第十七話
一條家の庭。バーベキューのお片付けをした後で、俺は一條さんに手を握られたまま立ち尽くしていた。
俺は一條さんの言葉にただただ白目だった。瑠菜、恐ろしい子……!
一條さんの偏差値はおそらく俺とは十五は違う。たしかに俺たちの学校は進学校。俺のそもそもの夢は小学校の先生だ。
子ども好きな俺は、たくさんの子どもたちに囲まれてホイッスルを吹きながら校庭を駆け回る。
そんなイメージだった。だから、教員免許がとれるならばどの大学でもいいと漠然と思っていたのだ。
「る、瑠菜はどこの大学にいくのかなぁ~……」
「瑠菜はねえ、一応親からはM大を目指せって言われてるけど」
え、え、え、M大ーー!!
『ヒャッハーー!! ここは通さねぇぜ』
な大難関大学。それは狭き門。官僚の登竜門。僕なんて受からないモン。言うてる場合か!
「じゃあさ、リビングでイチャイチャしようよう」
しかし、そんなことを言う一條さんからすり抜けて、俺は力なく一條家の門まで歩みを進める。
「ちょっと空きゅん! どこいくのお!」
「はは、帰って勉強しなくちゃ……。ご馳走様でした……」
そう、立ち止まっているわけにはいかない。親に言って塾とかにも通わせてもらわないと。
一條さんと夢のキャンパスライフ。そんなものは夢のまた夢になってしまうのだから。
さ、さすがだよ、一條瑠菜。
くそ! だがやってやる! キミにはそれだけの魅力がある! 俺はキミとの未来のために駆け上がってやる……! 難関、無理難題、艱難辛苦、全てを乗り越えて──。
俺は家に帰り、早速参考書を開いた。んー、さっぱりわからん。基礎が分からないんだから、どうころんでも分からんよな。
逆に基礎を学ばなくちゃならないのかも知れん。俺は妹の海の部屋のドアを叩いた。
「おい、いるか?」
「どうぞ。ありゃ? こりゃひどい、さんざんに一條先輩のパパに殴られたのねぇ。おかあさーん、救急車一丁!」
「しみじみ言うな! これは元々の顔!」
「あ~、元々の。じゃどこ殴られたの?」
「殴られてなどおらん。逆に交際を許して貰った」
「へー、よかったじゃん。で?」
「中学生の教科書を見せてくれ」
「なんで?」
「基礎が分からんからだ」
「別にいいじゃん?」
「そうもいかん。一條さんと同じM大を受験するからだ」
すると、妹は椅子から滑り落ちて床に伏してしまった。
「笑え。笑い終わったら教科書を貸してくれ」
「ギャハハハハハハーー!!」
くぬう。やっぱりコイツは悪者だ。しかも下っぱの。悔しい。下っぱに笑われるなんて。
ようやく涙を拭きながらムクリと起きてきた。
「じゃあさ、いい先生に習えばいいじゃん」
「どなただ? そんな先生、俺は知らん」
「一條先輩だよ。同じ大学いくんでしょ? 何よりも身近で、勉強できる人じゃん」
「な、なるほど……」
それもそうだ。俺と違って一條さんは頭がいい。なんでもっと上の進学校を狙わなかったのか不思議なくらい。
俺が一條さんと付き合い出してからピイピイ言いながらやっていた宿題を『昨日の宿題簡単だったね!』と平気な顔をして言ってくる女。
しかし彼女は恋人。それに聞くなどやぶさかではない。俺はすぐさま一條さんに電話をした。
「もしもし? 空きゅん?」
「ああ、瑠菜? なにしてた?」
「何にもしてない。何にもしてなかったよ。空くん、瑠菜寂しいよお……」
お、おう……。なんという可哀想な……。この俺が帰りましたから、寂しくなりましたよという、罪悪感を誘う戦法! そ、その手には乗らぬ。
「あの……お父さんは?」
「寝てる。だから来てえ~」
「いや違う。勉強したいから教えて貰いたいと思って」
「お勉強?」
「うんうん」
「空きゅんのおうち?」
「うんうん」
「じゃ、今行くね!」
電話が切れた。そしてすぐに呼び鈴の音が聞こえた。おおう、早すぎる。物理の法則に反してない?
玄関のドアを開けると一條さんだった。小さいバックを抱えて、泣き腫らしたような目をしていた。
ウソ。泣いてたの? そんなに?
「瑠菜、空きゅんに嫌われたかと思ったよう」
そう言って、俺の胸に倒れてきた。なに、この可愛い生き物。
「そ、空、どなたさん?」
こ、この声は、当家の最高権力者、ミセス森岡京子44歳、我が母!
「あ、母さん、このかたは……」
「あ空くんのお母さんですか私は一條と申します一條瑠菜です空くんとはお付き合いさせていただいております本日突然押し掛けたのは空くんと勉強したいと思ったからです宜しくお願い申し上げます」
一息! なんですか、この饒舌は!? そんですべて母に質問の機会を与えない、余白も澱みもない自己紹介。それに、さっき母がいなかったときは確かに俺の胸に倒れていたはずなのに、そんなことおくびにも出さない。さすがだぞ、一條瑠菜!
俺は、一條さんのお父様との約束もあるので、リビングに通して勉強会を始めた。勉強会と言っても、俺が参考書を開いて、分からない部分を教えて貰うというだけ。
その間、一條さんはニコニコしながら俺のペン先を見ていた。
うちの家族はリビングに来るわけもいかず、狭いオープンキッチンからこちらを覗いていたが、一條さんが暇そうだと思ったのか、母や父はそこから質問していた。
それに一條さんはハキハキと流れるように返していた。すごい。こういうところが才女だと思う。
いつもなら『空きゅーん、しゅきしゅき、キシュしてよおー』とか言うのに、それは俺だけへの行動なのだと分かる。
うちの母はため息をついて一條さんへと言った。
「ホントにうちの息子は、口ばっかりでねえ。一條さんが勉強見てくれると助かるよ。私らは帰りが18時過ぎちゃって居ないけど、遠慮せずに上がって勉強見てやって貰えるかい?」
「え? 本当ですか? そちらがご迷惑でなければ私は大丈夫です」
「あら助かる。じゃよろしくね。キッチンとかにも入って冷蔵庫の中身とか使ってもいいからね。ただし、後片付けはすること」
「はい。了解しました!」
みんなで笑って和やかな雰囲気。しかし一條さんがこちらに視線を戻したその時、キラリと目に光が宿ったような気がした……。




