第十五話◇一條瑠菜
私はそっと教科書を立てて、廊下側の席に座る男の子を見ていた。その人の名前は森岡空くん。はうううう。私の想い人だ。
森岡くんとは私が中三の時にこちらに転校してから出会った。家は近所だが話したことはない。その頃は、あまり目立つ人ではないと言う印象だったし、話したこともほぼなかった。
ただ、帰り道が同じ方向だったので、前を歩く森岡くんの背中を何度も見かけた。そして、彼が道すがらゴミを拾って近くのゴミ箱に捨てる姿を何度も目撃した。
重そうな買い物袋を持つおばあちゃんを手伝ったり、目の見えない人の肩を支えて歩みをサポートしたり、車椅子を押してあげたり……。
それは彼にとっては、なんでもない日常で、ほとんど無意識という感じだったが、感心していた。ああいう人がいるから、些細なことに気がつける人がいるから、世界はいいほうに回っているんだろうと思っていた。
転校してきて、数ヶ月経ったころ、告白を受けた。同級生で、女子からの人気の高い人。たしかに、スラリとしてカッコいいと思える人だった。
「転校して来てからずっと見てました。付き合ってください」
そう言われても、この人のことよく知らない。外見だけ見ればカッコいいのだろうけど……。
告白の最中だっていうのに、よく知ってる人と言えば、で思い当たるのは森岡くんしか出てこなかった。頭の片隅に小さくいた森岡くんの存在が、少しずつ大きくなっていったのはこの頃。
私は目の前のイケメンくんに頭を下げた。
「ごめんなさい。好きな人います」
「そっか……」
寂しい返事を受け取って、少しばかりの罪悪感。それを抱えて家路に着いた。
私は胸の中で反芻していた。『好きな人います』『好きな人います』『好きな人います』。
少し、早足気味に歩いていた。心の中でなにかを探している。あは、見つけた。
森岡くんの後ろ姿だった。私の顔が笑顔になる。彼は泣いている迷子をあやして、その子の親を探していた。
あ、これって恋なんだ。初恋なんだって、気付いた。
森岡空くん、森岡空くん。私はまるで眩しく輝く天使を見るように直視出来なくなって行った。
授業中に、気付くとノートの端に『森岡瑠菜』と書いていたり、相合い傘に自分と森岡くんの名前を書いていたり。人に見られたら相当ヤバい。
自分の心が森岡くんに、支配されてしまったことに気付いた。
彼を見ると電撃が走る。彼とお話したい。彼に触れたい。ずっとずっと思って、高校受験まで来てしまった。
彼は近所の進学校に進路を決めていると知ったので、私は一も二もなくそこにした。そして二人とも合格。ああ、これは運命なのだ。森岡くんと私は目に見えない何かで通じあっていると思った。私の原動力は森岡くんの存在だった。
帰り道も一緒だし、ひょっとしたら一緒帰れちゃったりする? なんて悶えていたがそんなことが起こるわけない。第一、私が照れちゃって話せない。
高二の春になり、森岡くんと同じクラスとなった。私は授業中に彼のほうをそっと盗み見する。そんなことをしていると、たまに彼と目が合う。
私の胸は高鳴った。森岡くんも私のことが好きなのではないかと期待した。
私はすぐに想像してしまった。彼と顔を近づけあってするキスを。そして裸で抱き合う姿を。彼の顔が、腕が、胸が、唇がそこにあって、私を激しく抱いている……。
あ、あ、やっぱりそうだ。あの人は私の性的対象で、そんなことをしたい人なのだと。
私の胸は高鳴った。同じクラスの廊下側の席の彼を横目で見る。ドキドキ、ドキドキ。
かああ。
やだ。顔が赤くなる。私はすぐに視線を反らした。あの、優しくて、困った人を放っておけない森岡くんも、私とエッチなことしたいのかなぁ……?
