64.拒絶
フェリーが震えながら漏らした言葉。
シンにはそれを受け入れる事が出来なかった。
笑えない冗談だ。熱に中てられて、変な事を口走ったのだろう。
いや、もしかすると中てられているのは自分かもしれない。
あるいは熱で歪んだ空気が、フェリーの声を上手く自分に耳まで伝えなかったのかもしれない。
アンダルはずっと『命』の大切さを説いていた。
誰よりも聞かされているフェリーが、そんな事を言うはずがない。
「お願い……。あたし、わけ……わかんないから。
だから、殺して……」
それなのに、フェリーは大粒の涙を溢して自分へ殺す事を懇願している。
浅い呼吸をずっと繰り返して、瞳孔を開かせて。
彼女を苦しめているものの正体が、シンには見つける事が出来ない。
「誰かに、言わされているのか?」
フェリーは小さく首を振った。
目元に溜まった涙の粒が零れ、彼女の頬を伝う。
「わ……からない。わから、ないよ。
でも、あたし……なの。シン、おねがい。ころして」
「……っ」
何度言葉を交わしても、返ってくるのは同じ答え。
肉の焦げる臭いが、崩れ落ちる炭や灰が、狼狽する彼女の言葉を後押しする。
――それでも。
「出来るわけ、ないだろっ! ふざけた事、言うな!」
自分がフェリーを殺す理由にはならなかった。なるはずが、無かった。
ずっと傍に居て、これからも傍に居て欲しくて、日常の延長線上にあって。
それを自分の手で壊す決断など、シンに出来るはずが無かった。
フェリーが居るから、強くなろうと決めた。
まだ全然弱くて、絵空事で、期待に応える自信がなくて。
でもいつかは土産や話だけでなく、二人で冒険に行きたいと思って。
それこそアンダルの話より凄い冒険をしてみせるんだと。
なんとなく描いていた未来が、壊れる音がした。
彼女の顔は留めどなく溢れる涙と、それに溶けていく黒い汚れ、そして惑乱でグチャグチャになっていた。
笑ったり、怒ったり、時には静かに泣いたり。コロコロと表情を変える、自分の知っているフェリーの姿はどこにもなかった。
「シン。おねがい……」
フェリーは鼻を啜る。涙がまた零れる。
虚ろで、弱弱しくて、自らの『死』。ただ、それだけを懇願し続ける。
これは、自分に対しての罰だと思った。
彼女の願いを聞き入れなかった事に対するツケが回ってきたのだと。
「……わかった」
シンは頷いた。
次の言葉を発しようとすると、喉がそれを拒否しようとした。
ゆっくり息を吐き、彼女の眼を見て、自分の感情を抑えつけて、絞り出しながらその言葉を発した。
「俺がお前を……殺すよ」
いつしか、シンの手は温度を失っていた。
……*
その言葉を聞いた時、フェリーはふたつの感情が入り混じっていた。
シンに対する感謝と、彼の大切なものを奪った事に対する謝罪。
「い……」
――いつも、ワガママ言ってごめんね。
そう言いたかったのに、唇は動かなかった。
安い言葉で、彼の決意を乱してはいけないと思った。
シンが剣を抜く。ケントとカンナに反対されながらも、こっそりと彼が一人で出た冒険。
その時にゼラニウムの街で買った剣。ずっとお小遣いを貯めてたと思ったら、彼は冒険の準備をしていたのだ。
ずるいと思った。自分も連れて行って欲しいと思った。
でも、それ以上に怖かった。シンが遠くに行ってしまう気がして。
案の定、シンは知らない間に綺麗なお姉さんと仲良くなっていた。
しばらく泊まって、村に何日も帰ってこなかった。
正直、嫉妬した。リンと二人で覗きに行かなければ、飛び出していたかもしれない。
大きな屋敷の前で、楽しそうに話している相手が羨ましかった。
ちょっとでもあの人に近づけたら、自分ももっと構ってもらえると思った。
そんな事ばかり考える子供だから、シンは一緒に連れて行ってくれなかったに違いない。
でも、今は彼女が居て良かったと思う。
シンは独りぼっちじゃない。それが解っているだけで、安心して逝ける。
それでも家族を失った痛みは、忘れる事が出来ないと思う。
謝っても謝り切れない。自分なんかの命じゃ、釣り合わないと思う。
でも、フェリーには差し出せるものがそれしかない。本当に申し訳ないと思いながら、その命を差し出す事しか。
