74.火龍の人違い
大きな湖畔の向こう側。
火龍が大きな翼を広げ、今まさに飛び立とうとしていた。
羽搏く度に激しい暴風が葉や枝を飛ばし、水面が波を打つ。
浮橋のように並んでいた水草はバラバラになり、ひっくり返ってしまうものすらあった。
シンとフェリーは軽い災害を見せつけられているような気分だった。
いや、間違いなく天災級の存在なのだろう。
人間と共存したという記述があるとはいえ、目の前の個体がそうとは限らない。
油断した隙に命を落とす可能性だって、十分に考えられる。
現に、この火龍は広い湖をあっという間に飛び越して自分達の眼前へ舞い降りた。
飛び散った水滴が再び地面に落ちるより速く、水蒸気となって森の中へと消えていった。
火龍の起こす暴風で飛ばされそうになったフェリーが、シンにしがみついて何とかその場に留まる。
緊張感からなのか、それとも火龍から発せられる熱気が原因なのか。
額から雫となった汗が垂れる。背中もなんだか、シャツが身体に張り付いている気がする。
「ミシェル、ボクだよボク。フィアンマだよ!
忘れちゃったのかい!?」
「ええと、人ちがい……です……」
そんな二人の緊張感など知る由もなく、フィアンマと名乗る火龍はフェリーに無邪気な笑顔を向ける。
ただ、自分の事を何度も『ミシェル』と呼ぶ火龍にフェリーは一切の覚えが無い。
「そんな! 酷いじゃないか!」
火龍は何度も瞬きをしながら、フェリーの顔を覗き込む。
釣られてフェリーも瞬きをするが、特に景色は変わらない。
翼の生えた赤い蜥蜴が、眼前にいるだけだ。
まじまじと見られる事に緊張をしたフェリーが、助けを求めてシンへ視線を移す。
だが、彼女の視界に映るのは怪訝な顔をするシンの姿だった。
(あれ……? もしかして、シン怒ってる……?)
眉間に皺を寄せたまま、口を結んで何も語ろうとはしないシンに焦りを覚える。
何故なのだろうかと思索すると、ひとつの記憶が蘇る。
ドナ山脈。イリシャと初めて会った時の事だ。
弁明するシンに対して、疑いの眼差しを送る自分の姿。
今の彼は、その時の自分と重なる。
(ど、どーしよ……。ホントに知らないのに……。
でも、シンもあの時にイリシャさんのコト知らないって言ってたし……)
フェリーは本当にこの火龍の事を知らない。
アンダルに引き取られるまで、自分は外の世界なんて知らない。
その後はずっとカランコエの村に居た。
シンと一緒に旅へ出て、シンと一緒にいろんな事を体験した。
だから、シンが知らない火龍を自分が知っているはずないのだ。
(でも、あたしもシンのコトは信じてたし……。ただ、ちょっとイリシャさんが羨ましかっただけで……。
あーっ! シン、何か言ってよお!)
黙り続けるシンに不安を覚えるフェリーだが、それは一人相撲である。
彼は決して、怒っている訳ではない。単純に物思いに耽っていた。
(ミシェル? 遠目だけではなくて、近付いても火龍はそう言った。
つまり、フェリーはその『ミシェル』という人間に似ているという事になる)
勿論、他人の空似という可能性も考えられる。
一方で、こうも考える。『ミシェル』という人物は、フェリーと何らかの関係があるのではないだろうかと。
(いや、俺がそう思いたいだけか。だが……)
フィアンマと名乗る火龍からは、敵意を感じない。少なくとも、フェリーに対しては。
『ミシェル』について訊いてみる価値は、十分にある。
まずはどうやって、話の切っ掛けを掴むべきか。
思案を巡らせるシンを現実に引き戻したのは、フェリーだった。
「……ねえ、シン。おこって……る?」
袖を摘み、彼女がそれを引っ張った。
フェリーの顔を見ると、不安気な表情をしていた。
「怒ってる? なんでだ?」
突拍子もない事を言い出した彼女に、シンは困惑をした。
眉を下げるその仕草が、フェリーを安堵させた。
「紛らわしいよお……。怒ってないなら、別にいいけど……」
肩を落としてため息を漏らすが、内心では怖かった。
まさか、こんな形でブーメランが襲い掛かってくるとは思ってもみなかった。
何事もなくて、本当に良かったと思う。
「何が紛らわしいんだい?」
フィアンマが再び、フェリーの顔を覗き込む。
根本的な解決は何もしていない事を、フェリーは思い出した。
「いや、えっと。だから……。
あたしは『ミシェル』って人ではありません!」
フェリーはペコリと頭を下げ、真っ直ぐにフィアンマの眼を見る。
まずは誤解を解かなくてはならない。この火龍が求めている人物ではないという事を。
「いや、そんなはず……は……」
信じられないと思いつつも、フィアンマは大きな眼を見開いてフェリーを観察する。
自身の持つ記憶に存在する『ミシェル』と、目の前にいるフェリーを照らし合わせ、違和感を見つけた。
「ミシェル。その眼の色……どうしたんだ?
