50.妖精族のこれから
妖精族の里でイリシャの治療を受けていると、シンの頭上を影が覆った。
見上げると、そこには狐の獣人が居た。
「キーランド」
子供に懐かれたのか、何人かが彼女の尻尾をもふもふと触っている。
その笑顔が、彼女の丹念に手入れされた尻尾。その魅力を十分に語っている。
フェリーも思わず手が伸びそうなぐらい、滑らかで柔らかそうな黄金色の尻尾。
だが、子供の笑顔に反してルナールの顔は険しい。
まるでシンやストルのように眉根を寄せ、その顎は目いっぱいに歯を食いしばっているのが見て判る。
「……立て」
シンは判っている。彼女が何をしようとしているのか。
だから、言われるがままに立ち上がり彼女と向き合った。
次の瞬間、シンの顔に左右一発ずつ打たれる平手。
ひりひりとした痛みが、彼の頬に残った。
「ちょっ……。ええ?」
驚きのあまり、フェリーが声を上げた。
今度はシンが打たれる側? 一体何が? と周囲がどよめく。
理解しているのは、打った張本人と打たれた張本人だけだった。
「貴様ッ……。あんな物を扱わせて……!」
一発目は、屍人を操らせた事。
アルフヘイムの森で見つけた時から、ルナールはそれを不快な魔力と言っていた。
そんな物を扱うように申し立てて、彼女は渋々と受け入れた。
使った感触は、想像以上に気持ちの悪いものだった。
だからこそ、絶対にシンを殴ろうと心に決めていた。
「悪かった」
「それに、貴様のせいで危うくレイバーン様は……!」
二発目は、主であるレイバーンの事。
リタが彼に弓を引いていても、止めなかった事に対してだった。
「私は、貴様ならレイバーン様を救ってくれる。
そう信じたからこそ、お前の提案を受け入れたんだぞ!
それを貴様は……ッ!」
実際の所、屍人の件はおまけだった。
本当は頼まれた事を全て投げ捨ててでも、レイバーンの元へと飛び込んでいきたかった。
フェリーの代わりにルナールが討たれれば、恐らく彼女は絶命していただろう。
それは実質的にリタの精神を殺す事に繋がる。
加えて、彼女は妖精族の子供に化けていた。
そんな状態から現れようものなら、拉致の罪を魔族へ擦り付けられる可能性もあった。
ギリギリでルナールが踏みとどまったのは彼女の理性が、僅かに本能を上回ったからに過ぎない。
それも全ては、シンに期待していたからだった。
瞬く間に屍人を制圧し、妖精族の里すら救おうとした男。
その男の言葉を、信じていたからに過ぎない。
それが裏切られた。
誰が、何と言おうと許せない。どんな弁明も聞き入れたくない。
本当は、殴ったぐらいでは気が済まない。
この男は、結果的に自分の主を一度見棄てたのだ。
勿論、シンにも言い分はある。
既にリタが弓を引いており、到底それを止める事は叶わない。
それより、全員が狙われている大型弩砲の破壊に思考を切り替えていた。
全員を、護るために。
だが、フェリーが身を乗り出さなければ『全員』を護る事は出来なかった。
それを誰よりも理解しているからこそ、シンは彼女の行動を受け入れた。
「……すまない」
「貴様は! そんな言葉だけでっ!」
本当はルナールも判っている。
シンがどう動いても、恐らく間に合わなかった事であろうと。
それでも考えてしまうのだ。
屍人を無視していれば、間に合ったのではないかと。
妖精族の子供を見棄てれば、間に合ったのではないかと。
自分の優先順位に従えば、主が危険な目に合う事を避けられたのではないかと。
結果的に、妖精族や魔族側の被害は最も少ない形になっただろう。
だからこそ自分の怒りが矮小だと感じ、胸に刺さる痛みだけが残った。
シンの顔を見て、それが溢れてしまった。
「やめてください!」
三発目の平手を打とうとした所で、リタが割って入る。
彼女の眼には、涙が浮かんでいた。
「射ったのは私です。怒りは、私にぶつけてください!」
彼は自分の大切なものを、一緒に護ってくれた。
自分の代わりに、彼が責められる姿を見たくは無かった。
それに、妖精族が一歩を歩みだす為には彼女の怒りをきちんと自分が受け止めなくてはならないと思った。
ルナールがたじろぐ。
レイバーンの手前、自分の醜い感情を妖精族の女王へぶつける訳には行かない。
「リタさまー。けんかしてるの?」
尻尾の感触を楽しんでいた子供が、眉を下げる。
いつも自分達に優しい女王。いつも笑顔を絶やさない女王。
その彼女が、泣いている姿にどうすればいいのか判らずに戸惑っていた。
「えっと、違うの。ああ、なんて言えばいいのかな……」
「ルナール、もう良いであろう」
レイバーンが、彼女の振りあがった腕を止める。
「余が安易に命を差し出したのが原因だ。
シンもリタも、責めないでいてくれまいか。その怒りはお主たち臣下の気持ちを考えていない、余にぶつけてくれ」
「そ、そういう訳には……」
