エピローグ.特異点
――上手く行ったようだ。
真っ白な。全てが霞みがかった空間で、とある神が呟く。
隣に佇む女神が深く頷く。自分達の願いは成就したのだと、柔らかな笑みを浮かべていた。
……*
時は戻り、法導歴0310年。
神々が齎した神器を通して、魔族による侵略を食い止めてから300年余りが過ぎた頃。
遠い未来で新たな脅威が生まれようとしている事を察知した神が居た。
神の名は刻と運命の神。
未来を見通す眼を持つ神だった。
当時。ビルフレスト・エステレラはおろか、ファニルさえもこの世に存在していない。
刻と運命の神以外からすれば、受け入れ難い話である。
それでも、神々の集う世界で刻と運命の神は訴える。
約200年後に、再び人間へ脅威が訪れるのだと。
人自身が創り出した『神』の手によって、現世に生きる者達が滅ぶかもしれないと。
しかし、他の神からの反応は芳しくない。
理由は大きく分けて、ふたつ。
まず、神は現世に大きな干渉をしてはならないという不文律。
事あるごとに神が現世に影響を及ぼせば、次第に祈りは醜い願いばかりになってしまう。
魔族の侵略に対して神器を与えたのは、あくまで特例。
もしも魔族に世界が支配されてしまえば、邪な願いに自分達さえも毒されてしまう事を危惧したからだ。
それでも、直接の干渉は行っていない。あくまで現世に生きる者達が、決着を付けなくては意味が無いからだ。
そして、もうひとつの理由はその神器にある。
魔族を退け、役目を終えた神器は次第にその在り方を変えていく。
中には妖精族のように、脈々と祈りを捧げられて伝えられていくものもあった。
絶え間なく祈りが捧げられた愛と豊穣の神は、さぞかし幸せだっただろう。
問題は祈りも捧げられず、権力の象徴として扱われる神器達。
何の為に存在していたのか。次第にその理由すら、疑問に思われなくなる。
それは同時に、現世に生きる者が神々への信仰を失おうとしている証でもあった。
自らの力のみで運命を切り拓いたのだという驕りが、徐々に浸透していく。
結果。捧げられる祈りこそ減ってはいるが、全ての神が悲観をしている訳ではない。
小鳥が巣立つように。現世に生きる者もまた、己の道を切り拓こうとしていると考える神も居た。
神器と共に、自分達の役目は終わったのだと。
刻と運命の神もその一人だった。
最も。彼は以前の戦いでも神器を生み出しては居ない。
正確には、生み出せない。未来を見通す事に、力の大半を使っているから。
けれど、やはり見守っていた最大の理由は現世が好きだからだ。
こうして滅びの未来を見つけてしまって、放っておくなんて彼には出来ない。
今一度、不文律を侵してでも。現世を救うべきではないのかと訴えた。
――だが、今度は人間が人間を滅ぼそうとしているのであろう?
呆れたように告げたのは、力と規律の神。
異種族間の争い。それも、一方的な蹂躙ならいざ知らず。
今回は人間の手で、人間を滅ぼそうとしている。肩入れする必要はあるのかと、皆へ問う。
誰もが納得をする答えを出せる者は、いなかった。
そもそも。刻と運命の神の未来は、確実なものではない。
いくつか存在する可能性のひとつを、拾い上げているだけだ。
事実、外した事も少なくはない。そんな不確かなものの為に、不文律は侵せない。
――真に脅威が訪れるのであれば、現世に生きる者は再び我らへ祈りを捧げるでしょう。神器は既に、用意しているのですから。
自分達は既に、手は打っている。本当に力が必要となった時は、また彼らは祈りを捧げるだろう。
そう主張するのは大海と救済の神。彼女の口調は、そうなる事を望んでいるようにも思えた。
誉れ高き龍族へ与えた神器が、権力の象徴となっている姿に思うところがあるのだろう。
結局、刻と運命の神の訴えは皆に伝わらなかった。
文字通り、見えている世界が違うのだから仕方がない。
刻と運命の神はそう自分に、言い聞かせた。
確かに、神器の力は強大だ。再び正しき祈りを捧げれば、輝きを取り戻すだろう。
だが、それ自体が封じられてしまえば?
新たな脅威は悪意を糧に『神』を創ろうとしているのだ。人々から信仰を奪う、掠め取る危険性があった。
やはり、手を打つべきではないか。
でも、どうやって?
