70.決意
「フェリー……?」
どうして、彼女がこの場所を知っているのだろう。
いや、そうじゃない。
どうして、彼女が現れたのか。
シンはズキズキと痛む頭を抑えながら考えるが、何がなんだか分からない。
ただ、同時に安心もした。
ずっと聞けなかった、聞きたかった、彼女の声がそこにある。
「シン、そのケガ……」
早く手当をしないといけない。
膝をついて、頭から血を流すシンに駆け寄ろうとするフェリーに、武器を持った男が道を塞いだ。
見降ろされるような鋭い眼光が、杭のようにフェリーをその場へ打ち付ける。
「大丈夫だ」
「でも……」
二人の会話を、仮面を被った男が遮る。
「なんだい、キミは? 僕たちは今、大事な話をしているんだ」
男は仮面の奥から鋭い眼光を放ち、フェリーを睨みつける。
その剣幕にたじろぐが、逃げてはいけないという気持ちが彼女をなんとか踏み留まらせた。
「し、シンを返してもらいに来ました! もう夜も遅いので!」
「シン……? ああ、『牙』の事か」
「『牙』……?」
仮面の男は薄ら笑いを浮かべた。この少女は何も知らない。
ならば、ここで少女に真実を教えてやろう。
その時、『牙』の心が折れれば、今からでも傀儡として扱う事が出来るかもしれない。
「お嬢さん、その少年はね――」
「やめろ!」
声を荒げるシンに対して、男は嘲笑った。
間違いなく、この少女が『牙』の急所だと確信した。
「『牙』という名で人殺しをしていたんだよ」
シンはフェリーから目を逸らした。
この一ヶ月、自らの手を血で汚している事を彼女には知られたくなかった。
互いがどうしても、あの日の事を思い出してしまうから。
「あ、ハイ。人を殺しているコトは知ってます」
「……は?」
周囲の空気が静まり返る。
全員の視線が集まった事にフェリーがたじろぐが、それはただの圧迫感によるものだった。
男の言葉に対する動揺は微塵も感じられない。
シンは思わずフェリーの顔を見る。
ぼんやりとした視界は段々と輪郭を取り戻しており、彼女の顔もはっきりと見える。
声のトーンと同じように、いつも通りのフェリーがそこにいた。
「悪い、シン。アタシが言った」
「マレット……」
フェリーの後ろから、マレットが顔を出す。
「すまん」と言いながら手刀を切るが、申し訳なさそうな顔では無かった。
彼女の出現に、館の中にいる全員が息を呑んだ。
その存在の重みを知っているが故に。
「べ、ベル・マレット……!」
魔導大国マギアにて、彼女の名を知らない者は居ない。
この国に反映を齎した功労者。下手に逆らおうものなら、この国自体を敵に回しかねない。
彼女はこの国に於いて、そこらの貴族よりも数段高みにいる存在だった。
「帰るの遅いから気になってきたんだが、邪魔だったか?」
「いや、助かった。けど、フェリーには……」
いや、よそう。シンは開きかけた口を閉じた。
今はこの場を切り抜ける方を優先すべく、頭を抑えながら立ち上がる。
(まさかベル・マレットの仲間だったとは。
まずい。この場で彼女の身に何かあれば、僕は……)
突然の来訪者に仮面の男は狼狽える。
決して敵に回してはいけない人間が、目の前に居る。
不幸な事にその挙動と、目立つ仮面がマレットの眼に止まってしまう。
「なんだ? 変な仮面して」
「い、いや。これは……」
「アタシもある程度、腹を括って来てるんだからそういうの困るんだよな。
仮面、外す気はないのか?」
「そ、それは……」
全員を使った大きなため息を吐いて、彼女は言い直した。
「仮面、外す気はないのか?」
一段低い声で発せられたそれは、男への通告であり忠告でもあった。
奴隷市の元締程度ではどうにも出来ない相手を前にして、男はゆっくりとその仮面を外した。
髪を後ろに纏めた、余分な脂肪の少ない引き締まった顔が露わになる。
マレットがまじまじと顔を見つめる間、男は生きた心地がしなかった。
あるいは彼女がこの場に現れた時点で、勝敗は決していたのかもしれない。
「ああ、なんかちらっと見た事あるな。えーと、そうだ。
ペラティスとかいう貴族だっけ?」
仮面を被った男、もといペラティスの顔が青ざめる。
直接の面識が無い自分を、彼女は正確に把握していた。
自分だけではなく、ペラティス家の没落を覚悟した。
だが、続けてマレットから放たれた言葉に耳を疑った。
「お前も大変だよな。こんなゴロツキどもに狙われてさ」
全員が近くにいる人間の顔を見合わせる。
彼女が何を言っているのか、理解が出来ないと言った様子だった。
