66.一線
返り血を浴びて戻ってきたシンを見て、マレットは思わず尋ねた。
「シン。お前、それどうしたんだ?」
戻って来るのが遅いとは感じていた。
何かトラブルに遭ったのではないかと、予感もした。
だが、返り血で服を汚して戻って来るとは思っても見なかった。
「これは、いや……。とりあえず、着替えさせてくれ」
明らかに狼狽えていた。
いや、狼狽えてはいても何処か頭が冷えているようだった。
カランコエの時とは明らかに違う。
シンは上着を脱ぎ、浴室で手を洗う。
自分に染み付いた血とは別の、似たような臭いが鼻をついた。
「……なんか臭わないか?」
「ああ、それは……」
浴室を掃除こそしたものの、籠った臭いに気付いたのだろう。
フェリーの事だからこそ、マレットは下手に誤魔化さない事にした。
はじめは部屋を出た事に驚いていたシンだが、やがて自らを傷付けた事に顔を青ざめる。
飛び出して彼女の元へ向かおうとするシンの腕を、マレットが引き留めた。
「マレット! 離してくれ!」
「落ち着けって。お前がそんな剣幕で行ったら、またフェリーが塞ぎ込む事ぐらい理解しろ」
振りほどこうと腕を引いてた、シンの力が弱まる。
マレットの言う通りだった。
フェリーとはこの一週間、顔を合わせていない。
そんな自分が感情に身を任せて飛び出しても、良い方向へ向かう訳がない。
だからと言って、彼女が自ら命を絶とうとしている事を見過ごせるはずもない。
そこまで思い詰めていたのだ。
故郷を燃やした事を、大切な人を殺めた事を。
自分の記憶がない出来事に対して、その罪を受け止めきれない程に。
この世界から、自分の存在を消し去ろうと考える程に。
実際は、それに加えてシンから拒絶されたという誤解も含まれている。
だが、彼がその誤解に気付く事は無かった。
「優しい言葉を掛けてやれとは言わん。
ただし、ちゃんと言葉は選べ」
「……分かった」
シンは両手で鼻と口を包み込み、落ち着かせるように瞼を閉じる。
自分の言葉が、フェリーにどう伝わるかは解らない。
正直に言うと、怖い気持ちもある。曲解されるかもしれないと。
逆の不安もある。彼女が自分を傷付けるなんて、考えてもみなかった。
何を伝えたらいいのか、解らない。
熟考の末に導き出した答えは、自分のエゴだった。
「マレット、ありがとう」
「いいけど、終わったら返り血の件は話してもらうからな。
面倒事ばかり持ち込みやがって」
「……悪い」
「いいから、早くいけ」
自分も大概面倒な人間なのだからと、マレットは手をひらひらと振った。
シンはこの一週間、いやそれよりずっと前から彼女には世話になりっぱなしだった。
……*
シンが帰ってきている事は、フェリーも把握していた。
ちらちらとカーテンの隙間から外を覗き込んで、戻ってくる姿を確認した。
ただ、自分が部屋を暗くしている事もあって、シンの返り血には気付いていない。
マレットと何か話をしているのだろうか。
自分も部屋から出るべきなのだろうか。
顔を合わせて、嫌な顔をされないだろうか。
「フェリー、起きてるか?」
不安がぐるぐると脳裏を駆け巡っていると、扉越しにシンの声が聞こえた。
自分に対して、声を発してくれた。その事実が嬉しかった。
同時に、怖かった。彼がどんな言葉を続けるのかが、怖くて堪らなかった。
そう思うと、フェリーは声が出せなかった。
出してしまうと、終わってしまう気がした。
二度と、シンと話せなくなるような気がした。
「……今日の事、マレットに聞いたよ」
だが、シンは言葉を続ける。
起きていなくてもいい。これだけは、伝えようと決めてきたからだ。
フェリーは下唇を噛みしめながら、じっと聞いた。
また、嫌われるのだろうか。そう思うと震えが止まらなかった。
「俺がちゃんとお前を殺せなかったから、そうしたんだよな。すまない」
どうして謝るのだろう。
シンは何も悪くないのに。自分が彼から全てを奪ったのに。
死ぬ事すら出来ない、彼を苦しめるだけの存在となってしまったのは自分なのに。
「――俺が、お前を必ず殺してやる。
だから、自分で死のうとするな」
シンの声は微かに震えていたが、それにフェリーが気付く事は無かった。
ただ、自然と涙が零れていた。