堂々巡りに頭を悩ませる刻と運命の神へ手を差し伸べたのは、とある女神だった。
生命と慈愛の神。
生命を司る女神である彼女は、現世の命が悪意によって失われていく。その可能性に、ひどく心を痛めた。
例え数ある道のひとつだとしても、見過ごせないと刻と運命の神に協力を申し出る。
こうして、刻と運命の神と生命と慈愛の神による永きに亘る計画が幕を開ける。
尤も。その運命がどう転ぶかは、あくまで人間次第。彼らは可能性を生み出すだけ。
まず生命と慈愛の神は、先の戦いで自らが生み出した神器を活用しようと提案した。
神器の名は、巨人王の神斧。継承者が不在となった、空席の神斧。
こうして神器は今一度、器としての形を変える。
生命と慈愛の神の力に、刻と運命の神の力が混ざり合う。
大いなる力はひとつの母胎へと宿り、死産となるはずだった命を蘇らせる。生きた神器、運命の特異点として。
生まれた命には、イリシャと名付けられた。
――あとは、彼女たち次第だ。
生命と慈愛の神は生まれた命を慈しむように見守りながら、健闘を祈った。
刻と運命の神も納得したように頷く。これが自分達に出来る、干渉の限界。
生きた神器であるイリシャは、生命と慈愛の神の寵愛によって老いから解放される。
また、同時に刻と運命の神によって強い運命を与えられた。
遥か未来で、世界を救う者達を導く存在としての役割を果たす為の特異点。
一方で、イリシャに戦う力は敢えて与えなかった。
もしも与えてしまえば、超越した存在である彼女自身が崇拝の対象と成り得る。
悪意とは別の形で、世界が歪む可能性を危惧しての措置だった。
神々の思惑など知る由もなく。
子宝に恵まれなかった夫婦は、イリシャの誕生を心から喜んだ。
イリシャもまた、両親の愛情を受けて健やかに育っていく。
己の運命を、課せられた使命など知る由もなく。
彼女は自らの身に宿っているものを、神に願われた運命をなにひとつ知らない。
他の人間と何ら変わらない、同じ時間を過ごしていく。
神々の空間から見守る刻と運命の神と生命と慈愛の神も、流石に息を呑んだ。
それでも決して、イリシャへの干渉は行わなかった。
人間が好きだからこそ。思い通りに操る駒には、したくなかったから。
それに、可能性が全て潰えた訳ではない。希望はまだ残っている。
切り札は刻と運命の神が造った古代魔導具の短剣。
使用者の魔力を吸い取った短剣は、一度だけ時を戻る事を可能とする。
きっと運命を司る神器となった、イリシャの元へと引き寄せられるだろう。
元々強い信仰を受けていない刻と運命の神は、以後急速に力を弱めていく。
最早彼に、未来を見通す力は残っていない。生命と慈愛の神と共に、ただありのままを見守り続けた。
一方で、イリシャは己の異変に気付いていく事となる。
老いない身体が生み出す混乱を危惧し、最愛の家族から離れていく。
心に大きな穴を開けたユリアン・リントリィが、強大な力を持つ事になるとは、この時点では誰も予見していなかった。
その後もイリシャは、あくまで己の特異体質と向き合う形で人生を全うしていく。
もしかすると、彼女は邪神と関わる運命を歩まないかもしれない。そう思い始めた。
刻と運命の神と生命と慈愛の神が滅びの運命を受け入れるしかないのかと思った時。
未来からとある青年が、やってきた。刻と運命の神の遺した、古代魔導具を使用して。
法導暦0485年。
イリシャ・リントリィは、シン・キーランドとの邂逅を果たす。
ここから彼女達を取り巻く運命は、大きく変わっていく。
驚きだったのはシン自身が正真正銘、ただの人間である事だ。
魔力や家柄は勿論。強い運命など、なにひとつ持ち合わせていない。
普通に考えれば、古代魔導具を起動できるはずも。
だが彼は、起動してみせた。他者の魔力を奪い取る武器として、魔力を蓄積していたのだ。
そしてしまいには、邪神の『核』からも魔力を吸い取って見せた。
同時に、この時。邪神の精神が、心優しき青年へと触れる事となる。
悪意によって創られた神が、踏みとどまる為の楔が打たれた。
動き出した運命は止まらない。本人の知らぬまま、イリシャを中心にして加速していく。
その最中でアンダルは、シンに懇願されて一人の少女を娘として育てる道を選んだ。
後にフェリー・ハートニアという名を与えられる、少女を。
一方。アンダルの中に潜むユリアンは知る事となる。
32年後の未来に、自分はイリシャと再会するのだと。
アンダルの娘。フェリー・ハートニアという少女の内側から。
