527.さようなら
早く、早く。
一分一秒が惜しい中、フェリーは大地を踏みしめる。
己からも消えつつある存在。ユリアン・リントリィをイリシャと引き合わせる為に。
「まだ、まだだよ! もう少しだから……!
イリシャさんと、ちゃんとお話ししないとだよ!」
何度も彼の存在を確かめるかのように、ユリアンへ語り掛けるフェリー。
美しい銀髪が視界の端へ映ったのは、直後の事だった。
……*
崩れ落ちるビルフレストの肉体が、塵となって崩れていく。
悪意に身を蝕まれた結果なのか。それとも、彼の中に眠る魔族の血がそうさせたのか。
ビルフレスト・エステレラの生きたという証が、世界中へと散っていく。
「逝ったか……」
掌に残った僅かな塵さえも消えていく中で、シンはぽつりと呟く。
彼のような存在が二度と生まれないようにと、ささやかな願いを抱きながら。
ただ、成すべき事はまだ終わってはいない。
シンは目を閉じ、大きく息を吐く。
気持ちを新たにしながら持ち上げた瞼の先には、純白の子供が居た。
「悪かったな。怖い思いをさせて」
「ううん」
シンの言葉に純白の子供は首を左右に振る。
新たな『神』へ成ろうとする存在は、屈託のない笑顔でシンを見上げていた。
……*
あれだけ煌めいていた炎が、夕焼けへと消えていく中。
いてもたってもいられず、イリシャは駆けだしていた。
「フェリーちゃん……!」
やがてイリシャは、視界に金髪の少女の姿を捉えた。
安堵する一方。明らかにいつもと違う彼女の様子が、状況を鮮明に伝えてくる。
「イリシャさん……」
眉を下げながらも、自分との再会を喜ぶ姿。
今までのフェリーからは考えられない、先端が焦げた髪や小さな生傷。
シンと同じ結論へ至るのは、必然だった。
「フェリーちゃん。もしかして……」
不老不死という呪縛から解放されたフェリー。
喜ばしい反面で、イリシャにとっては愛する夫との離別を突きつけられる。
もしかすると、もう消えているかもしれない。抱いた不安が、胸をざわつかせる。
「フェリーは、気を遣ってくれた……。私と、君のために」
そんな不安を払拭するかの如く。
ユリアン・リントリィは『表』へと姿を現す。
「……ユリアンなの?」
「ああ。だが、もう時間は残されていない。
君と満足な話をすることは、難しいだろう」
安堵の表情を見せたイリシャだったが、すぐにその表情を曇らせる事となる。
愛する夫との時間は、もう幾ばくも残されていない。そう宣言されたのだから。
「そ、う……」
イリシャの頬を、涙が伝う。
遥か昔に、覚悟の上で家族の元を去ったというのに。
どんな形であれ、再会出来た事が嬉しかった。
やはり彼を愛していたのだと、思わずには居られない。
本当ならずっとずっと、語り合いたい。
互いが感じたこれまでを、共有し合いたい。
苦しい事も楽しい事も、分かち合いたい。
だって、二人は夫婦だから。共に生きて来たはずだったから。
でも、それは叶わなかった。道を誤った。
運命の悪戯は、多くの者を翻弄した。
その代償は払わなくてはならない。
二度目の離別は、今度こそ永遠の別れとなる。
その時間は決して長くない。全てを分かち合う事は、許されなかった。
「イリシャ、泣かないでおくれ」
そっと彼女の涙を、ユリアンが拭う。彼本来のものとは違う、白く細い指。
だけどその所作は、まさしくユリアンのものと判る。姿形が変わっても、彼は彼のままだった。
「ごめんなさい、ユリアン」
拭われた涙の跡を撫でながら、イリシャは言葉を詰まらせる。
たくさん話したい事があったはずなのに。時間はもう残されていないのに。
いざその時を前にすると、何から話せばいいのかが判らない。
「イリシャ、私はじきに消えてしまう。だから、これだけは伝えさせてくれ」
「……うん」
はっきり「消える」と宣言され、息を呑むイリシャ。
ここから先。一言さえも、聞き逃してはならない。
愛する夫が自分の為に遺してくれる、最後の言葉を。
「君を愛している。例え『魂』が朽ちようとも、永遠に」
愛している。ただ、それだけで良かった。
「……わたしもよ。あなたに、逢えてよかった」
初めて逢ったあの時のように。二人の距離を、イリシャが詰めていく。
これまでの全てを噛みしめながら、優しく抱擁が交わされる。
「私もだ」
腕の力を強めたのは、ユリアンだった。
互いの距離が限りなくゼロへと近付く中で、彼は最後の我儘を耳元で囁く。
「君には、生きて欲しい。笑っていて欲しい。
私はずっと、ずっと。君を見守っているから」
「……ユリアン」
それは、彼が心の奥底で願っていたものでもあった。
イリシャが。愛する妻が悠久の刻を生きる中で、幸せを感じていて欲しかった。
自分が永遠を共にすれば、それは叶うだろうと思っていた。