フェリーに至っては「え、あの人がワルいんじゃないの?」とマレットとペラティスの顔を交互に見ていた。
「え? 違うのか? アタシはてっきり、ウチのシンと一緒に取っ捕まったと思ったよ」
初めにマレットの意図を読み取ったのは、シンだった。
少し遅れて、ペラティスがシンと同じ考えに行きつく。
「そ、そうだ! 僕はこの男達に襲われて……!」
マレットの口角が上がる。狙い通りの動きをペラティスはしてくれた。
彼女の狙いは、後ろ盾の排除。
あくまでこのゴロツキが暴力を振るったという状況にすり替える事だった。
突如、自分達の支援者から捨てられ「ふざけるな」「ナメてんのか」「何考えてんだ」と怒号が飛び交う。
だが、マレットは全く動じない。
「いや、アタシ来たばっかりだからさ。状況ちゃんと把握してないのよ。
あれ、ペラティスさん。アタシなんか勘違いしてたのか?」
その白々しさに、シンは尊敬の念すら抱く。
彼女がやっている事は、実質的に脅しだ。
意に背けばまとめて潰すという意思を、これでもかと言葉に乗せてくる。
ペラティスがマレットに乗れば、自分だけは見逃してくれる。
その甘い言葉に誘われるように、マレットの垂らした糸に喰らい付く。
「い、いや、貴女の言う通りだ! 僕はこの男達に脅されていた!
助けてくれた事に礼を言う!」
「いやいや、ちょっと。ペラティスさん、それは……」
シンを殺しの世界に呼び込んだ張本人である、紳士風の男が戸惑う。
だが、もうペラティスの腹は決まっていた。
「ええい、貴様など知らぬ! 僕やいたいけな少年を捕まえ、どうするつもりだったのだ!?」
その一言が、決別の合図となった。
「この、ふざけやがって……!」
シンを囲んでいた男達が、それぞれの得物を抱え直す。
標的はそれぞれ、シン、ペラティス、そしてマレットだった。
自分達は切り捨てられた。その怒りをぶつける為に。
「アタシが出来るのはここまでだな。
後はフェリー、どうする? マナ・ライドで逃げるか?
突撃した時の轟音で、じきに憲兵が来るだろう」
自分も狙われているようなので、マレットは逃げる事も厭わない。
煽ってはみたが、彼女自身に戦うつもりは無い。
しかし、フェリーはふるふると首を振った。
自分が来たのは、マレットに後始末を頼むためではない。
シンに会って、ちゃんと話をする為に来たのだから。
「ううん。シンを助けなくちゃだし。
マレットさん、ありがとう」
そう言ってフェリーは、男達とマレットの間に割って入る。
右手に握られているのは、一本の筒。その中には、魔導石が埋め込まれている。
この館に来る前、マレットに渡されたものだった。
鼓動の大きくなる心臓の音を、左手で押さえながら右手に魔力を込める。
筒から延びるように、茜色の刃が形成される。
フェリーがこれから長い間付き合う事になる武器、魔導刃だった。
「あれは……?」
夕日のように色鮮やかなそれは、この場にいる全員の視線を釘付けにした。
だが、チリチリと空気を焼く音が手品や玩具の類では無いと訴えかけられる。
自分は今から、人を斬る。茜色の刃が、様々なものを焼く。
そう思うと、胸の鼓動が今にも爆発しそうなぐらい熱い。
でも、フェリーは決めた。シンを助けるためなら、今度は自分の意思で手を汚す事も厭わない。
「やああああ!」
腰が引けながらも、フェリーは一歩を踏み出した。
……*
腰が引け、相手の攻撃に目を閉じる。決して戦い慣れたものではない。
剣が、槍が、斧が、彼女の身体を傷付ける。
それでもフェリーは決して立ち止まらなかった。
傷付けても止まらない。瞬く間に再生してしまう。
とても人間とは思えない彼女の姿に、奴隷市で様々な人間を見てきた男達さえもたじろぐ。
その男達とは違う視線を送る人間が一人。シンだった。
初めて見る武器の事は、どうでも良かった。
あんな傷つきながら、怯えながら、それでも戦う彼女の姿を見るのが辛かった。
「フェリー、どうして……」
「お前と話をする為に、来たんだよ」
いつの間にか、シンの傍にマレットが来ていた。
フェリーの異様な光景に気を取られ、注意が逸れていたようだった。
「マレット……」
「まあ、アタシもシンが何をしているのか言ったのは悪いと思ってる」
マレットは頭をポリポリと掻きながら、申し訳なさそうに言った。
「やっぱり言ったのか……」
「けど、それでもあの娘はお前と向き合うと決めた。
だから、連れてきたんだよ」
「連れてきたって、どうやって場所を……」
「あーっ! 細かい事はどうでもいいだろ!