変わった運命はそれだけではない。
シンは、ゼラニウムで幼少期のベル・マレットを救い出した。
この事件で彼女の心に与えた影響は、決して小さくない。
数々の魔導具は、後の世界を救う為に必要不可欠となった。
彼と出会った事により起きたイリシャの心境の変化にも、大きな意味があった。
魔術大国ミスリアへ足を運び、幼少期のイルシオンに与えた影響は決して小さくない。
更に歩みを進めた先は、アルフヘイムの森。
妖精族の里でも、彼女は友人を作る事が出来た。
リタやレイバーンは人間より長寿であるからか、イリシャにとっても久しぶりに気兼ねなく話せる友人となった。
強い運命を持つイリシャは、自覚しないままに多くの者を導き始めていたのだ。
強い運命を持つ、選ばれし者達を集結させる為に。
ただ、多くの運命が交錯する中で。
シン・キーランドは強い運命を持つ者達に翻弄され始める。
その中には、己の家族を失うという不幸もあった。
それでも彼の心は、決して折れなかった。
苦しみながらも歩み続ける。大切な少女を、孤独にしない。
ただそれだけの為に、彼は戦い続けた。
だが、刻と運命の神はこうも思う。
彼は何者でもない。ただの人間。路傍の石に過ぎない、異物だからこそ。
シン・キーランドは誰にとっても無視できない存在になったのではないだろうかと。
そんな彼だからこそ、神すら予見しなかった結末を迎えられたのではないだろうかと。
今となっては、刻と運命の神はシン・キーランドへ感謝すらしている。
自分達にとっての愛娘と、新たに加わろうとしている同胞を傷付けずに済んだのだから。
……*
霞みがかった空間で視線を感じ、純白の子供は意識を取り戻した。
自分を囲むように仰々しく並ぶ存在が神々だというのは、すぐに理解した。
その様子から、自分の品定めをしている事も。
――お主は、どのような神となりたいのだ。
神の一人が問う。
純白の子供は、答えた。
「皆を笑顔にしたい。そして、誰にも傷付いて欲しくないんだ。
傷付いた人たちがいるのなら、その人たちを癒したい。癒されてほしい」
答えに迷うはずもなかった。
己の心を通わせた人間の前で、願った内容なのだから。
自分の胸で宿る温もりに、絶えず輝く灯火に、嘘はつけない。
――あなたが望むのなら、あの人間の子供として生まれ変わることもできるわ。
――尤も、神としての記憶は全て失われる。真っ白な状態となるけれど。
次の質問は、意外なものだった。
ほんの少し眉を顰めるが、迷っている訳ではない。
気遣いに感謝の意を記しながら、首を横へと振る。
――よいのですか?
「ええ。彼の温もりは、愛情はもう与えてもらった。教えてもらいましたから。
彼は優しいから。もっと多くの人に、愛情を与えられる人でしょう。
僕の我儘で、他者へ注がれるべき愛情を掠めとるような真似なんて出来ません。
彼に顔向け出来ないようなことは、したくありません」
魅力的な提案ではないと言えば、嘘になる。
それでも、純白の子供は己の意志を曲げなかった。
自分に初めて祈りを捧げた青年と、真摯に向き合いたかった。
神々は悟った。もう、この子供は悪意に満ちた存在ではない。
己の我欲で、世界を混沌に貶める事はないだろうと。
――そうですか。では、私たちもあなたを歓迎しましょう。
ならば、拒絶する理由はひとつもない。
神々は新たな『神』の誕生を、受け入れる。
――神々の世界へようこそ、祝福と再生の神よ。
「祝福と、再生……」
自らに課せられた天命を、純白の子供は繰り返す。
悪くない響きだと思った。
続けて神々は、純白の子供へ『神』としての最初の仕事を告げる。
とても大切であると同時に、新たな仲間への門出を祝う儀式でもあった。
――依代を選ぶが良い。
「依代……?」
訊き返す純白の子供へ、神々は答えた。
新たに生まれた神は、まだ現世では存在を認知されていない。
故に依代を通して、その存在を知ってもらう必要がある。
現世に生きる者に祈りを捧げて貰う為の、大切な儀式。
「だけど、現世への干渉は――」
認められていないのでは。
神々は純白の子供が抱いた懸念を否定し、優しく諭す。
――依代では現世へ強い影響は与えられない。精々、その日が少し良い日だったと思える程度だ。遠慮する必要はない。
見抜かれている。
先輩の神々を前にして、純白の子供はそう感じた。
自分の力は必要としていないと、知っている。
だからこれは、自分の願いを叶える為。
純白の子供は。祝福を司る神は、見届けたいものがある。