ルナールの目が泳ぐ。レイバーンは、そんな彼女を真っ直ぐに見ていた。
ふと、妖精族の子供がレイバーンの尻尾へ手を伸ばしていた。
「こっちもふかふか!」
「む、気になるのか?」
レイバーンは尻尾を巧みに操り、子供たちの頭を撫でる。
喜ぶ子供たちの姿を見て、いつの間にかルナールの毒気は抜かれていた。
「シンはさ、ちゃんと説明すればいいのに」
「ただの言い訳にしかならないだろう」
「そうじゃなくて……」
イリシャは呆れていた。
突然の平手打ちを受けたシンを見て、フェリーも動揺していたのだ。
「……シンのあんぽんたん」
何も知らされていなかった事に、フェリーは頬を膨らませている。
本当に不器用な男だと、イリシャは苦笑した。
……*
それから、数日が経過した。
レチェリと捕らえた魔術師の男は、魔力が分散する結界を張った牢の中に捕らえられている。
魔術師の男は、自身の名前をディダと名乗った以外は何も語ろうとはしない。
たまに軽口を叩いたと思えば、高圧的で挑発的なので会話が成立しない。
苛立ちながらもストルが「何か解ったら教える」と言ってくれたので、任せる事にした。
レチェリは憑き物が落ちたようだった。
元々、母の敵討ちという訳でもない。ただ、妖精族という種族を怨んでいるが故の行動。
それがリタとの対話を通して、彼女の中で何かが変わったようだった。
彼女が失った物は大きい。それを取り戻す事が困難な道を歩むという事は、彼女自身も理解をしている。
これから彼女が牢を出て、再び妖精族と手を取りあえるかは本人の努力次第だった。
「レチェリ。何だったら外に出てもいいんですよ。
勿論、監視はつくと思いますけど……。
まあ、ストルが上手くやってくれるでしょう」
「それ、ストルが聞いたら卒倒しますよ」
リタは、本気で他種族との親交を深めようと考えている。
その中核を担っているのが、ストル。
彼は戦後処理、内政、尋問とその能力をフル回転している。
更には、彼は妖精族至上主義だ。
今回の件で見る目が変わったとはいえ、今後は自身の意識をも変えていかないといけないストルに更なる仕事を与えようとしている。
妖精王の神弓で魔造巨兵を射った時といい、リタは案外容赦がないと感じた。
「ストルは仕事してないと死んじゃうタイプですから」
「本人は否定しそうですけどね」
まだ、少しぎこちない。
前のように会話をするのには、もう少し時間が必要だと思った。
でも、それでいい。もっと簡単に、妖精族が他種族を受け入れられるようになったなら。
その時はもう一度、彼女と笑って話し合おう。リタはその日まで、待つと決めた。
……*
更に数日後、アルフヘイムの森で宴会が行われた。
レイバーンの居城に繋がる荒野と接している位置で、互いの領土を半々にしてそれは開かれている。
妖精族が他種族との交流を始める第一歩。
その友好の証として妖精族と魔獣族が入り混じる居住特区。
リタとレイバーンはそれを造ると共同で声明を出した。
当然ながら、反対の声が上がった。主に妖精族からだ。
だが、彼らは人間や魔獣族に危機を救われた。
そして、子供たちが魔獣族に対して非常に懐いている。
極めつけは、ストルだった、排他的な妖精族の急先鋒である彼が、この件について前向きに捉えている。
族長でもある彼の言葉は、リタの背中を強く押した。
急に混ざり合えない事、互いを正しく理解する事はまだ難しい。その事実はきちんと理解をしている。
だからこその特区。まずは、共に暮らし互いをよく知る事から始めようという事だった。
いずれは、他の種族や人間も住んで欲しいと願っている。
その手始めとして、こうして食事を介した交流が開催されているのであった。
意外にも、感触は上々で多くの妖精族が魔獣族と交流を深めている。
なんだかんだ、みんな周りが気になっていたのだ。
「シン、見て! リタちゃんたちにもらったの!」
妖精族の衣装に身を包んだフェリーが、ひらひらと舞う。
レイバーンを庇った際に、妖精王の神弓に貫かれ服を台無しにしてしまった。
そのお詫びという形で妖精族の里から贈られた物だった。
「……そうか、よかったな」
彼女の長く美しい金髪は、妖精族の服と親和性が高いと思う。
だが、シンは目を逸らす。
リタが着ている時は気付かなかったが、この服には問題があった。
「だったら、なんで目を逸らすの?」
「うむ。それはだな、フェリーが着ると胸の辺りが――」
言い切る前に、レイバーンの鳩尾へ強烈な一撃が与えられた。
リタの拳が、そこにめり込んでいた。
レイバーンの言う通り、妖精族の服はどうやら胸の辺りが強調されてしまうらしい。
羽織っている半透明なストールも相まって、煽情的にも見えてしまうのだ。
「レイバーン! そういう事は言わなくていいの!」
「む、すまぬ……」
ギランドレとのひと悶着以降、リタとレイバーンは互いの長という立場から大忙しだ。
