524.消えゆく灯
大地へと触れる直前。シンに課せられていた重力が一瞬だけ反転する。
オルテールの操る宝岩王の神槍によって、シンと純白の子供が浮かび上がる。
勢いこそ殺しきれなかったものの、お陰で地面への激突を避けられた。
「全く。相も変わらず、無茶苦茶をする男だな。
若に悪影響を与えるでないぞ」
呆れながらも、狙いが上手く行った事に安堵の息を漏らすオルテール。
この無謀な行いにオルガルが憧れたりしないだろうかと、愚痴を溢している。
「助かった、じいさん」
しかし、彼の小言に付き合っている余裕はない。
シンは短く礼を済ませると、脇目もふらずに空を見上げる。
上空ではフェリーが漆黒の幕に覆われ、自由となったファニルが彼女を素通りしようとしていた。
狙いが自分の抱きかかえている子供だという事は明白だった。
「これ以上、お前の好きにはさせない」
シンは己の左肩へ、魔導砲の弾倉を当てる。
大気中に漂う魔力を吸着した魔導砲は、一発分の魔力を充填し終えた。
悪意を身に纏い、人為らざる者へと変貌しつつあるファニル。
もう誰も、傷付けさせはしない。純白の子供を、悪意に染めさせたりはしない。
彼女を討つべく、シンは引鉄を絞る。
まるで時間に逆行しているかと錯覚するかの如く。
金色の稲妻による稲光が、天へと昇っていく。
ファニルの左腕を貫いたのは、その直後の事だった。
……*
眼前に広がる闇が、フェリーの眼前を埋め尽くしていく。
炎の翼が、悪意による蝕みから自分を護ろうとしてくれている。その煌めきさえも、闇は呑み込んでいく。
視界は黒一色。鼓膜は何も拾わない。喉は熱気により咽る。肺も、灼けるようだった。
それでもフェリーは、足掻く事を止めなかった。
(ファニルさんを、止めなきゃ)
灼神を握る力が強くなるのは、じわりと浸る恐怖への抵抗でもあった。
何もわからないこの状況が、恐ろしくももどかしい。
ファニルの位置さえ判れば、今すぐにでも刃を突き立てるというのに。
尤も、彼女は自分の想いに応えてくれる人物を知っている。
(シン……)
胸の内で、シンの名をぽつりと呟く。
彼を想うと少しだけ恐怖が和らいだが、それだけではない。
きっとシンなら、この状況を打破してくれるに違いない。
自分を導いてくれると、信じていたからだ。
ある種の賭けだが、決して分は悪くない。
フェリー・ハートニアは知っている。
シン・キーランドは誰よりも、心優しい人間だと言う事を。
(今、少しだけ光った……?)
次の瞬間。祈りにも似た願いは彼女へと齎される。
背後。いや、地面から伸びるは金色の稲妻による一筋の光。
蝕む闇を振り払うかの如く、稲光はフェリーを照らしていく。
自分を覆っている漆黒の幕にとって、地面は唯一の死角。
不完全だが照らされた世界の中で、フェリーは周囲の情報を吸収していく。
光は自分の右へと消えていった。つまりそこに、目標がいる。
「……ありがと、シン」
こんな言葉では足りないと思いつつも、フェリーは呟かずには居られなかった。
信じていた。シンならきっと、そうしてくれると。そして、彼は応えてくれた。
なら、自分もやらない訳にはいかない。
胸が熱くなるのを感じながら、フェリーは灼神を突き立てる。
ありったけの魔力が込められた真紅の刃は漆黒の幕を貫き、ファニルへと届いた。
……*
ファニルの胴を貫いた灼神は、彼女に痛みを感じる暇すら与えない。
瞬く間に肉を灼き、傷口から燃えた身体は灰塵へと帰していく。
「ぐ、う……。そ、ん……な……」
恨めしそうな表情を浮かべながら、ファニルは首を傾ける。
刃の持ち主である、フェリー・ハートニアの姿は依然として見えない。漆黒の幕が、互いの姿を遮ったままだった。
「ファニルさん……」
感触からファニルを捉えたと確信したフェリーが、苦々しく彼女の名を呟く。
少しだけ躊躇が混じったような口ぶり。言葉の裏に様々な感情が含まれているのは、想像に難くない。
自分の行いに対して、許せない。止めないといけないというフェリーなりの正義感はあるだろう。
一方で、母親として息子に愛情を注ぎたかったという面に同情をしている節も見受けられる。
複雑な感情を混ざり合わせながらも、フェリーはその刃を振り抜いた。
真紅の刃が、ファニルの刃を両断する。
(そ、んな……。私、終わるの? ここで?
あの子に何も、してあげられないままで……?)