シンが俯いたまま、フェリーの胸に刃を突き立てた。
鋭い先が、彼女の柔らかな皮膚を裂いた。
フェリーは思わず声を漏らしそうになったが、歯を食いしばった。
自分がここでそんな素振りを見せれば、シンはきっとその手を止めてしまう。
彼が優しい事を、一番知っているのは自分なのだから。そこだけは譲れない。
白く柔らかな肉が、刃を吸い込んでいく。
ボロボロに裂けている服が、段々と赤く染まる。それでも、フェリーは決して声を漏らさない。
この苦痛を受け入れる事が、唯一行える贖罪なのだと信じて。
「っ……」
嗚咽を漏らしたのは、シンだった。よく見ると、剣を持つ手がカタカタと震えている。
添えているだけで、力が入っていない。その証拠に刃は段々と前へ進まなくなっていった。
シンは、怖かった。今、自分が行っている行動が。
アンダルから『命』の大切さを説いて貰ったのに、逆らっている。
大切な女性を傷付けている。こんな事は間違っていると、自分の全てが訴えてくる。
それでも、手を止める事だけはしなかった。気持ちに整理がついていない中、何故なのかは自分でも解っていない。
フェリーは荒い吐息を吐きながら、微笑んだ。
彼の優しさに。意思の強さに。
滲み出る血の量が、そのままシンへの感謝となった。
段々と腹部へと近付くシンの手。それが愛おしくて、今度は自分が手を重ねた。
先刻の自分よりも冷たい手だった。
「だいじょぶ。……ありがと、シン」
シンの顔はずっと俯いていて、見えていない。
今、どんな表情をしているのだろうか。
同時に、今しかないと思った。
自己満足でも、それを伝えたいと思ってしまった。
――好きだよ。
決して声に出す事は無い。口をその通りに動かしただけ。
シンに知られる事はないけれど、それで良かった。彼に『呪い』を遺す訳には行かないから。
自分の身体が、体温を失っていくのを感じる。
終わりの刻は近いのだと、実感していく。
シンが剣を引き抜くと、フェリーの身体は崩れ落ちた。
血の海に溺れる彼女の顔は、微笑んでいた。
シンは、初めて人を殺した。
或いは、死んだのは自分の精神なのかもしれない。
……*
引き抜いた刃には、ペンキでも被ったかのようにべったりと赤い血が塗りたくられていた。
それがフェリーの体内を巡っていたのだと思うと、手に力が入らなくなった。
するりと、血の海に剣を落としてしまう。綺麗な金色の髪と、白い肌。そして、衣服が血を吸って真っ赤に染まる。
当たり前のように、自分の手も血で汚れている。
いや、見えていないだけできっと色んな部分が汚れているに違いない。
いつしか、炎はその勢いを弱めていた。燃える物が、もう無くなったのだろう。
鉄の臭いがツンと鼻を突く。いろいろな臭いと混じっていくが、その全てが不快だった。
シンは考えてしまう。
本当にこれで良かったのだろうか。
懇願されたからなんて安い理由で、自分の大切な女性の命を奪ってしまった。
その『罪』は、一生背負っていかなければならない。それが赦される事は無い。いや、自分自信が決して赦さない。
同時にふと、これから自分はどうすればいいのだろうと考えた。
故郷はもう無い。家族も、灰となってしまった。
そして、大切な女性は自分の手で――。
不意に、胃がその中身を全て逆流させる。
正しい流れへ押し戻そうとする力はとても弱く、食道を通って喉元まで上り詰めてくる。
酸っぱい液体と一緒に、胃に詰め込んでいたものがペースト状で吐き出された。
「おえっ……。うっ、えぇぇぇ……」
出しても出しても、逆流は止まる気配を見せない。
固形物が亡くなれば、胃液だけでも吐き出していく。
食道が、胸が、灼けつくように痛む。
いつしか、出すまいと耐えていた涙もぼたぼたと零れていた。
自分の心に対する拒絶が、ダイレクトに伝わってくる。
フェリーは最後まで耐えていた。声ひとつ漏らさず、自分への罰を受け入れた。
それに比べて、自分はここまで弱いのかと思った。
シンにとって家族が、フェリーがどれだけ特別であるかを示しているのだが、今の彼には自己嫌悪を強めるだけでしか無かった。
吐瀉物を出し切っても、シンはその場から動けなかった。