まだ、彼は自分と向き合ってくれようとしている。それが嬉しかった。
たくさんの人の命を、理不尽に奪った。
それなのに、死ぬ事が出来ない。シンに償う事が出来ない。
途方に暮れる自分へ、彼は『救い』の手を差し伸べてくれた。
一方で、シンはその言葉を何とか絞り出していた。
本当はこんな事を言いたくなかった。
でも、彼女が自らを傷付ける事に、シン自身が耐えられなかった。
今、言った事は自分の精神を削ると解っている。
それでも、言葉に出すしかなかった。
せめてフェリーの精神だけでも救いたかった。
第一、自分は既にその手を血で染めてしまったのだ。
その先が地獄だろうが、進むと決めた。
「それと、これから俺は外に出る事が増えると思うけど……。
ちゃんと戻ってくる。約束する」
その先の言葉は、言えなかった。「だから、話をしよう」とは。
シンもまた、彼女に拒絶されるのを恐れていた。
フェリーは最後まで言葉を発する事は無かったが、扉の向こうでひとり頷いていた。
……*
「で、ちゃんと説明してもらうからな」
一階に降りたシンを、仁王立ちのマレットが待ち構える。
喋るまでは離さないという強い意志を感じる。
尤も、シンもそのつもりであった。
隠すつもりなら、そもそも服を処分してから帰ってくる。
話した結果、この家を追い出されるのであればそれも受け入れるつもりだった。
「分かってる。ちゃんと話すよ」
シンが訪れていたのは、カランコエの村だった。
家は焼け崩れ、炭化や灰化した遺体は憲兵によって片付けられていた。
村の入り口で、シンは手を合わせた。
みんなの鎮魂を祈ったのか、フェリーの幸せを願ったのかは自分でもよく解っていない。
ただ、消えてしまった故郷に対して出来る事がそれしか無かった。
「……やっぱり、何も解らないか」
村をくまなく歩いてみたものの、手掛かりになるようなものは何もない。
あるいは、村を燃やしたのはフェリーじゃないという証拠が欲しかっただけかもしれない。
やっぱり、まだ信じられなかった。
村が滅びた事も、フェリーがみんなを燃やしたという事も、シンには受け入れ難かった。
日が暮れるまで、それは続けられた。
得られる物は、無かった。
すっかり暗くなり、シンは近道の為に獣道を歩く。
この辺りは大した魔物も居ないし、過度に怯える必要もない。
その思いとは裏腹に、ガサガサと葉を掻き分ける音が鼓膜を揺らす。
出逢った以上は戦うしかないと、意識を耳に傾ける。魔物の奇襲に備えて、シンは剣を抜く。
眼前の葉が大きく揺れ、シンは切っ先を向けた。
「――!?」
現れたのは、小さな女の子だった。シンは慌てて剣を引っ込めた。
少女は眼前にいる自分へ眼もくれず走っている。ずっと後ろを気にしている。
その理由はすぐに判った。
少女を誰かが追っている。顔を隠した、剣を持った男。
体中に擦り傷や切り傷を作り、土でその足を汚し、それでも少女は男から逃げる。
シンは何故か、自分の知らない頃のフェリーを少女に重ねた。
アンダルが言うには、彼女は売られたのだと。それまで、名前すら与えられない環境で過ごしていたのだと。
どれぐらい辛い事なのか、シンには想像も出来ない。
ただ、フェリーと姿を重ねてしまった以上、見て見ぬフリなど出来るはずも無かった。
一度は引いた剣を、再び前へ出す。
男の剣と刃を交えると、金属音が獣道に響いた。
少女が驚いた顔をする。
「逃げろ!」
シンが怒鳴ると、少女は身を竦めた。
突然視界に現れた少年に目ぱちくりとさせながらも、最終的にはシンの言葉に従った。
「お前っ……!」
男を歯ぎしりをしながら、シンへ斬りかかる。
鋭い剣尖がシンの肩を掠める。手練れだと、すぐに解った。
視界の悪い状態で、彼の攻撃を躱す事は困難だった。
一方で、不思議な感覚だった。男の声をどこかで聞いた事がある。
だが、それを熟考する時間を相手は与えてくれなかった。
自分をすぐに斬り捨て、少女を再び追わんとしている。
そうはさせまいと、切っ先のみに神経を集中させる。そうする事でようやく男の攻撃を捌けた。
いくらか剣を交え、その攻撃パターンを身体が覚え始めていた。
やけにすんなり、自分の身体がそれを受け入れている。
やっぱり、自分はこの男を知っている。
(右、右、フェイントからの、左……。ここだ!)
