第七十三話◇森岡海
私はフラツキながら家へと帰った。目の前が暗い。気持ちは絶不調。
自室に入ろうとすると、隣から兄の声だ。
「うぉーい、おかえりぃ。月島くんは大丈夫だったかー?」
何を、この兄。私は兄の部屋を覗くと、顔はテレビゲームの方向のまま。
「何よ、何が大丈夫だってわけ?」
「え? いやぁ、世間では月島くんがさらわれたみたいになってるから、みんなから質問責めとかにあってなかったかなぁーと」
「大丈夫だよ。アイツはほとんど私の席に来てたし」
「ふーん。じゃ、よっぽど月島くんはお前に気があるんだな。好きなんだろーよ」
私はムカついた。こんなにモヤモヤしてるのに、兄の軽口。そんなわけないのに。
急に兄は振り返ってゲームを中断し、私に声をかけてきた。
「どうしたんだ。泣いてるのか?」
泣いてる? 私が?
私の体は無意識に硬直していた。そして、真っ赤になって、ポロポロと涙をこぼしていたのだ。
「月島くんと、ケンカでもしたのかぁ?」
私は崩れ落ちて、兄のヒザで泣いてしまっていた。兄はそんな私の頭を優しくさすってくれたのだ。
なんで、どうして?
思考がまとまらない。混乱している。
私は、私は、月島宙のことなんて、なんとも思ってないはずなんだ。それなのに、それなのに……。
気付くと、私はベッドで寝ていた。きっと兄が運んでくれたのだろう。やっぱり優しい兄だ。
私は半身を起こして、深くため息をついた。
月島くん、月島くん──。
彼を思うと苦しい。この思いはなんだろう。一條先輩は恋をすると幸せな気持ちになれると言った。
だけど私のは全然違う。
思ったとて、叶いはしない思いなのだ。相手は大富豪の御曹司。私なんか、一般庶民。格差があるもの。確かに由真の言うとおり、月島家と見合うのは北大路のような大金持ちだよね。
今は月島くんは、身近な私を頼ってるけど、私よりも仲良くなれるような人が現れたなら、すぐにそちらに行ってしまうだろう。
だからこそ苦しいのかもしれない。決して叶うことのない思いだから。
それからというもの、ボーっとすることが多くなった。月島くんが来て、私の機嫌を良くさせようとあれやこれやと話てくれたが、心は晴れない。
そんな折り、由真もやって来て『宙くんに対する態度が不遜だ。私こそが宙くんにふさわしい』とか言っていたが、本当にそうかも知れない。
私、どうしてしまったんだろう?
週末、月島くんが『急に父が来て大事な話をするらしい』と言って、ラケットを買いに行く話を延期してきた。
それにも心が重くなる。結局私、一緒にラケット買いに行くの楽しみにしてたのかなぁ?
ウジウジ、ウジウジ。
自室の机に向かい、勉強するでもなく突っ伏していると、スマホが着信を伝えた。
ポップアップには『月島ソラ』の文字。私はガバッと跳ね起きた。
深呼吸をして、受話器のボタンをタップする。
「もしもし?」
『海くん? ごめん。突然だけど、ウチまで来てくれる?』
「え? でも──」
そういいながら、私は立ち上がって上着を手に取っていた。
『もちろん車は用意したよ。もうすぐ着くと思う』
その言葉通り、階下から母のハイヤーが来たと言う呼び声。私はそれに応じて急いでハイヤーに乗り込んだ。
一体なんの話だろう。ハイヤーの窓の外を見ながら考えた。今日はお父さんが来て大事な話をするとかと言ってたけど……。
月島くんのマンションに付くと、お手伝いさんが一階に迎えに出てくれていた。一緒に最上階の月島くんの部屋まで行くと、何やら騒がしい。
お手伝いさんに通されたリビングには、なんと北大路由真と、その両親がいて、こちらを睨んでいた。
そこに月島くんが立ち上がって私の手を引いて叫ぶ。
「俺が愛しているのは海くんなんだ! そんな家同士の結婚なんて俺は決して受け入れない!」
え?
は?
うーん、これは?
えーと、多分だろうで整理すると、おそらく北大路家は、月島家に縁談を持ってきたのだ。
月島くんのお父さんは、それを月島くんに『婚約者が出来た』的なことを言って顔合わせとなった。
しかし、月島くんには心に決めた人がいるから、由真とは婚約者にはなりたくない。だから断ろう。何かいい手段はないか?
