521.求める者と護る者
温かい腕に包まれながら、純白の子供は息を呑んでいた。
自分との一体化を目論むファニルの影響が強くなったのか、悪意の鎖が次々と生成されていく。
異物であるシン・キーランドを排除しようと目論んでいたが、彼は全く意に介さない。
「邪魔だッ」
右手に握られた銃を鎖に押し当て、疑似魔術を放つ。
時には刃を形成し、迫る鎖を断ち切っていく。
戦いが激しくなるにつれ、腕に込められた力が僅かに強くなる。
より密着した中で、彼はどんな表情を浮かべているのだろうか。
ふと抱いた疑問の答えを求めて、純白の子供は顔を上げた。
「……!」
子供の眼には、ただ前だけを見据える青年の姿が映し出される。
鞭のように振るわれる鎖が痣を作ろうとも。勢いのあまり、肉と抉ろうとも。
シンは決して弱音を吐かない。自分が決めた事を、成し遂げようとしている。
今まで悪意の器として、多くの感情を受け取ってきた。
妬み、憎しみ、傷付ける事を厭わない。とても醜い感情。
こうした感情を押し付けらえていたからこそ、子供は他者の気持ちに敏感であると思っていた。
だが、違う。こんなに密着しているのに。心臓の音すら、聴こえるというのに。
シンが剥き出しにする感情は、今までの自分では経験した事のない物だった。
「大丈夫か?」
言葉の意味を理解するのに、数舜の時を要した。
傷だらけになりながらも、彼は自分を慮っている。
本当は自分が訊かなくてはならないぐらいだというのに。
本当に、彼の優しさが心地よい。
それが彼に更なる苦難を強いると理解していながらも、純白の子供は頷いた。
願いを叶えてくれる。祈りを捧げてくれると言った彼に、甘えたかった。
……*
渦巻く熱気が、傷口を乾燥させる。
痛みを覚えながらも、久しぶりに浴びた外の空気が心地よいと感じた。
「シンさん、よかった……」
「アメリアも、助かった。ありがとう」
アメリアは『羽』の上で、胸を撫でおろす。
少しだけ不安はあった。あの悪意による泥の中で、正気は保っていられるのだろうかという。
だが、彼女の懸念は杞憂に終わる。
いくら悪意に充てられても、彼は彼のままだった。その事実が、堪らなく嬉しい。
「シン、その子……」
「ああ。コイツが邪神の本体だった」
シンは敢えて、過去形である事を強調する。
もうその役目は与えない。純白の子供を救うという強い決意の表れでもある。
「それより、フェリー」
「うん?」
一方でシンもアメリア同様に、フェリーの変化に気が付いた。
明らかに治るであろう傷が残っている。
彼女はもう、不老不死の呪い。ユリアンの秘術から、解放されたのだと悟る。
フェリーも今、命懸けの戦いを行っている。
正直に言うと、シンは戦って欲しくなかった。傷付かないで欲しかった。
けれど、それが彼女の意思を尊重していないというのは理解できる。
覚悟の上で、フェリーは戦場に立っているのだ。
思うところは他にもある。心なしか、悪意の泥に呑み込まれる前よりも炎の翼が煌めている。
ユリアンが蓄えていた魔力だと想像するのは難くないが、違和感もあった。
例えるならば、蝋燭の炎が消える寸前のような――。
「……いや、なんでもない」
頭の中に浮かび上がった可能性を口にするのを、シンは躊躇いながらも止めた。
恐らくはユリアンも、納得と覚悟の上でその選択をしたのだ。
ここで士気を下げる様な発言をすれば、二人の気持ちを踏みにじってしまう。
戦いが終わるのを待つイリシャを、悲しませてしまう。
自分と同じだ。皆が皆、己の願いを叶えようとしている。
ただそれだけなんだと、自分へ言い聞かせた。
……*
「シン・キーランド……!」
内側から砕けた悪意の塊。
中から現れた男の名を、ファニルは苦々しい顔で口にする。
対するシンは、純白の子供を抱えながら魔導砲の銃口を向ける。
「コイツに、もう邪神としての役割を与えたりはさせない」
「なにを勝手なことを! その子は私のものよ、返しなさい!」
怒りを露わにしながら、ファニルは悪意に更なる力を求める。
さながら漆黒のドレスを纏った彼女は、まだ悪意の器の恩恵が自分に齎されている事を感じていた。
しかしそれが一時的なものだと理解させられるまでに、時間は要さなかった。
「断る」
魔導砲の引鉄を絞る。光と共に、金色の稲妻が放たれた。
一瞬の目眩まし。その時間を活かすべく、シンは悪意の塊から飛び降りた。
「ちょっと、シン!」
「シンさん!? なにを!?」
空中に身を投げ出すという愚かな行動。
余りにも突飛な行動に、味方であるはずのフェリーとアメリアにも動揺が走る。
もしや純白の子供の力を借りるのかとも思ったが、その気配は全くない。
シンはただただ、子供を抱きかかえたまま落下しているのだ。
「ふざけないで! 馬鹿な真似をしないでちょうだい!」
金色の稲妻を弾きながら、ファニルは怒りを露わにする。
このまま邪神の本体と共に無理心中をするというのなら、許せない。
奪還するべくシンを追おうとしたファニルに、二発の金色の稲妻が放たれた。
「この程度の雷で!」
三発に分散された金色の稲妻は、魔力の充填が足りていない。
ラヴィーヌの魔術に比べれば、大した威力ではない。
ましてや、悪意に身を包んだ自分ならばそのまま突き抜ける事だって可能なはず。そう考えていた。
「――っ! どうして!?」
しかし、ファニルの認識とは裏腹に金色の稲妻は彼女から悪意の衣を剥ぎ取っていく。
煤のようにボロボロと剥がれた悪意が空へ舞う中。彼女は信じられない光景を目の当たりにした。
「力が、悪意が弱まっている……。いえ、奪われている!」
それは悪意の衣に限った話ではない。漆黒の泥も先刻同様に雫となり、シンへと引き寄せられていく。
正確に言えば、彼が抱えている純白の子供へと。
「そんな、そんな……!」
考えてみれば、何ら不思議ではない。
ファニルは邪神と一体化を試みた。後一歩の所で阻止されたという事は、彼女はまだ邪神へと成り得ていない。
本来の主である純白の子供へ引き寄せられるのは、当然の帰結だった。
「待ちなさい! 私のものになりなさい!」
漆黒のドレスから悪意の鎖を絡め、自分の身に邪神の力を取り込む。
だが、全てが掬いきれるはずもない。確実にファニルの力は削がれていた。
彼女の両手では抱えきれない悪意が、零れ落ちていく。
「……また、奪われるの?」
絶望に染まった顔で、ファニルがぽつりと漏らす。
愛する息子が奪われ、それでも彼女は歩み続けた。
この狂った世界を破壊するべく創り出した邪神も、息子の為に生み出した。
ファニルにとって、ある意味では大切な存在。
「私から奪って、奪って、奪って! どれだけ奪えば、気が済むの!?
あり得ない、許さない。返して! ぼうやを返して!
それは、あの子のために私が創ったのよ! あなたなんかが、手にしていい存在じゃないわ!」
自分の大切なものが立て続けに奪われていく中で、ファニルは今までとは比較にならない程の激しい憎悪を抱く。
怒りの矛先は世界ではなく、もっと小さな存在。シン・キーランドへと向けられた。