汚れる事も厭わずに、座り込んでしまう。
光を失った眼で、血の海に沈んでいるフェリーをぼんやりと眺めた。
血の表面が固まり、膜となって浮いている。
僅かな風にも反応して揺れるそれが、フェリーの命に代わって動いているかのように見えた。
確かに、シンにはそう見えたのだ。
眼前に広がる光景を、瞳に映すまでは。
フェリーの指先が、ピクリと動く。
その身体に生命が宿っている事を、証明するかの如く。
「あ、あれ? あた、し……」
血のこびり付いた金色の髪を持ち上げながら、彼女は身体を起こした。
身体の半分を血に染めながらも、彼女の瞳には光が宿る。
フェリー・ハートニアは死んでいなかった。
「フェリー……?」
シンは目を見開いた。彼女の姿を、まじまじと見る。
暗くてよく判らないけれど、その肌も血色が良いように見えてしまう。
いや、そんなはずはない。シンは頭で否定する。
間違いなく、自分の刃が彼女の肉を切り裂いた。
あの感触が、溢れる血が、失われていく体温が嘘であるはずがない。
殺したのだ。自分はフェリー・ハートニアを、殺したのだ。
そうでなければ。ならないのだ。
散々聞き入れなかった、彼女の我儘。
大切な女性の、たったひとつの願いすら叶えられない自分を、シンは益々嫌いになった。
……*
意識を取り戻したフェリーが、血の海から身体を起こす。
どうして自分は死んでいないのだろうかと、自分の胸に手を伸ばした。
そこにあるはずのものが、既に消えていた。
剣で裂かれたはずの傷が無い。血も止まっている。
だったら、この自分を真っ赤に染めているものはなんだというのか。
自分の血である事は疑いようがない。乾いた表面が、自分の動きに沿って皺を生み出す。
血の臭いに、思わず咽そうになった。
治癒魔術を使った? そんなはずはない。
シンは魔術を使えない。
なら、自分が治癒魔術を使った? そんなはずもない。
自分は、治癒魔術なんて使えない。
尽きるはずの命だった。それで、自分の贖罪は済むと思った。
混乱が次の混乱を生み出していくが、シンの存在がフェリーを優先順位を明確にした。
血の海が、表面だけを固めているとなるとそれほど時間は経っていないように思える。
シンは今、どうなっているのだろうか。
顔を上げると、すぐ傍に彼は居た。やっぱり、シンはいつも傍に居てくれる。
「シ――」
彼の名を呼ぶ前にそれが目に入り、言葉にならないまま吐息が宙に舞った。
目を見開いて、口を開けて状況を受け入れられないシンの姿。
その脇には、大量の吐瀉物。
フェリーは胸が苦しくなった。
それは紛れもなく、彼の拒絶から来るものだった。
故郷を燃やし、家族を殺した自分に対する拒絶の現れ。
自分が汚い物だという事を、否が応でも突き付けられている。
(そうだ、そうだよね……)
当たり前だ。そんな事をして、ましてや好きな男性の手を汚させておいて、のうのうと起き上がる。
アンダルは言っていた『命』は大切なものだと。
それを理不尽に奪った自分だけは、その『理』からも拒絶されている。
まるで化物だ。こんな醜い自分は、シンに拒絶されて当然だ。
シンも、フェリーがまさかそんな事を考えているとは思っていなかった。
殺したはずなのに、起き上がっているという事への混乱。
殺したはずなのに、生きてくれているという事への喜び。
彼の頭の中も、既にグチャグチャで彼自身でさえ何が何だか分かっていない。
シンと目が合った。フェリーはそれを逸らす事が出来ない。
互いが互い、声を出す事が出来ない。どんな言葉を掛ければいいのか、分からない。
フェリーは、独りぼっちになったと確信した。
全てを壊し、シンには拒絶された、嫌われてしまったと。
それを当然だと受け入れてしまった。
この世界から消えてしまいたいと、より強く願ってしまった。
シンは、自分の事が赦せなくて堪らなかった。
フェリーを殺せなかった自分を。
もう一度懇願された時に、応える覚悟がない自分を。
生きていてくれた事が嬉しいはずなのに、それを声に出す事が出来なかった。
マレットが憲兵を連れ、灰となったカランコエに到着したのはそれから間もなくの事だった。