上半身と下半身が離れていく最中で、ファニルはこれまでの道程を振り返る。
失い、奪われ続けるだけの人生だった。
最愛の息子も、彼と共に造り上げた邪神も。泡のように自分の手から消えてしまう。
そして、灼神によって断たれた自分の肉体さえも。
「いいえ、駄目よ。認められない。そんなこと、許されるものですか……!」
こんな惨めな一生を終えるだなんて、受け入れられない。
下半身が灰となって消え去るのを見送りながら、ファニルは自分へ訪れるはずの運命を拒絶する。
「ぼうやがいれば。邪神と一体化さえすれば。私はまだ、戦える。
あの子のために、あの子が生きた証を刻み込めるのよォォォォォォ!!」
沸き立つ執念が、上半身だけとなった彼女を突き動かした。
身に纏った悪意が再構築されていく。今ならこの熱さえも、自分の力に換えられるのではないかとさえ感じた。
灼かれた傷を漆黒の衣が塞ぎ、上半身のみとなった肉体は大地へと引き寄せられていく。
その先にある物は、悪意の器。本来、漆黒の泥が向かう先である純白の子供。
「ファニルさん!?」
己を覆っていた漆黒の幕を断ち斬ったフェリーは、異質な気配を目で追う。
振り返った先で、高速で地上へと向かうファニルの姿が眼に捉えられた。
「ぼうやが、ぼうやがいれば! 邪魔なもの全部壊してあげられるのよ!
フフ、見てなさい。ぜんぶ、ぜーんぶ! 私は壊すの!
そのために、ぼうやを返しなさい!」
死に際であるからか。それとも、身体が熱を帯びているのか。
頭の中がハイになったファニルは延々と、高笑いをしている。
執念に突き動かされる彼女を目の当たりにしたフェリーは、彼女の熱意とは裏腹に背筋が凍るのを感じた。
「……っ! 行かせない! ユリアンさん、お願い!」
仕留めきれなかった自分のミスだ。シンが、純白の子供が危ない。
焦燥感を胸に、フェリーがユリアンを通して炎を翼を羽搏かせようとした時だった。
「えっ……?」
自分を支えている翼が、急激に縮小していく。
速度を上げるどころか飛ぶ事すらもままならない状態に、フェリーは思わず声を漏らした。
(すまない、フェリー。もう、ここまでのようだ……)
「ユリアンさん……!」
心の内で、弱々しく声を漏らすユリアン。考えてみれば、当然の事だった。
不老不死の秘術を解いて以降、彼はずっと炎の翼でフェリーの身を護り続けてくれていた。
空を飛ぶ事も合わせて、蓄えて来た魔力を消耗し続けていたのだ。
フェリーはフェリーで、灼神と霰神へ魔力を注ぎ続けた。まるで限界を知らないかの如く。
秘術を解いた以上、彼女はもう不老不死ではない。肉体の時は戻らない。失ったものは戻らない。
魔力の枯渇は、ユリアンの『魂』が終焉を迎える事を意味していた。
「ユリアンさん、待って!」
後悔と願いを込めて。訴えるように、自らの胸を握り締めるフェリー。
少しでも魔力の消耗を抑える為に、灼神と霰神から刃を消していく。
それでも、炎の翼の縮小は止まらない。今では飛ぶことはおろか、ゆっくりと降りるのが精一杯となる。
(大丈夫だ、フェリー。何とか、君を無事に地上へ送り届けるぐらいはしてみせる)
「違うよ、そうじゃなくって!」
自分の身を案じるユリアンへ、フェリーは首を左右に振る。
このまま彼が消えてしまえば、もう二度とイリシャへ逢わせてあげられない。
ユリアンは覚悟の上だと言っていたが、それでいいはずがない。フェリーは納得のいく別れを送らせてあげたかった。
(イリシャのことなら、大丈夫だ。彼女には、君たちがいてくれる。
本当にすまなかったと、君から伝えてくれればいい)
「……っ。そういうのは、ちゃんと自分で言って!
あたしだって、他の誰かからじゃなくてシンに言って欲しい。あたしだって、シンに言いたい!」
(そうか。そう、だな……。君の言う通りかもしれないな……。ありがとう、フェリー……)
最期を受け入れようとするユリアンを、フェリーは一喝する。
心の奥で、ユリアンが苦笑いを浮かべたような気がした。
「だから、まだ消えないでよ。ユリアンさん!」
少しずつ彼の灯が弱まっていく様を感じつつも、フェリーは願った。
どうか、イリシャとユリアンが納得する最期を迎えられるように。
シンの力になれないもどかしさを、抱えながら。
一方でユリアンもまた、とうに覚悟は決めていた。
イリシャとの対面が叶うのであれば、胸を張って行いたい。
その為に自分がしなくてはならない事を、彼は理解している。
結果、彼女との再会が叶わなくなるとしても。