けれど、今はもうその必要もない。
これから先。彼女はきっと、たくさんの祝福に触れていくだろう。
世界でただ独り。時間に取り残された訳ではない。
誰よりも多くの幸せに触れる機会が与えられている。そう、思えるようになった。
「ありがとう。あなたが見守ってくれるのなら、勇気が湧いてくるわ。
でもね。もしも、わたしもいつかは命を落とすかもしれない。
その時は、わたしの手を引いてくれる? あなたと一緒に居たいのは、わたしも同じだから」
抱擁を解き、ユリアンはイリシャの頬を両手で包み込む。
涙で赤くなった眼でさえも、美しいと思えた。
「ああ。でも、あまり早く来ないでくれよ。私はずっと、待っているから」
「ええ、わかったわ」
ユリアンの願いを、笑顔で頷くイリシャ。
それが二人の、最後の会話となった。
100年を超える長い年月の中。
ただ一人の女性を追い求めた男の『魂』は、天へと召されていく。
とても充実した、満足した笑みを浮かべながら。
……*
「……イリシャさん」
己の中からユリアンの存在が完全に消え去ったのを感じながら、フェリーは瞼を持ち上げる。
イリシャは目尻に浮かべた涙を拭いながら、柔らかな笑顔を浮かべた。
「フェリーちゃん、ありがとう。
ユリアンと、最期に話をさせてくれて」
「ううん。ちょっとしかお話させてあげられなくてゴメンね」
本当はもっと、心行くまで会話をさせてあげたかった。
きゅっと下唇を噛むフェリーの頭を、イリシャは優しく撫でる。
「そんなことないわ。むしろ、わたしの方こそごめんなさい」
「え?」
「カランコエのこと。シンのご家族のこと。シンとフェリーちゃんを苦しめたこと。
本当はユリアンに怒らないといけないこと、たくさんあったのに。
どうしても、できなかった。だめね、わたし」
イリシャは申し訳なさそうに、遠くを見つめる。
ユリアンの過ちを共に背負う。償うと心に決めていたというのに。
どうしても、残された時間で口にする事が出来なかった。
「ううん。あたしも、シンも。オコったりなんてしてないよ。
だから、イリシャさんもあんまり自分を責めないでね。
ユリアンさんを悲しませたりしちゃダメだよ」
強い罪悪感に苛まれようとも、その先には相手が居る。
相手の気持ちを正しく理解しなければ、その心が救われる事はない。
だから、フェリーはイリシャへと告げる。
贖罪の為に自分を責めるのではなく、これからの為に。
愛した男性を悲しませないように、生きて欲しい。
かつて自分を責め続けた経験があるからこそ、フェリーは誰よりも理解していた。
「……ええ。ありがとう」
フェリーの優しさを噛みしめながら、イリシャは小さく頷いた。
泣いている顔を見られないようにと俯いた先で、彼女は改めて確認をする。
不老不死ではない。傷の癒えない、少女の姿を。
「フェリーちゃん。ちょっとだけ、ごめんね」
「うん?」
徐に包帯と傷薬を取り出しては、手当を始めるイリシャ。
傷口に沁み込む痛みが、フェリーの顔を引き攣らせた。
「シンのところへ、行くんでしょう?
だったら、傷だらけだと心配しちゃうから。
ほら、シンったら過保護だし」
「むぅ。いっつも、シンはキズだらけなのに」
「本当にね」
イリシャの指摘は尤もだった。
仏頂面ながらも心配する素振りを見せる彼の姿が、ありありと目に浮かぶ。
腑に落ちないとフェリーが頬を膨らませている間に、イリシャは彼女の治療を終える。
「これでおしまい。……フェリーちゃん、シンのところへ行ってあげて。
今のフェリーちゃんを誰よりも見たいのは、シンだから」
シンはこれまで、ずっと彼女が救われる道を探してきた。
何度も彼女を傷付けるという矛盾した行動の中には、確かな情愛があった。
むしろ、それだけを糧に歩み続けて来た。
折れそうな心を、自らの想いだけで支えながら。
そして、彼の願いは遂に叶えられたのだ。
一刻も早く、彼の元へ向かって欲しい。向かうべきだと、イリシャは促す。
「……うん! 行ってくるね!」
背中を押され、フェリーは屈託のない笑顔を見せる。
金色の髪を靡かせながら遠のく彼女の姿を、イリシャは微笑みながら見送った。
……*
悪意が消し飛ばされた影響か。
純白の子供は、自らの力が抜けていくのを肌で感じる。
もう幾ばくもしないうちに、この身体は形を保てなくなるだろう。
人の手によって創られた『神』が、果たして存在を認められるのか。
その答えを知る者は、この場には居ない。
いくら自分の為に祈りを捧げてくれる者が居るとしても。
もしかすると、自分は二度と存在を保てないかもしれない。
そう考えた時、純白の子供の脳裏にシンの言葉が蘇る。
「あの……」
彼は自分に願いを抱く事を認めてくれた。
自分は応えた「皆を笑顔にしたい」と。
