【前編】人には言えない2人だけの秘密と楽しみ。地上に舞い堕ちた歌姫のラフィナ
僕とラフィナは別邸に2人だけで住んでいた。
何故かというと、人には言えない秘密があり、人には言えない楽しみを共有しているからだ。
僕はプレトリウス家の次男で、しがない貴族の一員だ。
美味しいものが大好きで、美食家として名を馳せている。
魔法の才能もあり、僕は食べたことのある食べ物や飲み物を生み出すという珍しい魔法をあつかえた。
1度口にしたものは必ず覚え、魔法で完璧に再現することが出来た。
その特性を活かした仕事にもありつけていた。
ワインのテイスティングを求められたり、新進気鋭の料理人と仲良くなって、彼らの料理についての解説を綴った本を出版したりしていた。
すると、貴族のパーティでのメニュー決めを任されたり、少人数の集まりに料理やワインを振る舞うために呼ばれたりもし始めた。
そうやって仕事の幅が広がると、美味しいものに出会える機会もどんどん増えていく。
好奇心が赴くまま美味しいものを追い求めるうちに、今はある飲み物の虜になってしまっていた。
この飲み物だけは、魔法で再現することが出来なかった。
そのため、なおさら狂おしく求めてしまう。
ラフィナはセイレーンの血を引く美しい女性だ。
柔らかな薄い茶色の髪に、トロンとした優しい垂れ目。
その瞳は、太陽に照らされて輝く海のようなエメラルド色をしていた。
彼女のぷっくりとしたピンク色の唇から紡がれる歌声には、セイレーンの不思議な力が宿っていた。
僕はその歌声が大好きで、毎日のように歌ってもらっている。
別邸のこぢんまりした食卓に、今日も沢山の料理が並ぶ。
もちろん、僕が用意したものだ。
僕とラフィナは向かい合って席につき、いつものように2人だけの晩餐を楽しんでいた。
食卓の上には空のワイングラスが2つ。
僕が呪文を唱えると、そのワイングラスが赤い液体で満たされる。
僕は1つを手に持ち、彼女の目の前に置いた。
「今日はラフィナの好きな銘柄の赤ワインだよ」
ラフィナはそれを手に取ると笑顔になった。
「クライヴ、ありがとう」
彼女は僕が生み出す料理やお酒が大好きで、毎日それはそれは幸せそうに食べたり飲んだりしていた。
中でも赤ワインに目がなくて、ラフィナはニッコリ笑うとグラスを傾けた。
赤い液体が波打ち、彼女の白い喉がゴクリと艶めかしく動く。
「美味しい〜!!」
プハーッ! と豪快なリアクションをしたラフィナが、ニコニコ笑い続ける。
僕は苦笑しながら、燻製したチーズが並んだお皿を差し出した。
ラフィナが今飲んでいるワインに、とても合う組み合わせだ。
それを知っているラフィナが目をキラキラ輝かせながら言った。
目線はチーズに釘付けのまま。
「クライヴといると、太っちゃいそうだね」
「……僕は構わないけど。それも抱き心地よさそうだし」
「あはは。じゃあ遠慮なく」
コロコロ笑いながら、彼女はチーズをフォークで刺した。
ゆらゆら揺れる蝋燭の光に照らされながら、僕たちの食事は進んでいく。
頬を赤く染めたほろ酔いのラフィナが、スクッと立ち上がった。
僕も立ち上がると、それを待っていたラフィナに手を取られ、隣の部屋へと歩きだす。
クスッといたずらっぽく笑う彼女に誘われるがまま、僕はついていった。
隣の部屋は、大きな窓に面した吹き抜けの部屋になっており、奥には3人掛けのソファが置かれていた。
ラフィナが部屋の真ん中で窓の外に向かって立つ。
カーテンが開けられたその大きな窓からは月明かりが差し込んでおり、ラフィナを優しく照らした。
彼女のためだけの、美しい夜のステージだ。
ラフィナは深呼吸するかのように、大きく両手を横に広げた。
僕はソファに深く座り、彼女の背中をうっとりと見つめる。
「〜〜♪♪」
ラフィナの美声が部屋に響いた。
彼女は両手を胸に重ねて、高らかに歌い上げる。
天に歌を捧げているようだ。
そんな歌の女神のようなラフィナの姿が、窓に反射して薄っすらと見えていた。
ラフィナのために、この部屋には定期的に防音魔法をかけてもらっている。
彼女が外の人を気にせず、自由に歌える環境を作ってあげるためだった。
観客は僕1人の贅沢な鑑賞会。
目の前には美しい歌姫。
僕は瞼を閉じると、その歌声を存分に堪能した。
