523.道標
地面へ吸い込まれるように、落下する速度が上がる。
それが重力弾の影響だと即座に認識をしたのは、シン自身も愛用していたからだろう。
(わざわざ重力弾を使ったということは――)
迫る大地へ視線を送ると、宝岩王の神槍を杖替わりに立ち上がる老人の姿が視界へ入り込む。
間違いない。オルテールは、直前で重力を反転させて勢いを相殺するつもりでいる。
立ち位置は皆から遠く離れた場所で陣取っている。恐らくはマレットの指示だろう。
ありがたかった。衝撃は勿論、純白の子供を追い求めるファニルの事もある。
余波で傷付く可能性は、極めて低い。
「あ、の……」
シンに身を預け切っている純白の子供が、顔を覗き込む。
瞳に映し出される不安を取り除くかの如く、シンは告げた。
「大丈夫だ、俺たちを信じろ」
「う、うん」
正確に言えば、純白の子供はシンの身を案じようとしていた。
だけど、シンの圧がそれを許さない。子供の身体を固定するべく、強く抱きしめる。
多少息苦しさも感じたが、心地よい。純白の子供は、素直にそう感じた。
同時に、彼の返答に頷く以外の選択肢が無くなってしまったのだが。
悪意から脱出をするまでに、シンがどれだけの生傷を負ったかを知っている。
本当はもう傷付いて欲しくはないと思いつつも、やはり彼に甘えてしまっていた。
(フェリーは……)
オルテールが構えてくれているとはいえ、シンも落下に備えなくてはならない。
その前に一度、シンは空を見上げる。既に陽は沈もうとしていた。
夕日と交わるフェリーの姿が、とても美しいと思った。
一方で、夕陽もフェリーもまとめて呑み込もうとしている者が居る。
悪意の衣がボロボロと剥がれながらも尚、ファニルの眼光は決して衰えない。
「……!」
天と地。遠く離れつつある中で、その眼光がシンへと向けられる。
憤怒と憎悪の入り混じった、とても邪悪な感情。
無意識のうちに魔導砲を強く握りしめ、シンは来るべき戦いに備えようとしていた。
……*
シンや純白の子供からも少し離れた位置。フェリーとファニルの戦いにも、もう参戦は出来ない。
『羽』の上に乗っているだとなったアメリアは、降下する中である決意を固める。
(この『羽』を、なんとしても……)
言葉こそ交わしていないが、アメリアは気付いていた。
つぎはぎだらけの『羽』は、決して自分の足場とする為に用意された訳ではないと。
その重大な役割を果たす為に、自分は邪魔でしかない。取れる手段は、ひとつしかなかった。
「――イルくん、トリスさん。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
邪神による被害から仲間を護っていたイルシオンとトリスを一瞥する。
きょとんと目を丸くしていたが、気付いてくれたのなら問題ない。
だって、彼らは心優しいから。怖いはずがない。
『羽』から身を投げるアメリアの口元は、うっすらと笑みが零れていた。
「イルシオン!」
「アメリア姉、何を!?」
突拍子もない行動を前にして、イルシオンとトリスが息を呑む。
一見、身投げにも見える無謀な行為。アメリアでなければ、気が触れたのではないかとさえ思ってしまう。
そうでないと確信を持っているのは、イルシオンもトリスもアメリア・フォスターという人間を理解しているから。
そして、彼女から急速に離れていく『羽』の存在があったからだ。
今この瞬間も、アメリアは身を呈して戦っている。
希望を、願いを現実のものとする為に。
大切な命を、自分達へ預ける事によって。
「トリス姉、アメリア姉を何としても護るぞ!」
「ああ、解っている!」
ならば応えない訳にはいかない。
イルシオンとトリスは、互いの神器に残る力の全てを込めた。
紅龍王の神剣によって生み出された炎を、賢人王の神杖が拡張する。
破壊する為の炎ではなく、護る為の炎。
幾重にも重ねられた炎の層は、生み出された上昇気流と共にアメリアを優しく包み込む。
「……温かい」
炎の中へ飛び込むというのに、アメリアに恐怖は無かった。
温かな炎と、柔らかい空気が衝撃を吸収していく。
やがて最後の層を貫き、大地をしっかりと踏みしめながら、アメリアははにかんだ。
「ありがとうございます。イルくん、トリスさん」
「全く。無茶をする……」
「無事でよかったけど、焦ったぞ」
「すみません。お二人なら、なんとかしてくださると思ったので」
いつもと変わらない柔らかな笑みを前に、二人は大きなため息を吐いた。
アメリアに頼られて嫌な気はしないが、やはり心臓に悪い。
「……きっと、『羽』が必要になりますから」
笑みを溢すのも束の間。アメリアはいつもの騎士の顔で、そう呟いた。
彼女の元を離れた『羽』が高速で向かう場所は、シン・キーランドの元。
きっとこれが、勝利への最後の一片だとアメリアは信じていた。
……*
ぶつかる魔力と悪意。それは意地と意地のぶつかり合いでもあった。
一歩でも退いたら、世界が危ない。シンが危ない。そう理解しているからこそ、フェリーは眼前の敵に集中をする。
対するファニルは、その先を見据えているのに前へ進めない。
立ち塞がるフェリー・ハートニアが邪魔で仕方なかった。
奥に居るシンが憎くて堪らないのに、その手が届かない。
「どきなさいっ!」
「どかないよ!」
炎と氷が、闇に触れる度。大気が爆ぜる。
気の抜けない戦いを前にして、自然と口数が少なくなっていく。
二人の力は現段階では拮抗している。
しかし、その力は永遠のものではない。均衡は徐々に崩れつつあった。
(力が、抜ける……。いいえ、ぼうやの元へ向かおうとしている……!)