それより、どうするんだ?」
マレットは腰が引けながらも戦い続けるフェリーを見るように促す。
「あのまま独りで身体を張らせたままでいいのか?」
「……いいわけ、ないだろう」
「だよな」
マレットはそう言うと、シンの前に銃を差し出した。
まだマギアでも貴重な武器。彼女はそれを、惜しみも無く自分へ差し出す。
「これなら、手を洗わなくてもいい。必要なのは覚悟だけだ」
「……気付いていたのか」
全て見透かされていた。自分が帰る度に、手を洗う時間が長くなっていた事を。
「受け取るならさっさと取ってくれ。それとも、いつまでもフェリー独りに戦わせるつもりか?」
「……そんなわけ、ないだろ」
むしろ逆だ。たとえ治るとしても、彼女に傷ついて欲しい訳がない。
シンはマレットから銃を受け取り、照準を合わせる。
歯を食いしばりながら、引鉄を引いた。
……*
湯舟に顔を沈めながら、フェリーはぶくぶくと泡を立てる。
自分の両手を、まじまじと見た。
その手は、もう洗い流されている。
白い指が開いて、掬ったお湯を湯舟へと還した。
あの後、生き残ったのは自分達三人と、ペラティスのみ。
何を言ったのかは分からないが、マレットがにこりと笑うと彼はペコペコと頭を下げていた。
奴隷市の商人やゴロツキ達は全員命を落とした。
いや、自分とシンがその命を奪った。
カランコエの時とは違う、紛れもなく自分の意思で。
ただ、それ以上に終わった時のシンの背中が小さく感じた。
きっと、彼も無理をしていた。殺したいわけでは無い。
そうしないと、自分が死ぬかもしれない。親しい人に危害が加えられるかもしれない。
だから、シンは他人の命を奪っていたのだ。
眉間に皺を寄せながら、無理をして。
戦いを終えて膝をつく彼が、肩で息をする彼が、身体だけじゃなくて精神も苦しんでいるように見えた。
そんな彼を、フェリーは背中から覆うように抱きしめた。
血や汗の臭いの他に、自分のよく知っている匂いがした。
ずっと一緒に過ごして、傍に居てくれた時のものと同じだった。
愛おしくて、つい腕の力が強くなってしまった。
シンは戸惑っていた。当然だと思う。
逆の立場だったら、自分はきっと取り乱していただろう。
でも、彼の温もりを感じられて嬉しかった。
拒絶されなかった事が、嬉しかった。
「はいるぞー」
突然、マレットが浴室へと入り込む。
浴室なのだから当然かもしれないが、何も着ていない。生まれたままの姿で。
「ちょ、ちょっと! まだあたし入ってるよ!?」
「いいだろ別に。減るもんでもないし」
慣れた手つきで身体を洗い、マレットは遠慮無しに湯舟へと足を浸ける。
フェリーが隅によるが、やはり二人だと狭く感じる。
マレットの質量分だけのお湯が、湯舟から溢れていった。
「減ってる! お湯は減ってるから! ホラ!!」
「ケチケチする必要ないだろ。それとも、やっぱりアタシよりシンが良かったか?