皆は無理かもしれない。けれど、せめて彼だけは笑顔にしたいと、小さな手を伸ばす。
シンもまた、儚く消えようとしている子供の指先に気が付いた。
現世に存在するべきではない『神』が、在るべき場所へ還ろうとしている。
彼の眼には、そう映った。
だから、シンは口にする。
純白の子供が抱いている不安とは正反対の、祝福の言葉を。
「お前は、これから『神』になるんだな」
「……!」
その言葉を告げられた時。純白の子供は、ハッと我に返った。
シンは、この青年は自分が『神』に成れると信じてくれている。
ただ一人。自分に純粋な祈りを捧げてくれた人を、裏切りたくはなかった。
救ってくれた事に感謝して、あまつさえ彼へ自分の願いを押し付けようとした自分を恥じた。
知っているではないか。見て来たではないか。
彼は、シン・キーランドは神の寵愛を欲するような人間ではないと。
ただの人間として生きると決めた、とても芯の強い人間だという事を。
優しくて、強い。そんな彼だからこそ、自分は彼に『救い』を求めた。
彼が皆を笑顔にしているから、自分もそうしたいと願った。
純白の子供はシンの笑顔を見た事はない。故に、笑顔にしたいと願った。
けれど、それは烏滸がましい考えだと改めた。
彼ならば、きっと自らの足で辿り着いた末に笑顔となるに違いない。
ならば、自分は他の皆を笑顔にしてみせよう。
彼の救った世界で、一人でも多くの者が幸せを噛みしめられるように。
「うん。なれるかどうかは、わからないけど」
「なれるさ」
自信なく呟くシンとは対照的に、シンは即答した。
「いつかお前がなりたいものになれるまで、俺は祈り続けるよ」
シンが祈り続けてくれる。背中を押してくれる。
それは純白の子供にとって何よりも嬉しく、勇気の貰える言葉だった。
「……うん、ありがとう。君に逢えて、本当によかった」
屈託のない笑顔を向けながらも、純白の子供はその姿が薄らいでいく。
時間が足りない。本当はもっと言葉を交わしたい。けれど、それはいくらなんでも欲が過ぎる。
「さようなら」
大丈夫。自分は知っている。優しさが齎す温もりを。
これから先、ずっとずっと。この温もりがあれば、自分は願える。見失わずに済む。
シンに見送られながら、純白の子供は現世から姿を消していく。
(あれは――)
意識が消える最中。純白の子供は、金髪の少女を視界に捉える。
息を切らせながら走るその姿は、とても生き生きしている。
やはり自分が出過ぎた真似をする必要はなかったのだと、口元を緩めた。
……*
「シン……!」
「フェリー」
肩で息をしながら、紅潮した顔を向けるフェリー。
ぱっちりとした碧い瞳が、シンの黒い眼と交差する。
「ユリアンは……。間に合ったのか?」
「うん」
本当は自分が先に喋りたかったが、思うように言葉が出て来ない。
シンの問いに答えながら、フェリーは呼吸を整えていく。
「ふたりとも、ちゃんとお話しできたよ。イリシャさんも、ユリアンさんも……。
たぶん、幸せだったと思う」
「そうか」
「それでね、シン」
シンの表情が和らいだのを見て、フェリーも釣られて口元を緩める。
だけど、それだけで終わりではない。
ゆっくりと、心を落ち着かせながら。彼女は、その言葉を口にした。
「あたしの身体も、戻ったの。これで、シンといっしょに年を重ねていけるの」
「そうか――」
前のめりになりながら、言葉を紡いでいくフェリー。
対照的にシンの反応はやや淡白。
――かと、思われた。
「――よかったな」
「……っ!」
だが、違った。彼女の瞳には、ずっとずっと欲していたものが映し出される。
もう自分に向けられはしないと、諦めた事もあった。
でも、間違いなくそれはここにある。
大好きな男性の、心からの笑顔が。
自然と大粒の涙が溢れ出る。
視界が滲もうが、フェリーは決して目を逸らさなかった。
「なんで、泣くんだよ」
「シンが笑ってくれたからだよ!」
突然の涙に驚いたシンが、困ったような反応を見せる。
フェリーに指摘されて、彼はもう一度軽く笑みを浮かべた。
「そっか。俺、そんなに笑ってなかったか」
「そうだよ! シンのあんぽんたん!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、フェリーはシンへと抱き着いた。
不意を突かれたシンは、二人でそのまま地面へと倒れ込む。
シンが身体を起こしても尚、フェリーは離れようとはしなかった。
「よかった。シン、よかった……!」
「良かったのは、フェリーの方だろ」
苦笑しながら、シンは彼女の後頭部をそっと撫でる。
激闘の末に痛んだ髪は、彼女本来の美しさとは程遠い。
だけど、彼女の時間は動いている。
漸く掴んだ幸せを噛みしめながら、シンは腕の力を強めていた。