68.食事
シンが殺しの依頼を請けて、一ヶ月が経過した。
特に期限を設けられていた訳でも無いので、下調べをした中で確実に数を減らしている。
真っ先にシンが標的にしたのは、クリムと一緒に冒険者をしていたポイナとデリットだった。
二人と自分は面識がある。ずっと生かしておくには危険が付き纏う。
それと、もう後戻りが出来ない。その意識を自分に植え付けるためでもあった。
精神的に追い込まないといけない自分の弱さと、それでもフェリーを刺した時より心が軽いという安堵。
ギリギリのバランスで、シンの精神は成り立っていた。
優先したのはポイナだった。魔術師である彼女に警戒をされ、距離を取られては成す術が無い。
そう思ったシンは冒険に出ている彼女とデリットに話し掛ける。
クリムが死んだ事に衝撃を受けては居たが、冒険者なのでよくある事だと彼女は言っていた。
或いは、この間クリムが逃がしてしまった子供の代わりを探していたのかもしれない。
自分の存在を疎ましく思うような視線を何度も浴びた。ただ、自分がクリムを殺した事には気付いていないようだった。
会話して、近付いても警戒されていない。ならばと、胸をナイフで突くと、彼女はそのまま地面へと崩れ落ちた。
突然の事に驚きながらもデリットが自分に刃を向けるが、動きに動揺が見て取れた。そのまま、冷静さを取り戻される前に彼も斬り捨てた。
流れるように自分の身体が動いた。その日、マレットの屋敷に帰ったシンは、クリムの時よりも念入りに手を洗った。
咽るような血の臭いが、鼻腔をツンと突いた。
それから先は、知らない相手ばかりだった。
どんな人間か、どんな戦い方をするのかを下調べしつつ、確実に消していく。
一人殺すたび、更に念入りに手を洗うようになった。
仲間が次々と殺されているからと、標的達は警戒して徒党を組むようになった。
手間が省けるので、そっちの方がありがたかった。
部屋に籠れば煙玉ひとつでパニックに陥るし、街を歩けば誰でも構わず敵視をしているので逆に近付きやすい。
その間に、男は自分の村が燃えた理由を調べてはいたらしい。
だが、シンを納得させる答えが見つかっていないと言われる。
それで良かった。裏の世界にフェリーの事さえ知られていないのなら、それで良い。
「全く、君の手際の良さには恐れ入るよ」
「そんなのじゃない」
手際が良い訳でも、なんでもない。
ただ自分が子供で、警戒があまりされないだけだ。
真正面から相対して、実力で殺した人間なんて一人も居なかった。
恨みもない相手を殺すという行為に、後ろめたさが無い訳で無い。
だから、暗殺を選んだという事情もある。
ただ、卑怯なだけだとシンは自嘲した。
「そうそう。最後の一人を殺し終えたらここに来てくれないか。
我々の支援者でもある貴族に、紹介したいんだ。『牙』をね」
シンは顔を訝しめた。今日でこの男達とは縁を切る予定だった。
わざわざ支援者に紹介するという事は、まだ殺して欲しい相手がいるという事だろうか。
「……分かった」
気乗りはしないが、この男達の全容を知る必要はある。
そう考えたシンは、渋々と頷いた。
……*
「オハヨウ……」
今日もシンが出て行った事を確認してから、フェリーは階段を降りる。
マレットの『調査』という名目のセクハラを受けて早一ヶ月。
判った事と言えば、自分の身体に全く変化が無いという証明。
一ヶ月という短い期間ではあるが、マレットの測定では連日同じ数字が出てしまう。
それと、治るのはどうやら怪我だけではないらしい。
爪を切ろうが、髪を切ろうが、元通りになってしまう。
自分だけ、時間が止まっているような感覚だった。
ふと台所に目をやると、今日もマレットは台所に手の付いていない食事を置いている。
鍋にもスープが沢山用意してあるし、頭を使うとお腹が空くというのは本当なのだろうか。
