後編
「推論が成り立つって言うんですか」
勇作はその口調に思わず不信感を滲ませる。
「俺がさっき喋った、あの情報だけで?」
「成り立つよ」
林部長はあくまで穏やかに答える。
「それって、漆山、津田、甲斐の三人の誰かを指すって意味ですよね」
「うん」
林部長は前を指差す。
「ほら。信号、青」
「あ、はい」
車を発進させながら、勇作は横目でちらりと林部長を見る。
「どういうことですか、教えてくださいよ」
「どうしようかなあ」
「意地悪しないでくださいよ」
「冗談だよ」
林部長は笑いもせずにそう言うと、ぼそぼそと説明を始めた。
「被害者の書き残したあれ、確かに鳥居のマークに似てるけどな。違うぞ」
「違うんですか?」
「開く」
「は?」
「開く、だよ。門構えの中に鳥居みたいなの書くだろ」
「ああ、漢字の話ですか。はい」
勇作は頭の中にその漢字を思い浮かべる。門構えの中に、鳥居のマーク。
いや、鳥居のマークとは少し違う。二本目の横棒が左右に飛び出しているのだ。
「開くっていう字の、門の中の部分だっただろ、被害者が書き残してたのは」
「そう言われてみると」
勇作はその形を思い起こす。
「現場のあの血文字、二本目の横棒も少し出てたような……」
とはいっても今際の際に、血で乱雑に書かれたものだ。
はっきりしない。
「俺も写真で見たけどさ。出てるか出てないかは正直微妙なとこだったな」
林部長は言った。
「ま、どっちともとれるってことだ。でもとにかく、『開く』って字は門構えの中にそれを書くだろ?」
「そうですね、そう書きます」
「中国では、簡体字って言って日本とは違う形の漢字が使われてるのは知ってるだろ。簡体字だと門構えを書かずに、中のこの鳥居みたいなのだけで『開く』って漢字なんだよ」
「そうなんですか? え、中国語? 被害者は中国語なんて喋れたんですか」
「被害者はよく海外出張に行ってたって秘書が言ってたろ。この字には日本語と同じ『開く』っていう意味以外に、機械とかのスイッチの『オン』っていう意味もあるんだ」
「はあ」
「だから、どっちがオンでどっちがオフか分かりづらいスイッチだと、オンの方にこの字が後から書き添えてあったりするんだ。中国語が喋れなくても、漢字が分かれば何となく意味は分かるだろ、『開く』は『オン』なんだなって。被害者がこの字を覚えてたとしても不思議じゃない」
「はあ……その、スイッチのオンは分かりましたけど」
勇作は言った。
「それが犯人とどう結びつくんですか」
「察しが悪いな」
林部長は背広の胸ポケットから自分のスマホを取り出すと、何かを入力した。
「最近は外国語の発音もスマホですぐ聞けるんだから、便利だよな」
そう言って、スマホを勇作に向ける。
「これがその鳥居みたいな字の発音だ」
スマホから、女性の声でその単語が発音された。
「カイ」
少し間延びしたような一本調子で、スマホはそう言った。
日本語の「開」の音読みと同じなのだ。
「カイ……」
そう鸚鵡返しして、勇作ははっと気づいた。
「そうか、甲斐だ! 405号室の甲斐将司!」
「な」
林部長はにやりと笑う。
「被害者もとっさに考えたんだろうな。犯人の名前を伝えたいけど、甲斐とかカイとか書けば犯人にすぐばれちまうし、開も音読みすればカイだから危ない。何より、どれもとっさに書くには画数が多い。だけど、中国語のこの字なら」
「さっと書けますね」
勇作は指で空中にその字を書く。
しかも、中国語を知らない日本人にはそれが文字だとは思われない。
「すごいじゃないですか!」
ダイイングメッセージの意味が、そして事件の犯人が、分かってしまった。
「林長さん、それってもう一課の人たちには言ったんですか」
これは、大発見だ。
「捜査が一気に進む大手柄になるかもしれないですよ」
「とっくに言ってあるよ」
勇作の興奮とは裏腹に、林部長は冷静だった。
「参考にするってさ」
「ええ?」
勇作は思わず耳を疑う。
「それだけですか?」
「ああ」
こんな大発見を、参考にする、で終わりだって?
「おかしいですよ。林部長が応援組だからじゃないですか、そんなの。後で一課の人たちに手柄だけ取られちゃうんじゃないですか」
「お前なあ」
林部長は呆れた顔をした。
「あれが被害者のメッセージで、甲斐のことを示してますって言って、それで裁判で戦えると思うか」
「え」
「ほら、見てください。これが中国語のカイでしょ。だから甲斐を逮捕しますって、そんなことを言って検事が納得するか」
「いやあ……」
そう言われてみると、厳しい気がする。
勇作の中で興奮していた気持ちがしゅるしゅるとしぼんでいく。
「甲斐だってそんなことで、ごめんなさい、俺がやりました、なんて言ってくるわけないだろ。そんなのあんたたち警察のこじつけでしょって言われて終わりだよ」
「でも」
勇作は食い下がった。
「じゃあ林長さんは、自分のその推論が間違いだと思ってるんですか」
「いや、俺はいい線いってると思ってる」
林部長は答えた。
「でも、そんな推論だけで人を犯人扱いはできない。だから、俺たちはこうやって足で仕事するんだよ」
林部長の声が、不意に低くなった。
「勇作。コンビニの防犯カメラって、二週間くらいで上書きされちまうんだぞ」
「あ、はい。さっきの店長もそう言ってましたね」
「お前は被疑者をすっかりあの三人に絞ってるけどな。さっき自分でも言った通り、マンションの防犯カメラに映らずに侵入する方法がないわけじゃない。もし一か月も経った後で、やっぱり外部の人間の犯行だってことになったら、どうする」
林部長の声は厳しかった。
「その時になってから、慌ててコンビニに走ったってもう遅いんだよ。証拠ってのは消えちまう前に集めるんだ。警察学校で習わなかったか」
「……はい」
勇作は頷く。
悔しいが、林部長の言う通りだった。
「やるべき時に、やるべきことをやるんだ。それが俺たちの仕事だろ」
そう言うと、林部長は声を和らげた。
「だから俺たちのやってることは無駄じゃないし、お前だって捜査のメインから外されてるわけでもない。分かるか」
「……分かります」
勇作は答えた。
前方に署が見えてきた。
今日も泊まり込みだろう。やるべきことは山積みなのだから。
「元気出していこうぜ、勇作。もし本当に甲斐が犯人だったら」
林部長はにやりと笑う。
「そん時はおごってやるからよ」
「いいですね、その時はほんとにお願いしますよ」
持ち前の切り替えの早さを発揮して、勇作も笑い返した。