「ねえ瑠菜?」
ドキイ! 声の方向を見ると友人の美羽ちゃん。私は相当に焦った。顔は真っ赤だったと思う。
「どうしたの?」
「ひあ! ……いや、あの~、あのね?」
「なに?」
「あの、その、初めてって、痛いのかなぁ……、て」
「え!?」
彼女は目を丸くしたが、だんだんとそれが柔らかくなるのが分かった。彼女には付き合っている人がいるし、すでに体験済みだということは知っていた。
彼女は照れながら言う。
「まあ痛いけどぉ、その、好きな人と繋がれたっていう思いもあるし、まあすぐに忘れる、かなぁ~」
「そ、なんだ……」
「どうしたの? この前も告白断ってたのに。好きな人でも出来た?」
「うん……。てかいる。ずっといる」
「ウソ!」
彼女は、顔を近づけて笑顔のまま聞いてくる。
「この学校?」
「……うん」
「え、同じ学年?」
「……そう」
「同じクラスだったりして?」
「……そうなの」
彼女は楽しそうに身悶えしていたが、私も話したかった。この長く思い続けた気持ちを誰かに話したかったのだ。
「えええ~! ウソ、同じクラスなのぉ~!?」
彼女は叫び気味だけど、核心の部分は小声だった。そこに、同じく友人の国永夢唯ちゃんもやって来て、私の好きな人に興味津々だった。
私は照れて言葉に出来ない。彼女たちが一人ずつ五十音順に並んだ出席番号の男子の名前に読み上げることに対して、小さく首を横に振るだけ。
そしてそれは『ま行』へと入り、その時がやって来てしまった。
「矢車くん?」
私は心の中で黒板までヘッドスライディングでズッコケていった。
二人は私が首を横に振らないことで矢車くんだと確信したようだが、遅れて思いっきり首を横に振った。
「あ、あの、二人とも、一人抜かしたよ?」
「え?」
二人とも相当考えて、教室中をぐるりと見渡した後に、あー、みたいになってから私に顔を向けた。
「じゃ森岡くん?」
「ひああ!」
私は真っ赤になって震えた。当てられたと思ったら、二人ともため息をついたのだ。
「ど、どうしたの? 二人とも」
「あのっさあ、なんで瑠菜がそこまでレベル落とさないといけないわけ? 他にもいい男なんていっぱいいるし、森岡くんって……」
「そうだぞ。あんな筋肉のない男などやめておけ」
私は逆にそれに目を丸くした。あんなに魅力的な人に気が付かないなんて、どうしてだろう? 私にはその価値観がまったく分からなかった。
私が黙って驚いていたので、美羽ちゃんも驚きながら聞いてきた。
「え? マジ? マジで森岡くんなの?」
「マジ……。マジだよぉ~。なんで二人とも森岡くんの魅力に気が付かないのお? 森岡くんは私の天使なんだからあ~」
私はうつむきながら、自分の心の中を話すうちにドキドキと胸は高鳴っていった。
すると二人の目が輝き出す。
「じゃあさ、言っちゃいなよ」
「そう。告白してしまえ!」
と、二人で捲し立てるものの、私は二人と視線を合わすことが出来なかった。
「で、でも、森岡くんに好きな人がいたら、もうおしまいだよお」
「なに言ってんの! あんたに告られたら大丈夫だって!」
「そんなあ。私、森岡くんがこの学校に来るから受験したのに、フラれたらもう生きて行けないよお……」
「う、うそ!? そんな前からなの?」
「そう……。だからいいの。こうして影から見てるだけで……」
そう言って、また森岡くんの横顔を見る。そこで二人は私の背中を叩いた。
「じゃあさ、付いてってあげる!」
「フラれたとしたって、私たちがついてる! それに、何回フラれたって、何度も挑戦したっていいんだ!」
そう励まされて私も勇気が湧いてきた。
そうだ。フラれたって、振り向いて貰えるまで、何度と告白すればいい。名刺がわりに顔を覚えて貰おう程度に告白……ッ!
私はふんす! と鼻息を鳴らした。