それでも、堂々と一緒に居られる時間が増えたので楽しそうではあった。
和やかな雰囲気で、宴会は過ぎていく。
フェリーもリタの一撃を受け止めるという無茶をした為か、妖精族によく話し掛けられている。
明るい性格が幸いして、既に多くの妖精族と打ち解けているようだ。
「あたしも、妖精族のみんなと話をしてくるね」
「ああ、分かった」
シンはフェリーを見送ると、大樹へ持たれるように腰を下ろした。
ずっと眉間に皺を寄せているせいか、フェリーと違って彼に話し掛ける者は少ない。
唯一、ストルだけは例外だった。
彼は気苦労が多いからか、シンと同じように眉間に皺を寄せている。
なんとなく、他種族で一番話を聞いてくれそうなのがシンだと思って話しかけてくる事があった。
そのストルは、リタの命により忙しそうに会場を駆けまわっている。
シンに話し掛ける人物は、本格的に居なくなっていた。
だが、ある意味では有難い。
考えなくてはならない事が山ほど残っている。
あれから数日。注意してフェリーを観察していたが、特に変わった様子はない。
撃ち込まれた石は、完全に消え去っているようで一先ずは安心をした。
だが、ディダが何も語らないせいで解らない事が多い。
邪神も、石の事も、そしてギランドレとウェルカ領は同一の者によるものなのか。
ただ、もう無関係ではいられない気がした。
奴らは、フェリーを手に掛けた。絶対に許せない。
「まーた難しい顔して。みんな怖がっちゃうよ」
樹の陰から、イリシャがひょっこりと現れる。
その手には、果実酒の入ったコップが握られていた。
「元々、こんな顔だ」
「はいはい、そうだよね」
イリシャはゆっくりと、シンの横に腰掛ける。
「イリシャ、訊きたい事がある」
「なぁに?」
「今回の事、イリシャは全部解っていたのか?」
イリシャは口に含んだ果実酒を吹き出しそうになる。
あまりに突拍子もない質問だった。
「どうしてそう思うの?」
「俺達が戻った時、安心した様子も見当たらなかった。
俺の事を知っているように、今回の事も知っているかと思っただけだ」
「うーん。ちゃんと答えるけど、信じてくれるの?」
イリシャは顎に手を当てながら、尋ねた。
その仕草が何だか色っぽいと感じたのは、彼女が酒を飲んでいるからだろうか。
「信じるよ」
色々分からない事も多いが、彼女は自分達に誠実に向き合ってくれている。
今更何を言っても、信じようと心に決めた。
「じゃあ、答えるね。今回の件は、知らなかったわ。
でもね、少なくともシンとフェリーちゃんは無事だって事は知っていたわ。
きっと、リタとレイバーンも無事だとは思っていたけれど」
「……やっぱり、何を言っているのかよく分からないな」
「ふふ、そのうち分かるわよ」
手に持ったコップをグイっと飲み干すと、イリシャの顔がまた少し赤くなった。
「あ~っ! シンがいちゃいちゃしれるぅ!
イリシャさんばっかりずーいの!」
フェリーが顔を赤らめながら、シンの隣に座る。
呂律が回っておらず、手にはたっぷりと注がれた果実酒とその瓶が握られていた。
「……お前も酔ってるのか」
「よってらいもん!」
フェリーは酒を飲んだ事がない。
シンが飲まないからという事もあるが、彼女にも一人で飲む理由が無かったからだ。
今回は余程気分が良かったのか、はたまた果実酒をジュースと勘違いして飲んだのか。
完全に出来上がっていた。
毒すらもすぐに中和してしまう彼女が酒に酔うというのは、少し意外な気もした。
もしかすると、それすらもすぐに醒めるのかもしれないが。
「シンは飲まないの?」
イリシャの問いに、シンは首を横に振った。
「……飲んだ事がない」
正確に言うと、シンは怖くて酒が飲めない。
もし自分が酔っている間に何かが起きたらと思うと、とても飲む気にはなれない。
今日のような祝い事でも、それは変わらない。
一度味を覚えると、歯止めが利かなくなってかもしれないから。
「おいひーよ?」
「俺はいい」
「ちぇー……」
フェリーはつまらなさそうに、一人でちびちびと果実酒を口にしている。
一緒に飲めると思ったので、心なしか残念そうだった。
やがてそれも飽きると、フェリーはシンの肩に頭を乗せた。
そのまま、静かに寝息を立て始める。
「あらあら、微笑ましいわね」
「……俺はどうすればいいんだ?」
イリシャはくすくすと笑うが、シンは困っている。
このままでは身動きが取れない。
かと言って、このまま起こすのも忍びない。
「フェリーちゃん、頑張ったんだから甘えさせてあげれば?」
そう言われると、何も出来ない。フェリーには大分、無茶をさせてしまった。
シンはため息を吐きながらも、彼女の寝息に耳を傾けていた。
規則正しい、気持ちよさそうな寝息だった。
その間イリシャが話し相手になってくれたのが、せめてもの救いだった。