そうだ、海くんならば協力してくれるかも知れない。と、こう考えたと。
くー。月島宙め。やっぱりコイツはこんなヤツなんだ。私の気も知らずに。
つまりこれは月島家と北大路家まで巻き込んだ嘘告! 私はこれに『うれしい』などと喜んでてはいけない。
「ごめんね、海くん。海くんが最近俺に怒ってることは知ってる。でもね、俺にはキミだけなんだ。どん底の時に支えてくれた。金持ちになってもへりくだろうとはしなかった。あの時のままで付き合ってくれるキミが、キミが大好きなんだ。将来はきっと、きっと幸せにするよ。だからお願いだよ。父さんの前で俺のプロポーズを受けて欲しい。俺の婚約者になって欲しいんだ」
な~るほど。そうやればお父さんが縁談を持って来るのを避けれるし、自分に悪い虫がつくこともなくなる。
コイツの計略が分かった。ムカつくけど惚れた弱みだわ。ひょっとしたらそのうちに、心に決めた人よりも私を好きになってくれるかも知れないし……。
私はそっと月島くんの足を踏みつけた。彼は小声で『痛──』と言ったが、私たちは顔を見合わせて微笑みあった。嘘の笑顔で。
私は両家のほうへと向く。
「そうです。私たち愛し合ってるんです。恋人同士なんですよ。だからソラくんの申し出を受けたいと思います」
「海くん……。マジで。俺、俺、とっても嬉しいよ。なんて、なんて幸せなんだ……。今までの不幸が夢みたいだ」
「あっそう。じゃ、夢かどうか確かめるために頬をつねってあげるね」
「い、いやいい」
月島のアホは、私が振り上げた両手を必死に掴んで抵抗した。なかなかやるわね。ようやく私の性格が分かってきたみたいじゃん。
「わ、我が家はこれで失礼します!」
あ、北大路家の皆さんのことを忘れてじゃれあってしまっていた。由真とその両親は、私を睨み付けて出ていってしまった。お手伝いさんがお見送りに行ったみたいだけど。
月島くんのお父さんは、笑顔で私に北大路家の皆さんが座っていたソファーに座るように言ってきた。私が座ると、月島くんも笑顔で私の横に座り、私の手を取って自身のヒザの上に置いた。
オイオイ。てめえ、嘘フィアンセなのは認めてやるが、劣情の道具にだけはされんからな?
「宙はいい。キミは自身の部屋に行きたまえ。海くんと二人で話をしたい」
お、お父さま?
月島くんは、戸惑っていたものの言われるがまま立ち上がり私の手を名残惜しそうに放して出ていってしまった。
そこで月島くんのお父さんは笑顔のままで話し始めた。
「海くん。先週の騒動の時に宙の側にいたのでうすうすは気付いていたよ。キミと宙の関係はね」
「あ、はい」
「宙はあんな風に言うが、私は結婚に失敗しているし、近付いてくる女性は大抵そうだった。金目当ての人ばかりだったんだよ。だから女性は信じられん」
その顔は急に真剣になったので、私は少し怖くなってしまった。
「宙の母親はね、私の前ではとってもいい女性だったのだよ。献身的な良妻賢母だったんだ。しかしだね、回りは怪しいから調べろと言ってきたのだ。そんなハズはないと笑って探偵につけさせたよ。すると出るわ出るわ、不倫や使い込みの事実。私は精神が不安定になってぶっ倒れそうになりながらも、宙とのDNA検査を密かに行った。結果は間違いなく父親ではあったが、もう彼女を信頼することが出来なくなって、事実を突き付けて離婚することにしたのだ。だが法律ってのは恐ろしいもんで、そんな母親でも子どもは母親と一緒のほうがいいという判断になってしまうんだよ。あの時は悔しかったね。身を引き裂かれる思いだったよ。決して宙を飢えさせないように、よい暮らしをさせるようにと言って月に百万の養育費を出したが結果はあの通りだ。アイツはホストに狂って、宙は放ったらかし。あまつさえ父も分からぬ子を産んで、宙に世話をさせて養育費の持ち逃げ。まあ彩花は私になついてくれて可愛いが、一歩遅かったから二人とも餓死してたよ。あの小さな部屋でね。だからね、海くん──」
月島くんのお父さんは、真剣な目で私を見ながら言う。
「生半可な気持ちなら宙と別れて欲しい。キミたちはまだ成長途上の中学生だ。宙には、大人しそうなお嬢さんがいいかもしれない。それは私が見つけてやるつもりなのだ」
その言葉に、私の目からポロリと涙がこぼれてしまった。
月島くんと別れる──。前だったらなんとも思わなかったのに。今はこんなにも胸が押し潰されそうになるなんて。
月島くんが将来、私じゃない本当に心に決めた人とお父さんの前に挨拶に来たとき、このお父さんは今日の私のように、彼女に別れるよう言うに違いない。
それってヒドくない? 人の好きな気持ちを、騙されたくないから親が決めた人と結婚させるだなんて──。私は立ち上がって叫んでいた。
「そんな! あんまりですよ! この思いはどうしたらいいんですか!? 毎日、辛くて悲しい思いをずっと引きずれとおっしゃるんですか? お金でなんとかなされようとしても! 私は嫌ですよ! そんなことされても動じませんから!」
泣きながら、みっともなく泣きながらだった。その時、後ろの扉が開く。
「海くん!」
「ソラ……。私、私、ね──」
駆け寄ってくる月島くんの胸に倒れる。この感じ、覚えがある。あれはお兄ィの──。
ああ、やっぱり。月島くんは、兄に似てるんだ。私の大好きな、大好きなあの人に──。




