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前編

 その事件は、森山勇作(もりやまゆうさく)巡査が念願の刑事課に配属されて一年目に管内で発生した。

 彼が刑事として初めて遭遇した殺人事件だった。


 事件が発覚したのは、初夏の夜のことだ。

 帰宅途中に呼び戻されて署に再出勤した勇作は、一晩中初動捜査に駆けずり回った後、早朝から一睡もせずに、署の会議室に即席の捜査本部を設営する作業に忙殺された。

 その頃には署内にはもう、背広姿の見慣れない男たちが大勢うろついていた。

 先輩から、彼らが本部の捜査一課から派遣されてきた刑事であることを聞かされ、勇作は胸を高鳴らせた。

 刑事の道を志した以上、いつかは勤務したい場所、それが捜査一課だったからだ。

 事件発生署の刑事として、さっそくその日から捜査本部行きを命じられた勇作は、期待に胸を膨らませながら最初の会議に参加したが、そこで自分のペアに指名されたのは同じ署の盗犯係から応援に来ていたベテランの(はやし)巡査部長だった。

 林部長がどうというわけではないが、どうせなら捜査一課の人と組んでみたかった、自分の仕事ぶりをアピールしたかった、とがっかりした勇作だったが、すぐに持ち前の切り替えの早さを発揮して捜査に打ち込んだ。

 しかし、命じられるのは退屈な基礎調査やあまり事件と関係あるとも思えないような聞き込みばかりで、重要そうに見える部分の捜査は、捜査一課から来ている刑事たちにばかり回されているように勇作の目には見えた。

 そのくせ連日の会議やら何やらで家に帰ることもできない状況に、一週間後には勇作のモチベーションは早くも低下しかけていた。

「あーあ」

 事件現場からだいぶ離れた場所のコンビニに、防犯カメラの提供依頼をした帰り道、勇作は捜査車両を運転しながら思わずため息をついた。

「なーんか、ろくに事件と関係ない仕事ばっかり……」

 助手席の林部長がそれを聞き咎めた。

「どうした、勇作。不満ありそうだな」

「だって、林(ちょう)さん」

 赤信号。車を止めた勇作は、運転席の座席に背中を預ける。

「あんな遠くのコンビニの防犯カメラなんて見たって仕方ないじゃないですか。犯人はあのマンションの同じ階の人間なんでしょ?」

「そうと決まったわけじゃないだろ」

 林部長は苦笑する。

「俺みたいな応援組がやる気ないのは仕方ねえけど、お前は強行犯係なんだから自分のところの事件だろ。もっとやる気だせ」

「ふぁい」

 気の抜けた返事をした後で、勇作はもう一度ため息をつく。

「自分のところの事件だからこそ、ですよ。自分のところの事件だってのに、肝心なところには触らせてもらえないんですもん」

「お前がそう思い込んでるだけだろ」

 林部長はそう言った後で、それでも少し同情したような顔をして勇作の顔を見た。

「とはいえまあ、お前が事件のことをどの程度頭に入れた上でそう言ってるのか、確かめてやるから話してみな」

「いいですよ」

 事件の資料は、もう何度も読み込んでいる。

 勇作はメモも見ずにすらすらと喋りはじめた。

 殺害された被害者は、半田邦康(はんだくにやす)。65歳。職業は会社経営。独身。

 殺害されたのは、深夜0時から翌朝くらいまでの間。

 殺害の方法は、刺殺だ。

 使われたのはどこでも買えるような果物ナイフで、現場に残されていた。それがもともと被害者宅にあったものかどうかは、現在捜査中だ。

 酒を飲んで深夜に帰宅した被害者は、侵入してきた犯人と争って殺されたようだ。室内には被害者と誰かが争った形跡があった。

 社長と連絡が付かないことを不審に思った被害者の秘書が、翌日の夜に部屋を訪ね、そこで社長の死体を発見、事件が発覚した。

 犯行現場となったマンションは五階建てで、被害者の部屋は四階の402号室。

 各階を繋ぐ非常階段とエレベーターにはそれぞれ防犯カメラが設置されていた。

 そして、犯行時間帯の前後に四階を行き来した者は一人も映っていなかった。

「つまり、そのとき被害者を殺害できたのは、被害者と同じフロアに住む三人の隣人だけなんです」

 勇作は力を込めて言った。

「エレベーターにも階段にも、四階へ行く人間の姿は映っていないんですから」

「五階からロープでも垂らしてベランダに下りるっていう方法もないわけじゃないだろ?」

 わざと揶揄するように、林部長が勇作の説明に茶々を入れてくる。

 だが、勇作にもその程度のことは想定済みだった。

「その可能性はゼロではないですが」

 青信号。勇作はアクセルを踏む。

「被害者宅のベランダから室内に入る窓はいずれも施錠されていました。五階からロープで下りてきたところで室内に入れません」

「ふむ」

 林部長は頷く。

「玄関の鍵は?」

「防犯カメラがしっかり設置されてることからも分かる通り、かなりセキュリティには気を使ったマンションです。一階の入り口がオートロックになってますので、自宅の玄関ドアは出かけるときだけ施錠して、自分がいる時には鍵を開けたままの住民も多いそうです。特に、男性の場合は」

