微笑む。
「ラインが選ぶんだから大丈夫でしょ むしろあなたの警戒心は仲間選びの役に立つわ」
ミレイユは目を伏せる。
彼女には過去の経験から人を増やすことへの不安があるのだろう。
ラインは穏やかに応じる。
「慎重にやるよ、ミレイユ 君が納得できる相手を用意する 今は情報戦で下地を作る段階だし、2人には今まで通りサポートしてほしい」
そう言いながらもラインは腕利きの傭兵や戦士たちの情報を手帳に記し、候補を吟味している。
「ミレイユには悪いが闇社会で使える武力が必要だ」
彼は静かに呟く。
それから数日がたったある日――
ミレイユはいつものように宿舎代わりの簡素な部屋を出て、裏路地を抜ける。
隠れるようにして通りを渡り、人波が薄い場所から、ラインと「レイヴンクロウ隊」を遠巻きに見下ろせる路上の一角へと足を運んだ。
そこは広場の外れ、小さな露店や人混みを背後に控え、やや高低差のある場所。
ミレイユはフードを深く被り、遠くにいるラインたちを見つめる。
ラインはいつもの涼やかな面差しでパーティーと話していた。
その顔は、裏で見せる鋭い光を秘めつつも、穏やかで緩やかな笑みを浮かべているように見える。
リーネが笑顔で何かを話すと、ロウェンやセリーヌも明るく応じ、ガルフォードも微笑ましい視線を送る。
ラインはそれを心地よい調子で受け止め、時折頷いたり、肩をすくめるような仕草を見せたりしている。
彼らは小規模な依頼を成功裏に終わらせたばかりなのだろうか。
リーネが「この前のやり方、とてもスムーズだったわ ラインさんがいなかったら絶対もっと時間がかかってた」と声を弾ませれば、セリーヌは「本当に助かるわ、あなたの知識と情報網には感服よ」と続ける。
ロウェンは剣を軽く持ち上げ、「戦闘は得意だけど、こうした下準備は苦手だったからなぁ」と笑っている。
ガルフォードは腕を組んで満足げな表情で頷き、「お前がいると、俺たちは無駄足を踏まずに済む」と静かに称賛する。
ラインは「皆さんこそ有能ですよ。僕はちょっとした道しるべを示しただけです」と柔らかく返す。
その声は裏で見せる冷静な計算とは違い、微かに優しく、パーティーとの絆を感じさせるものだった。
ミレイユはその光景を、他人事のように眺めている。
いつものラインはクールで無駄のない思考を巡らせ、裏社会への布石を打つ存在だ。
でも、パーティーといる時の彼は、どこか表情が柔らかく、リーネたちと笑顔を交わしながら会話を楽しんでいるように見える。
(羨ましい……?)
ミレイユは自分の胸の奥から浮かぶ言葉を振り払おうとする。
計画上、パーティーとラインが仲良くするのはむしろ有利なはずだ。
それは分かっている。
それなのに、彼女は、ああやって笑顔で接してもらっているリーネが少し眩しく感じる。
裏の世界で苦労している時とは別の、緩やかな波長で接してもらえるなんて。
人通りの少ない場所から、ミレイユはそれ以上近づかない。
フードの下で目を細め、心の中で小さく溜息をつく。
彼女はシャルロットやラインとともに裏で暗躍する立場にあり、そこには緊張と警戒が付きまとう。
だがパーティーは表側で、ラインから優しい笑みと手助けをあたりまえのように受け取っている。
しかし、ミレイユはそうした感情を表に出さず、再びフードを深く被る。
立ち止まるのはここまで。
彼女は踵を返し、静かにその場を離れる。
忙しなく動くシャルロットや準備中のラインが待つ裏側へ戻るために。
表のラインとパーティーを見たわずかな時間が、心を揺らす材料になることを、彼女は誰にも悟られないまま噛みしめる。
朝の陽光が、ラインとパーティーを優しく包み、ミレイユは遠くでその光景を瞳に焼きつけていた。
その夜、オルグリアの空には淡い月が浮かび、石畳の道端には、街灯の灯りが小さな輪郭を刻んでいた。
昼間、ラインとリーネが言葉を交わす光景がミレイユの心にわずかな影を落としている。
彼女は倉庫裏手の薄暗い路地で、物音ひとつない静寂を感じながら、フードの隙間から空を見上げていた。
「……気にすることはない」
小さく自分に言い聞かせる。
リーネがラインに近づこうが、それは計画上大した問題ではないはず。
パーティーとラインの信頼関係が深まれば、ますます状況は有利になる。
そう頭では分かっている。
それでも、胸の奥にもやもやとした感情が沈殿していく。
ミレイユはため息をつき、宿舎代わりの簡素な部屋へ戻っていった。