タイミングを合わせ、反撃を試みようとした時だった。
「――っ!」
自分の呼吸を読まれたのか、相手の動きが変わる。
足を引っ掛けられ、その場に倒される。
「終わりだ!」
男はそのまま覆いかぶさるように、突き立てた剣を下ろす。
眼前に広がる『死』に対して、シンが思い浮かべたのはフェリーだった。
今、自分が死んだらフェリーはどうなるのだろうか。
もうずっと顔も合わせていない。最後に見た姿は、抜け殻のようだった。
嫌だった。それで終わりだなんて、認められなかった。
そこから先は、驚くほど自然に身体が動いた。
足を絡ませ、男の手元を狂わせる。
下ろされた剣が地面に突き刺さると同時に、自分の刃が彼の胸を貫いていた。
「か……はっ」
胸からもれた血が、シンの服を汚した。
だらんと男の力が抜け、全ての体重が自分に預けられる。
男は息絶えた。間違いなく、自分が殺した。
驚くほど呆気なく、男は死んだ。フェリーと同じ所を刺したのに、結果はまるで違っていた。
固く握っていた剣の柄。その感覚が鈍くなる。
心臓がバクバクと音を立てている。思考がはっきりと定まらない。
それでも、どこか冷静な自分が居るのも事実だった。
冒険者なのだから、いつかは人と戦う事もあると思っていた。
覚悟が決まる前に、大切な女性を手に掛けた。
それが、シンの中での意識が自然と変わっていたからなのかもしれない。
思考と感情の乖離に戸惑いながらも、シンは男を寝かせた。
顔を隠しているスカーフを取ると、言葉を失った。
男の顔には、右目の下から耳元に伸びる大きな傷があった。
「……クリムさん」
冒険者ギルドで、世話になった先輩冒険者。その姿だった。
道理で声も攻撃パターンも覚えがあるわけだと、納得もした。
慌てて周囲を見渡すと、仲間であるポイナとデリットの姿は見当たらなかった。
命の恩人を手に掛けた事により、動揺が心のウエイトが占めるようになる。
一体彼が、どうしてあんな子供を追いかけていたのか。
「どうして……」
「いや、助かったよ。少年」
その問いに答えるように男が現れた。
黒い衣服に身を包んだ、紳士のような出で立ち。
紳士風なのは、見た目だけだと思った。男の瞳は、暗闇の中でも濁っている事が判る。
いつからそこに居たのか。或いは、最初から居たのか。
周囲を気にする余裕が無かったシンに、男の存在を感知する事は出来ていなかった。
「その男は、この辺りで子供を攫っては奴隷として売り捌いていてね。
奴隷市を預かる我々としても、あまり快く思っていなかったんだ」
得心が行った。あの少女は、きっと攫われたのだ。
それをクリムが追い掛けていた際に、自分と交戦した。
「あまりに強引に売っていくけれど、それが原因で面倒になる事も多くてね。
いつか落とし前を付けるべきだと思っていた所に、君がそれを果たしてくれた。
君には感謝してもしきれないよ」
ペラペラとよく回る口を相手にしても、シンの心は動かなかった。
余りに軽すぎる。子供の自分でも、胡散臭いという気持ちが上回るぐらいには。
「……それで、今度は俺を口封じするって流れか?」
シンは剣を構えた。いつ襲ってきてもいいように。
「いやいや、逆だ。君に手伝って欲しい。
彼にはまだ仲間がいる。一人殺されたぐらいでは止める事はないだろう。
それどころか、報復される可能性すらある。君を探し出してね」
(やっぱり、脅しじゃないか)
探し出すのではない。この男が自分の情報を差し出すのだろう。
そう言いたかったが、喉元で飲み込んだ。
「どうだい、君が望めば仲間の情報を差し出そう。
何なら、報酬も出す。私は君の実力を評価している。
冒険者ギルドでも腕利きの、クリムを斃したのだからね。
悪い話ではないだろう?」
「ひとつ、訊きたい。アンタはこの街の事に詳しいのか?」
男は頷いた。
「ああ、それなりには知っているよ。
例えば、君がカランコエの出身だという事ぐらいは」
最悪だと思った。男は奴隷市を預かったと言った。
フェリーの事も知られていれば、何をされるかわからない。
断る選択肢は、用意されていなかったのだ。
「……分かった。協力する」
ならば。
話に乗るしかない。
せめて、フェリーの安全が約束されるぐらいには。
男はうんうんと頷くと、「では、明日にでも打ち合わせよう」と言い残して闇に消えた。
……*
「お前ら。どうしてそんな面倒事ばかり……」
「悪い……」
マレットが頭を抱えていた。
流石のシンも、迷惑を掛けっぱなしで申し訳ないとは思っている。
「フェリーには言ったのか?」
「言える訳、ないだろう」
これから自分はバンバン人を殺しますなんて、口が裂けても言えない。
ただ、一線を越えてしまったからだろうか。
扉越しとはいえ彼女に「殺してやる」と言えてしまったのは。
「シン。一応言っておくぞ。
フェリーには黙っておいてやる。でも、お前の手助けは出来ないぞ」
元より、そのつもりだった。
マレットには散々世話になっている。
下手に協力を申し出て、矛先が向かう事は避けたい。
「分かってる。迷惑ばかり掛けてすまない」
「ったく、本当だよ」
毒づきながらも、自分たちを追い出そうとはしない。
その優しさだけで、シンにとっては十分ありがたかった。