自分に熱を灯してくれた青年が、たくさんの幸せに囲まれる様子を眼に焼き付けたい。
心の中で、依代に選ぶものはとうに決まっていた。
「僕は――」
……*
「やっぱり、妖精族の里より育つの早いよね」
カランコエにある丘の上。幹に触れながら、小首を傾げるのは妖精族の女王であるリタ。
この樹はリタがフェリーから譲り受けたものと同様の木の実から、芽を出している。
それも、妖精族の里よりも成長した形で。
アルフヘイムの森ほど肥沃な土壌でもないのに、どうしてだろうと考えても、答えは出てこない。
「不思議なこともあるものね」
リタの後ろから樹を覗き込むのは、銀髪の美女。イリシャ。
自分に解かるはずがないと思いつつも、この樹を見ていると不思議と安心感に包まれた。
ユリアンの魔力だけではない。
もっと昔から、似た懐かしさを知っているような気がするものの、答えは出ない。
「でも、あたしはすくすくと育ってくれてうれしいよ」
「フェリーちゃん」
満面の笑みでそう答えるのは、美しい金色の髪を腰にまで伸ばした女性。
結婚した今は、フェリー・キーランドと名乗っている。
その腕には、シンとの間に授かった宝物を抱えている。
「この子も、ここに来るのが大好きだしね」
そう言って彼女は、子供へ樹を見せてあげる。
無邪気に笑みを浮かべる赤子の名は、アン。
フェリーと同じ金色の髪をした、とても可愛らしい子供だった。
「アンちゃん。おっきくなったねぇ」
まるで自分の娘を可愛がるかのように、アンの頭を撫でるリタ。
余程心地よいのか、アンはニコニコと笑顔を浮かべていた。
「もうすぐ一歳かしら?」
「うん。この樹に負けないぐらい、この子もすくすく成長してるよ。抱いてあげて!」
そう言ってフェリーは、愛娘をイリシャへと預ける。
まだ華奢で。でも、確かな『命』の重みがそこにはあった。
「あ、いいなぁ」
リタは羨ましそうに、アンを抱いたイリシャを見上げる。
次に抱き上げると、子供に負けないぐらいの満面の笑みを浮かべていた。
愛娘も樹も、順調に育っている。
充実した毎日を送っているのが、よく伝わってきた。
元々、丘の上に木の実を植えようと言い出したのはフェリーだ。
カランコエの村全体を見渡せるこの場所で、どうか見守っていて欲しい。
そんなささやかな願いを、祈りながら。
「フェリーの言う通りだ。アンも樹も、立派に育ってるよ」
「シン」
フェリーから遅れて丘の上へ現れたのは、彼の夫。シン・キーランド。
お父さんが好きなのか。アンが一層嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「この丘は父さんも母さんも。俺やフェリーも、たくさん思い出がある場所だから。
出来れば、子供たちにも沢山の思い出を作って欲しいんだ」
アンの頭を優しく撫でながら、シンは祈った。
どうかこんな幸せが、いつまでも続きますようにと。
柔らかな笑みを浮かべる彼の姿を、イリシャは嬉しく思った。
(あれ? 今……)
幸せに包まれている最中。イリシャは、違和感を覚える。
ほんの僅かだが、樹が淡く輝いたようなように感じる。温かく、安心するような光が。
しかし、意外にも自分の他に気付いた者はいない。
シンやリタならば、気付きそうなものなのだが。
「イリシャさん? どうかしたの?」
「ううん、なんでもないわ。それより、お弁当にしましょう」
きっと木漏れ日か何かだと自分へ言い聞かせ、イリシャは腰を下ろす。
丘を訪れた目的は、樹の確認だけではない。
集まれた者だけでもいいから、皆でピクニックをするというのが一番の目的。
腕によりをかけて作った料理が並べられていくにつれ、フェリーとリタの目が輝いていた。
「ん~♡ おいしい~♡」
舌鼓を打ちながら、頬が落ちないようにと抑えるフェリー。
その様子が面白いのか、アンはきゃっきゃと笑みを浮かべていた。
「やっぱり、外で食べるお弁当は最高だね」
リタもくすくすと笑ってはいるが、料理へ伸びる手は止まらない。
だって、美味しいから仕方がない。特に大切な友達と食べるのだから尚更だ。
逢う度に何度でも。また来ようと思わせてくれる。
「ああ。こんな日がいつまでも、続くといいな」
村全体を見渡しながら、シンは穏やかな表情を見せる。
彼は祈った。カランコエ。その名の通り、毎日が沢山のちいさな幸せに包まれますようにと。
そんなささやかな願いを、彼はきっと明日も祈り続ける。
皆を笑顔にしたいという願いを持った、純白の子供へ届くと信じて。