お前の瞳はボクの身体のように、真っ赤な色をしていたじゃないか」
「え? 眼の色?」
確かに、フェリーの眼は碧い。
「それに、目元ももっと下がっていたような……。
あと、やっぱり顔つきは幼い気がする。ミシェル、一体どうしたんだい?」
「あの、それって……。別人ってコトじゃ……」
フェリーがおずおずと手を挙げる。
誤解が解けそうなのは良い事なのだが、こう「違う」と連呼されるとそれはそれで物悲しいものがある。
自分は自分だ。フェリー・ハートニアだ。偶像を押し付けられるのは、あまり愉快ではない。
「じゃあ、お前はミシェルじゃない……のか?
若返ったとかではなくて?」
「あ、はい。ゼッタイに違います」
フェリーは即答した。
確かに自分は成長を止めているが、若返った事は無い。眼が赤くなった事も無い。
断じて『ミシェル』では、無い。
「そうか……。いや、ごめん。久しぶりに逢えたと思って一人で盛り上がったみたいだ……。
そうだよな、ミシェルなわけがないよな……」
フィアンマが頭を垂れ、顎が地面に着けられる。
その衝撃で、また何匹かの小動物が森から逃げ去っていく音が聞こえた。
「えっと、うん。見間違えるコトは、あるよね」
それほどまでに、『ミシェル』に思い入れがあるのだろうか。
なんだか申し訳なくなったフェリーは、低くなった火龍の頭を撫でる。
まるで岩のようにゴツゴツとした手触りだったが、その表面はほんのり暖かい程度だった。
「うう、ありがとう……。お前、名前は?」
「えっと、フェリー。フェリー・ハートニア……です」
その名を聞いて、またフィアンマは涙する。
その大きな瞳から零れる涙に驚いて、フェリーは後ずさりしてしまう。
「そうか、やっぱりミシェルじゃないんだな……」
「なんか……ごめんね?」
戸惑うフェリーを火龍から遮るように、シンが割って入る。
「それで、訊きたい事がある」
フィアンマは瞼をぱちくりさせ、シンを見上げた。
まるで初めての出来事のように、じろじろと。
「誰だ、お前?」
火龍の視界の片隅にすら、シンの姿は映っていなかったらしい。
沈黙が流れ、僅かな時間ではあるが森が平穏を取り戻していた。
……*
「そうか、フェリーにシン。二人はマギアの人間だったのか」
「ああ、色々あって旅をしている」
シンとフェリーは湖畔に改めて腰を掛ける。傍には、寝転がったままの火龍。
あの後、シンはフェリーの連れだと説明をするとフィアンマはあっさり納得した。
というより、フィアンマの求める『ミシェル』ではないのだから納得も何もないのだが。
何故か、少しだけフェリーが機嫌を悪くしていたが。
「それで、フィアンマさんに何を訊くの?」
フェリーが小さな声で、シンに尋ねた。
一体、自分達が火龍。いや、龍族に訊く事など何があると言うのだろうか。
「その火龍が言う、『ミシェル』っていう人についてだ」
「……ふーん。なんで?」
心なしか、フェリーの言葉に棘を感じる。
正直に言うと、彼女を怒らせかねない。しかし、嘘をつくのは気が引ける。
「……怒らないか?」
フェリーは眉を顰めた。
シンが、こんなに露骨に機嫌を伺う事なんて滅多にない
「聞いてないから、わかんない」
「……それは、そうだな」
彼女の言い分は尤もだった。
フェリーの反応は大方予想出来ているにしても、シンは話した。
『ミシェル』の事を尋ねる理由。
それは、つい先日にフェリー自身へ尋ねた事と同じだった。
彼女の出自について。見間違えるほどに容姿が似ているのなら、もしかすると肉親なのかもしれない。
だから、シンは『ミシェル』の情報が欲しかった。
「あたしは、ヤダ」
やはり、フェリーは反対をした。
下唇を噛み、顎に手を当て、眼を逸らす。
「どうして、そんなにあたしを産んだヒトのコト知りたいの?