「なるほど。つまり、被害者の半田氏も帰宅した後、そのまま施錠をしなかったんじゃないかと」

「はい。第一発見者の秘書の話では、玄関ドアは開いていたそうです」

「秘書はどうやってマンションに入ったんだい」

「秘書は被害者からオートロックの暗証番号を教わっていたそうです。海外出張の多い被害者に頼まれて、自宅を見に行ったりすることも多かったそうで」

「海外出張か。会社の方は忙しかったんだな」

「はい。被害者は頻繁に海外に出張していたそうです。中国、韓国、最近は東南アジアも多かったようですね、ベトナムとか」

「その秘書は怪しくないの? 被害者と不倫してたとか」

「被害者は独身ですし、秘書も男性です。不倫はないですね。秘書の、犯行時間帯のアリバイは今のところ確認が取れているようです」

「ふむ」

 林部長は手で顎の剃り残しの髭を撫でる。

「そうすると、防犯カメラの画像によると外部からの犯行が限りなく不可能に近いうえ、被害者宅の玄関が施錠されていなかったので、同じフロアに住む三人なら誰でも犯行が可能だったと」

「はい」

「階段とエレベーターだけじゃなくて、廊下にも防犯カメラつけておいてくれればよかったのにな」

 林部長は残念そうに言った。

「そうすりゃ誰が犯人か、一発で分かっただろうに」

「そうですね、プライバシーの問題とかいろいろあるんでしょうけどね」

 勇作は答える。

「つまり、容疑者は四階に住む三人」

 勇作は三人の名前を挙げていく。


 401号室の漆山靖彦(うるしやまやすひこ)

 49歳。会社員、独身。


 403号室の津田敏夫(つだとしお)

 53歳。会社員、妻子とは別居中。


 404号室の住人は、当時不在だった。


 405号室の甲斐将司(かいまさし)

 60歳。自営業、独身。


「一人暮らしのおっさんばっかりだな」

 つまらなそうに林部長が言う。

「そうですよね」

 勇作は頷く。

「彼ら三人に殺害の動機があるのかどうか、それは今、捜査一課の人たちが捜査中ですが……」

「うん」

「今のところ、現場から犯人に繋がる指紋とかは見付かってないみたいです」

 そう言って説明を終えた勇作は、先の方に見える信号が黄色に変わったので速度を落とす。

「ね、これならその三人を徹底的に洗ったほうがいいでしょ。人だって時間だって限られてるんですから」

「もう一つなかったか」

 林部長は勇作を見る。

「現場に、確か特徴的な」

「ああ」

 言われて、勇作もそれを思い出した。

 赤信号。停止線でぴたりと車を止めて、ハンドルから手を離す。

「あれ、関係あるんですかね。被害者が自分の血で床に書き残してたっていう……」

 いわゆる、ダイイングメッセージ。捜査の現場でそんな推理小説じみた言葉を使うことはないが。

 勇作は指で空中にその形をなぞる。

「神社の鳥居のマーク……」

 それは、地図記号などでよく見かける、二本の横棒と二本の縦棒を組み合わせた鳥居のマークによく似ていた。

 被害者の半田邦康は、最後の力を振り絞ってフローリングの床にそれを書き残して、息絶えたのだ。

「とりあえず、意味は分かりませんよね」

 勇作は言った。

「鳥居の形っていったらまあ、神社を意味するんでしょうけど。容疑者三人の中に、神社の神主なんていませんし」

「うん。まあ、推論は成り立つよな」

 林部長は言った。

「被害者はそれを書くことでこいつのことを示したかったんじゃないかっていう」

「え?」

 勇作は思わず身を起こして林部長を見る。

「どういうことですか?」

「いや、だからそれを書き残した意味だよ」

 林部長の口調はまるで変わらない。

「今お前が喋ってくれた情報を総合してみても、なんとなく分かるだろ」

「ええ? あの鳥居みたいなマークが三人の誰を指すのかがですか?」

「うん。考えてみなって言いたいところだけど」

 林部長はにやりと笑った。

「お前じゃ分かんねえかなあ」




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