この脱力感は錯覚ではない。
自分の身から剥がれていく悪意に、ファニルを焦燥感を抱く。
ファニルが得ている力は元々、悪意の器である邪神が身に纏うべきもの。
一体化を試みて、より強い悪意と憎悪を滲ませようとも。
本来あるべき姿へ還ろうとするのは必然だった。
このままではフェリーに押し負けてしまう。
何か手はないか。苦虫を噛み潰したような顔で彼女を見渡した時。
ファニルは漸く、フェリーの身体の変化に気が付いた。
(なによ、どうしてなのよ。ボロボロじゃない)
作られた生傷が、自らの発する熱により乾燥している。
今までのフェリーからは考えられない、傷だらけの姿。
同時に、必死に彼女を護ろうとする炎の翼。
「は、はは。はははははははははは!
そう、そうなのね! ふふ、最高。最高よ!」
笑わずには居られなかった。
フェリーはとうに、不老不死でなくなっていたのだから。
皮膚が裂ければ傷は残るし、心臓を貫かれてしまえば死んでしまうだろう。
「な、なにが!」
突然の高笑いにたじろぐフェリーだったが、ファニルの活き活きとする様が薄気味悪かった。
フェリーだけでなく、彼女を護ろうとするユリアンも自然と警戒心が強まっていく。
「とぼけなくてもいいのよ? あなた、もう不老不死じゃないんでしょ? 死んじゃうんでしょ?」
「っ……」
一瞬だが、フェリーの動きが止まる。図星だったと暗に語ってくれるのだから、判り易くて助かる。
希望が見えた。ジリ貧だったはずの戦いに、勝機が見えた。
有限なのは自分の力だけではない。彼女の命も有限となったのなら、いくらでもやりようがある。
憎悪に塗れた女は、自らの命を担保に最後の賭けへと出る事を決めた。
「だったら、こういうのは――困るんじゃないかしら!?」
ファニルは左腕を高々と掲げる。次の瞬間、フェリーの視界が暗闇に覆われる。
左腕に宿った悪意の衣が幕のように広げられたのだとフェリーが気付いたのは、直後の事だった。
悪意の塊が自分から離れようとするのなら、利用してやればいい。
ファニルは敢えて、自分と邪神の間へフェリーを割り込ませる。
還るべき場所を求め、漆黒の幕はフェリーへ絡みつこうとしていた。
(フェリー!)
これは目眩ましであり、攻撃だ。
ファニルにとってはドレスの一部でも、フェリーにとっては触れてしまえば皮膚が爛れてしまう。
灼神で燃やすのも、霰神で凍らせるのも間に合わない。
少しでも彼女の傷を減らすべく、ユリアンは炎の翼でフェリーを包み込む。
彼の選択は何も間違ってはいない。彼女を護る為には、そうせざるを得なかったのだ。
「ふ、ふふ。そうよね、そうよね! 身を護っちゃうわよね!
誰だって、死ぬのは怖いものね!」
今までならば、相打ちでも何ら問題は無かっただろう。
故にファニルも、自ら力を手放すような真似は出来なかった。
だが、今は違う。フェリーも自らの『命』を大切にしなくてはならないのなら。
身を護るという行動は何らおかしくない。
たとえそれが一時的なもので、己の視界全てを隠すような愚行だったとしても。
悪意の幕からその身全てを護るには、そうするしかなかったのだから。
「さよなら、フェリー・ハートニア。本当はトドメを刺したかったけど、それはまた後でね」
彼女の存在は厄介だが、まずは力を取り戻す必要がある。
邪神と。悪意の器と一体化さえしてしまえば、フェリーを殺す方法はいくらでもある。
優先するべきは悪意の器。純白の子供を抱える、シン・キーランド。
ファニルは視界の塞がったフェリーを素通りし、シンの元へと向かおうとする。
暗闇の中で自分を責めようとするユリアン。そんな彼とは裏腹に、フェリーは賭けた。
一筋の光が、自分を導いてくれる可能性に。
刹那。稲光が天へと昇る。
それは悪意の衣が剥がれたファニルの左腕を、瞬く間に消し炭へと変えた。
「ぐうっ!? ――なんなの!?」
苦痛で顔を歪めながら、ファニルは光の放たれた方角。大地を見下ろす。
そこでは虫けらのようなちっぽけな存在が、銃口を向けていた。
(シン・キーランド……!)
ファニルは自分から全てを奪う。忌々しい男に、より深い憎悪を抱く。
予定外の負傷だが、左腕が吹き飛ばされた程度だ。悪意の器と一体化してしまえば、元通りとなる。
その後はシンに地獄を見せてやればいい。フェリーの眼の前で臓物を撒き散らしてもいい。
奪われてばかりだったのだから、その程度のささやかな復讐をしても許される。
失われた左腕への未練よりも、シンへの憎しみが大きくなっていく。
一刻も早く悪意の器へ辿り着くべく地上への降下を試みようとした瞬間。
「――なん、ですって」
ファニルは真紅の刃が、自らの脇腹へ深く突き立てられている事に気が付いた。
痛みは感じない。肉を焦がす臭いから、灼き斬られているのだと察した。
間違いなく、フェリーの持つ炎の剣だった。
「いかせ……ないっ!」
暗闇の幕に覆われながら、灼神を突き立てるフェリー。
見えていないにも関わらず、掌へと伝わる感触でファニルを捕えたのだと確信をした。
「どうして、なの……?」
ファニルには理解できない。何故、刃が届いたのか。どうして、自分の居場所を捉えられたのか。
ただ事実として、彼女の胴は断たれようとしている。全てを灼き尽くす刃によって。