「おう。起きたか」
隣の部屋から、マレットの声が聞こえる。
相変わらず、椅子の背に頭を預けて顔だけをこちらに向けている。
身体を向けるのを横着しているのか、それとも顔を合わせてくれるだけ丁寧なのか、フェリーにはよく判らない。
「ちゃんと朝から、起きてるよ」
「だったら、普通に朝から出てくればいいだろ」
「う……」
マレットの言う通りだった。
シンに一方的に話させて、聞かれないように「いってらっしゃい」と送って、それで満足をする。
カーテンの隙間から彼が家を出るのを確認して、夜にはカーテンの隙間から戻ってくるのを確認する。
ご丁寧に電気まで消して、決してシンに気付かれないよう息を潜める。
帰ってきたシンが、また話し掛けてくれるから「おやすみなさい」と聞こえないように返事をする。
一ヶ月間、二人は同じ事を繰り返していた。
毎日、シンが話し掛けてくれる事が嬉しくて堪らなかった。
でも、声を聞かれるのは怖かった。顔を見られるのも怖かった。
あの日の事を思い出してしまう。
家族の仇で、死ねない化物で、嘔吐されるぐらいに醜い自分。
彼にこれ以上、嫌な気持ちになって欲しくは無い。
そう思うと、一歩が踏み出せずにいた。
本当は、毎日外で何をしているのか知りたかった。
でも、今はもう訊けない。マレットに訊いたものの、「本人に訊け」と言われてしまう。
それが出来れば苦労はしない。
ただ、フェリー自身も段々とマレットとは話をするようになってきた。
連日裸にひん剥かれるのは嫌だけれど、部屋の掃除をしたりして自分なりに役に立とうとしていた。
時々、そこらに放り投げているものに「それはそのうち使うんだ」と怒られたりするけれど。
怒った割に一切使った形跡が無いので、怒られ損だと思った時もある。
「いつも通りだ。今日も変化なしだな」
慣れた手つきでマレットが数字を書き留めていく。
ずっと同じ数字が並んでいるのは、フェリーの測定結果だった。
寸分の狂いが無いというのはこの事だろうか。
はぁ。とため息を吐くマレットを見て、フェリーは気付いた。
いや、気付いたという程のものではない。ただ、そう思ったのでなんとなく尋ねてみた。
「……マレットさんは、すこし太った?」
意趣返しのつもりではない。ただ、本当にそう思ったのだ。
刹那、彼女は鬼の形相でフェリーを睨みつけた。
「誰のせいだと思ってるんだ?」
その眼光は、フェリーを捉えている。
お前が悪いと、その眼が訴えている。
「え、あたし? ……どうして?」
「あれだ」
マレットが親指で差したのは、テーブルに置かれてい皿だった。
その上には、マレットが手をつけていない料理が置かれている。
益々、混乱してしまう。
「え? わからないよ」
フェリーは首を傾げた。
頭を使ってお腹が空いても、食べた分だけ太ってしまったという事だろうか。
そうだとしても、沢山ごはんを食べているのはマレット自身の問題ではないだろうか。
彼女にはお世話になっているけれど、逆恨みをされるのは違うと思った。
「毎日二人分も食べさせられていたら、嫌でも太るってえの」
「……え?」
マレットが言った言葉の意味を、フェリーは正しく受け止める事が出来なかった。
二人分食べている? やっぱりお腹が空いたから、食いしん坊なだけではないのだろうかと思う。
本当は、もうひとつの可能性も脳裏を過った。だけど、過ぎた自己否定がその可能性を却下していた。
しかし、マレットの口から発せられたのはその否定した方の可能性だった。
「シンが、お前の分も作ってたんだよ。なのに、お前が食べないからアタシが仕方なく食べてたんだ」
「……シンが?」
彼女は「棄てるのは勿体ないからな」と続けていたが、フェリーの耳には届いていなかった。
(シンが、ご飯を作ってくれていた?)