変な所で恥ずかしがり屋のラフィナは、僕に背中を向けて歌う。
熱心に僕に見られると、たまらなく照れてしまうそうだ。
そんな様子が見たくなった時は、わざと窓際に移動してラフィナの顔を覗き込む。
歌う彼女が僕の視線に気付いて赤くなる様子を思い出してしまい、思わず口元が緩む。
ラフィナは歌うことが大好きだった。
長いあいだ歌わないと、萎れた花のように元気を無くす。
本当はいつでも歌っていたいほどらしい。
けれど、ラフィナはセイレーン。
その魅惑の歌声は魔力を帯びている。
彼女の歌は……人を惑わす。
もちろん、僕も。
僕は立ち上がると、ラフィナの背中に向かってフラフラと歩いていった。
歌が終わったのを見計らって、ギュッと後ろから抱きつく。
「今日の歌声もとても素晴らしかったよ。ありがとう」
僕は熱い吐息をラフィナの耳に吹きかけるように囁いた。
体が熱くて頭がボーッとする。
彼女に酔っている。
僕はラフィナの首筋にキスを落として尋ねた。
「…………いい?」
「フフッ。いいよ」
彼女は僕の方にくるりと向き直り、右手の小指の腹を上に向けて差し出してきた。
「今日はこの指で」
「…………」
僕は差し出された彼女の手をそっと握り、ゆっくりと口を開いて小指を咥えた。
僕の上の犬歯はよく尖っていた。
牙みたいでコンプレックスだったけれど、この時のための歯だったんだと今では納得さえしている。
その犬歯で、なるべく優しくラフィナの小指を噛んだ。
彼女の柔らかい指に歯の先が埋まり、口の中に求めていた甘美な味が広がる。
夢中になって飲んでいると、ラフィナの笑い声が聞こえた。
「いつも美味しそうに飲むね〜」
ラフィナを見ると、頬を染めてウットリとした光悦の表情で僕を見ていた。
彼女の血はとても甘くてまろやかだ。
どんな食べ物や飲み物よりも1番美味しい。
僕にとっては完成された究極の味。
ーー僕はラフィナの血の味の虜だった。
なぜかラフィナが歌ったあとの方が、血はより美味しくなった。
それを知ってからは、彼女の歌を聞いて惑わされた状態になっても、必死に理性を保って彼女の血をいただいた。
しばらくラフィナの血を味わった僕は、彼女の指から口を離した。
ラフィナの小指を名残惜しく見つめる。
以前飲みすぎた時に、ラフィナが貧血で倒れてしまったことがあった。
それからは必死に自分を律して控えるようにしていた。
そんな僕をラフィナがクスクス笑いながら見ていた。
彼女にキスしようとすると、僕が握っていない方の手で慌てて顔を押し返された。
「血の味がするからやだな。ワインを飲んで洗って」
ラフィナが僕の手を引いて、食卓へと移動する。
そして「はい」と飲みかけの赤ワインが入ったグラスを渡された。
「……これ以上飲むと、意識を保てそうにないんだけど」
僕は不平を言いながらもグラスに口をつける。
「じゃあ私も、もう一杯飲んでおくから」
「どういう理屈??」
「あはは」
だいぶ意識が混濁しだした僕を、ラフィナが手を引いて寝室へと誘ってくれる。
寝室の扉が閉まると、いきなり真っ暗な場所に来たため目が眩んで何も見えなくなった。
手を伸ばして夢中でラフィナを腕の中に閉じ込める。
目が暗闇に慣れ始めた時には、ラフィナをただ愛しい何かだとしか認識出来なくなっていた。
このどうしようもなく愛しい何かが、どうやったら喜ぶのかも不思議と分かっていた。
腕の中の可愛いくて柔らかいものが、楽しそうな笑い声を上げている。
僕はひたすらにそれを求めた。
ラフィナの秘密はセイレーンの血を引くこと。
僕との食事をこよなく愛し、歌って僕を惑わすことを楽しんでいる。
僕の秘密はラフィナの生き血が飲みたくなること。
ラフィナの歌声をこよなく愛し、彼女に惑わされることを楽しんでいる。
僕たちは、誰にも言えない秘密と楽しみを共有し、2人だけの世界をわざと彷徨っていた。
…………
ラフィナの綺麗なエメラルドの瞳を見つめていたはずなのに、目の前が暗闇に変わっていく。
彼女の歌で惑わされた時は、決まって現実と夢の狭間が分からなくなった。
ラフィナの肌の温かさを感じながらも意識が黒く塗りつぶされていき、僕はゆっくりと夢の世界へと入っていった。
ーーその日は僕とラフィナが出会う時の懐かしい夢を見た。