さっきも密着してたもんな」
湯舟に浸かり、赤みを帯びていたフェリーの顔が更に紅潮する。
あれはそういう意味でやったわけでは無いと必死に弁明をする。
「そんなワケないよ! やっぱりってなにさ!
ヘンなコト言わないでよおっ!」
「でも、子供の頃は一緒に入ってたんだろ?」
「それは、本当に小さい頃だけ……って、マレットさん?」
フェリーは気付いた。にやにやと悪い笑みを浮かべるマレットの姿に。
やられたと思った。シンがそんな事を話すはずがないのだ。
「ほお、子供の頃は入ってたんだな」
「あああああ……! なし、いまのなし!」
背中を向けようとするが、狭い湯舟で回転が出来ない。
マレットから逃げる術を、フェリーは持ち合わせていなかった。
しばらくケタケタと笑っていたマレットだが、咳払いをして真面目な顔に代わる。
フェリーはまだ恥ずかしいが、そんな彼女の顔をじっと見た。
「……それで、シンとはちゃんと話をしたのか?」
「うん」
あの後、シンと話をする事が出来た。
ありがとう。ごめんなさい。
そして、これからはちゃんと顔を合わせて話をしたいという事を彼に伝えた。
シンは頷いてくれた。誤る必要が無いのに、彼も頭を下げていた。
ただ、全てを伝えられた訳ではない。彼の家族の事を想うと、やはり踏み出せない一歩もある。
それと、どうしても譲れないものもあった。
「シンに、『あたしを殺してください』ってお願いしたの」
目の前にいるマレットも、シンと同じように顔を訝しむ。
しかし、フェリーにとっては重要な事だった。
「やっぱり、あたしもちゃんと償いたい。
村のみんなやシンに償う方法が、それしか思いつかなかったの」
それに、シンが居なくなる世界で自分だけが生き残っても意味が無い。
怖いものだと思いつつも、『死』が自分への『救い』だとフェリーは考えていた。
「……シンは納得したのか?」
「うん。でも、『俺ももうプロだから、簡単には引き受けられない』って言っちゃった。
だから、毎回ちゃんとお金を払うって言ったら、引き受けてくれたよ」
マレットは顔を手で覆いながらため息を漏らした。
きっと、シンなりの抵抗だったのだろう。フェリーには伝わらなかったようだが。
どうして、この二人は肝心な所で拗れるのだろうと思った。
(いや、違うか)
二人とも、それが歪な事は自分達で気付くだろう。
その日がいつになるかは、解らないが。
肝心なのは、二人が互いの殻に閉じこもらない事だ。
話していれば、いつか絡み合った糸も解けるに違いない。
「……まあ、がんばれよ」
「うん、マレットさんもありがとう」
マレットが居なければ、きっと自分はずっと塞がったままだった。
彼女は、フェリーにとっても恩人だった。
でも、気になる事はひとつだけあった。
シンとの関係について。
「あの、シンがマレットさんの家に泊まってた時……。なにしてたの?」
「ん? ……ああ」
マレットが記憶の箱を開けると、思い当たるものがひとつあった。
冒険者になりたてのシンが大怪我をした時の事だ。あの時は、しばらく自分の館で治療をしていた。
どうして今更そんな事を気にするのだろうかと、フェリーの顔を見たが彼女はもじもじしている。
伏し目で視線を合わそうとはしない、なんだか落ち着かない様子だった。
なので、マレットはからかう事に決めた。
「今みたいに、一緒にフロ入ってただけだけど」
「えっ、ウソ!?」
フェリーの中でいろんな考えが脳裏を過る。
やっぱり、シンはこういう女の人が好みなんだとか。
こんな女性がいるのに、自分はどうして後ろから抱きしめてしまったのだろうとか。
まずは、彼女に謝らないといけない。
そう思って顔を上げた先には、満面の笑みを浮かべるマレットの顔があった。
「ウ・ソ♪」
フェリーの身体がわなわなと震える。
湯舟が波打ち、浴槽から溢れていく。
「ま……マレットの、バカああああああっ!」
フェリーの絶叫が、屋敷いっぱいに響き渡った。