瞳が潤むのを、唇を食いしばって堪える。「違う、勘違いしちゃダメだ」と自分に言い聞かせる。
彼は優しいのだ。自分の分はオマケで作ってくれているに過ぎない。
嫌われていないなんて、拒絶されていないなんて、思い上がってはいけない。
それでも、じっと見てしまう。台所に置かれている、自分への料理が乗った皿を。
炒り卵をパンで挟んでいるだけの、簡単な料理。
フェリーはよく知っている。シンが冒険へ出る時は、カンナによくこれを作ってもらっていた事を。
お弁当としてシンに渡して、残りは自分やリンに持たせてくれた。
そんなに遠くに出る訳ではないけれど、村の草むらでよく食べていた。
ちょっとしたピクニック気分を味わえて、フェリーもリンも大好きだった。
自分の口から唾液が出ている事に気付いた。
いくら飲み込んでも、唾液はフェリーの口を潤す。
ずっと食事を摂らなくても平気だったのに、今はあの料理が食べたくて堪らない。
「……あたし、食べてもいいの?」
マレットが呆れた顔をした。
「だから、お前の分だって言ってるだろ。アタシに太ったって言うなら、責任もってお前が食え」
「……うん」
恐る恐る、手を伸ばす。掴んだ反対側から炒り卵がはみ出したので、フェリーは慌てて指で掬った。
程よい塩気が、フェリーの口内に広がった。卵が口の中でぽろぽろと解ける。
唇に残った塩気も、拭うように口舐めずりをして味わった。
カンナがよく作ってくれたものとは、少し味付けが違う。
でも、美味しいと感じた。どちらが美味しいとかではなく、両方がフェリーの好きな味だった。
そのまま無言でパンに齧り付く。何度も、何度も味を噛みしめ、また齧り付く。
いつの間にか、頬に涙が伝っていた。
フェリーは、その様子に気付く事もなくあっという間に食べつくした。
最後の一口を、ゴクンと飲み込んだ。食道を通って、胃に入り込んでいく感覚が鮮明に伝わる。
料理の味を語れるほど、フェリーは食通ではない。
ただ、とても優しい味だと思った。
「そっちも、お前の分あるんだからな」
そう言ってマレットが促したのは、スープの入った鍋だった。
火を点けて、鍋を温めなおす。透き通るような透明なスープに、いくつかの野菜が浮いている。
自分の嫌いな野菜は入っていなかった。
器に掬って、口の中に流し込む。染み入るような、元気を分けてもらうような、喉越しのいい味だった。
野菜も柔らかく煮込んでいて、歯に当てるとすぐに解けた。
しばらく食事を摂っていなかったから、食べやすいようにしてくれていたのかもしれない。
本当は、スープから先に食するべきだったのかもしれない。
だけど、そんな事はどうでも良かった。
暖かくて、美味しくて、優しくて。
幸せな気持ちにしてくれる料理だと思った。
知っていた。シンが優しいなんて事は、誰よりも知っていた。
こんな自分を、彼は今でも気に掛けてくれる。
卑怯で臆病な自分に対しても、変わらず優しく接してくれる。
「……おいしい」
「そうか、良かったな」
好きで、愛おしくて、堪らない。
嫌われても、拒絶されていても構わない。
シンの顔が見たくなった。ちゃんと、お礼を伝えたいと思った。
「……今日、ちゃんとシンにお礼言うね」
「ああ、あいつも喜ぶだろうな」
マレットの言う通り、喜んでくれると自分も嬉しい。
頑張って、お礼を言おう。一ヶ月ぶりに、顔を合わせよう。
ちょっと怖いけど、勇気を出そう。
(キラわれてなかったら、いいな)
無理だと思いつつも、僅かな可能性に想いを馳せた。
顔を合わせたら、たくさん謝ろう。たくさんお礼を言おう。
その日は、いつもより時間が遅く過ぎていくように感じた。
マレットの手伝いをしていても、ずっと上の空で「今日はもう何もしなくていい」と言われてしまった。
でも、不思議とマレットも怒っていないように思えた。
フェリーはずっと、期待と緊張を繰り返している。
陽が落ちると、心臓の鼓動が速くなった。
いつ帰ってくるのかと、そわそわする。
固く握った手が、汗ばんでいる。唇も、すぐに渇いてしまう。
何度も水を飲みに降りるので、マレットに水瓶を渡されてしまった。
どうせならと、コップをふたつ借りる事にした。
一緒に飲みながら、多くの話が出来たらいいなと思った。
夜が更けても、シンが戻ってくる事は無かった。
フェリーの胸がざわついた。
彼の身によくない事が起きている。そんな気がした。