育ててくれたのはおじいちゃんで、お父さんとお母さんはケントおじさんとカンナおばさん。
シンは、それじゃダメなの? あたしは、それがいい。産んだヒトなんて、どうでもいいよ」
「……ダメじゃない。俺も、それでいいと思ってる」
ダメなはずはない。シンだって、それで良かった。
フェリーも間違いなく家族で、それはずっと変わらない。
でも、知らなくてはならない。
彼女の『呪い』に繋がる可能性があるのなら、何ひとつ無駄に出来ない。
シンは藁にも縋る思いだった。
「だったらわざわざ知らないヒトのコト、訊かなくてもいいじゃん。
シン、ワケわかんないよ」
フェリーも内心は解っている。
シンが興味本位や、野次馬根性で人のプライバシーを侵そうとしない事ぐらいは。
それでも、訊いて欲しくは無かった。
何者でもなく、『無』だった自分をシンに知られたくない。想像して欲しくない。
いや、それだけならまだいい。
最も恐れるのはその『ミシェル』が。いや、自分を産んだ『誰か』が善い人だった場合だった。
何か誤解や事情があったのなら。産んだ人と自分が和解でもしようものなら。
万が一にでも、そこに『幸せ』を見出してしまったなら。
きっとシンは、自分の前から去る。
優しいから、彼は自分から何を奪おうとはしなくなるだろう。
それは自分にとって『救い』が奪われるという事でもあった。
フェリーは存在しているかもわからない幻に怯えていた。
「人違いだったんだから、あたしはそれでいいよ。
後はドラゴンとお話をして、返ってからイリシャさんたちに自慢しようよ」
「フェリー。頼む、大切な事なんだ」
そっぽを向いたまま不貞腐れるフェリーだったが、身体を強張らせる。
シンの言葉には重みがあった。やっぱり、彼は真剣そのものだ。
だから、嫌だ。いつもと逆だ。これは自分が折れなくてはならないパターンだ。
「……じゃあ、ひとつだけ約束して」
「何をだ?」
「もし、『ミシェル』さんがあたしと関係あっても……。
ずっと、あたしと旅をして?」
空気が止まる。
フェリーにはこの沈黙が怖い。
シンをちらりと見たが、眉間に一層の縦皺を刻んでいる。
少しの間を置いて、シンは彼女が言わんとしている事を理解した。
彼女は、その『ミシェル』の元に自分が押し付けられる事を懸念している。
「いや、それはそうだぞ。当たり前だ。
別にフェリーとの旅を止めるつもりはない」
「……ゼッタイ、だからね」
その言葉を聞いて安心したフェリーが、渋々と頷く。
内心、飛び跳ねそうなぐらい嬉しいのだが、彼の袖の裾を掴むので精一杯だった。
ニュアンスに語弊はあるものの、お互いが無事に納得をする事が出来た。
「――というわけで、だ。フィアンマ、教えて欲しい事がある」
シンは火龍と向き合う。裾を握るフェリーの指先に、更に力が込められた。
「……え? ごめん、寝ちゃってた。
なんか、二人の世界に入ってたから」
瞼を擦りながら、フィアンマがとろんとした瞳を向ける。
二人の会話に飽きたらしく、眠ってしまっていた。
「……いや、こっちこそ悪かった」
こほん。と咳払いをして、シンは改めてフィアンマと向き合った。