520.孵化
悪意の器。漆黒の泥を身に纏い、フェリーと相対する中。
ファニルは自らの身に起きた変化を感じ取っていた。
(なに? 一体、何があったの?)
小さな違和感。しかし、大きな不安を覚える。
その原因は相対する少女から発せられるものではなかったから。
錆びついたように身体が軋む。
原因は外側ではなく、内側から。その事実に気付いた瞬間、ファニルの脳裏にある男の存在が過る。
(シン・キーランド……!)
いつも。どこまでも。あの男は、邪魔をする。
ファニルは歯が砕けそうな程の力を込めながら、ギリギリと鳴らした。
一層強い憎悪が、不安定ながら自らに力を与えてくれる。
まだ終わりではない。悪意の塊から不安材料を取り除かなくてはならない。
鈍い光を放つ悪意の爪を、ファニルは漆黒の球体へと突き立てた。
「なっ、なに!?」
一連の動きを間近で見ていたフェリーは、ファニルの突拍子もない行動に目を丸くする。
しかし、すぐに答えに辿り着いた。自分が一番、されて嫌な事だったから。
「まさか――」
(っ! そうか!)
ワンテンポ遅れて、ユリアンもその意図を察する。
自傷にも見える愚かな行動は、フェリーの精神を深く傷つけるもの。
漆黒の泥へと呑み込まれたシンを狙ってのものに違いない。
「やめ……てっ!」
漆黒の泥を破壊しようとした時とは裏腹に、ファニルと引き剥がそうとするフェリー。
炎の翼によって生み出された推進力で距離を詰めようと試みる。
「いいえ、やめないわ。あなたにも味わわせてあげる。一番大切な存在を、失う苦しみを」
効果の程を実感したファニルが、口角を釣り上げる。
無数に弾けた漆黒の雫が、フェリーの視界を覆い尽くした。
「どいて!」
全力で振り切られた灼神が、悪意の粒を瞬く間に蒸発させる。
だが、それは第一陣。それ以上の雫が続けざまに、フェリーへと放たれた。
刃を振り切ったフェリーは、身体の自由が利かない。
(これは私が!)
ならば自分が彼女を護らなければならないと、ユリアンが炎の羽根を射出する。
ぶつかり合う闇と炎の発する黒煙が、互いの視界を覆い隠していく。
「急がないと、シンが!」
(落ち着くんだ、フェリー。無闇に突撃するのは危険だ!)
「でも!」
気持ちの逸るフェリーを、ユリアンが必死に抑える。
彼女は既に不老不死ではない。現に、漆黒の雫が弾けた際に負傷しているのだ。
その事に気付いていない今、この弾幕の中へ飛び込ませる訳にはいかなかった。
とはいえ、ユリアンもこのままではいいとは思っていない。
自分の魔力も、無限ではなくなった。どこかで突破口を見つけなくてはならない。
後一手。何かがあれば。
手の届かない歯痒さに悶える中。ひとつの人影が、弾幕の中へと飛び込んでいく。
とても大きな。つぎはぎだらけの板に乗った、女の姿だった。
……*
ピースの操作により空中を駆ける『羽』。
その上でアメリアは、フェリーとファニルの攻防を冷静に見極めていた。
「どこか、隙があれば……」
蒼龍王の神剣の柄を強く握りしめる。
邪神の。悪意の源を断つ神剣は、必ず役に立つはずだ。
一方で、自分に余力が残っていない事も理解している。
全力で戦えるのは、恐らくあと一振り。絶対に失敗は出来ないと気を引き締める中。
アメリアの瞳に、ある光景が映し出された。
「え……」
それは、他の者だとすればおかしくない光景。
戦いの中に於いては、自然な事。
けれど、フェリー・ハートニアにとっては間違いなくおかしな状況だった。
白く、瑞々しい頬に一本の線が引かれている。
とても薄いものだけど、彼女が操る灼神にも似た赤い雫が頬を伝っている。
頬だけではない。
二の腕や、太腿にも同様の傷や血の流れる様子が散見される。
激しい戦いの余波か、美しい金色の髪の先端も焦げている。
本来のフェリーならば、一瞬で消えてしまうはずの軽傷。
それらが全て、彼女の身体に刻まれたままだった。
「まさ、か……」
ある可能性が脳裏を過る。
彼女は、フェリー・ハートニアは。もう、不老不死ではないのではないかと。
「フェリーさん……」
彼女の苦しみを考えると、知っているというのは烏滸がましいかもしれない。
しかし、アメリアなりにフェリーの気持ちは少しだけ理解できる。
愛した男性と同じ時間を生きたいという、尊い願い。
ずっと、ずっと。諦めきれなかった想い。
それがもう、手を伸ばせば届くところまで来ているのだ。
「……っ! ピースさん!」
ならばもう、迷う必要も理由も無かった。
機を窺うなんて真似をしていられない。一刻も早く、シンとフェリーを巡り合わせたい。
アメリアにとって、二人は同じぐらい大切な存在だから。
アメリアの決意がピースへ届いたかどうかは定かでない。
だが、彼女の意のままに。『羽』は、急加速をする。
炎と闇が混ざり合う弾幕の中へ、救済の神剣を携えて飛び込んだ。
……*
「アメリアさんっ!? あぶないよ!」
自分の眼前を素通りした人影に、フェリーは驚きを隠せない。
一方で、無謀だと感じた。黒煙の向こう側で、ファニルが何を企んでいるか判らない。
それでも、アメリアは空を駆ける。
蒼龍王の神剣の放つ淡い光が、行くべき道を指し示してくれる。
大海と救済の神もまた、悩み抜いた一組の男女が救われる事を望んでいた。
「あなたも、随分しつこいわね!」
黒煙を越えた先で待ち受けるファニルが、声を荒げた。
悪意によって造られた漆黒の鎖が鞭となり、牙を剥く。
「生憎、諦めは悪いほうですから!」
鎖が絡みつこうとも、アメリアは止まらない。
蒼龍王の神剣の刃を立てながら、鎖諸共ファニルの腕を裂いていく。
「くう……っ! よくも!」
苦痛の声を漏らすファニルだったが、アメリアの視線は彼女を向いてはいない。
あくまで狙いはその先にある、漆黒の泥によって創られた球体。
救済の神剣はその表面を斬り裂く。悪意によって象られた外殻が、剥がれ落ちていく。
まだ足りない。まだ届かない。
己の力不足が歯痒い一方で、これで良かったとも思えた。
親愛なる彼へ。シン・キーランドへその手を届かせるのは、自分の役目ではないから。
「フェリーさんっ!」
声が響き渡る。
薄くなった黒煙の向こう側へ届くよう、アメリアは引き抜いた蒼龍王の神剣を掲げた。
「っ! アメリアさん!」
蒼い光がフェリーの注意を引き付ける。
直感した。あれは誘導しているのだと。あそこに、シンが居るのだと。
「……ユリアンさん! 力を貸して!」
(分かった)
余力を気にする場面ではないと悟った。
フェリーの願いに応えるべく、ユリアンはより強い炎で漆黒の雫を蒸発させていく。
立ち込める黒煙は、風によって吹き飛ばしていく。
炎と風。フェリーとシンを見守ってきたアンダルの得意とする魔術が、今も尚二人に救いの手を差し伸べる。
「いっ……けえええええええ!」
視界が拓けたのは一瞬。きっとすぐにまた、漆黒の雫によって視界は覆われるだろう。
だからこそ、フェリーはその一瞬を眼に焼き付けた。
アメリアの掲げた道標を決して見失う事なく、全力の魔力を込めた灼神を力の限り振り切る。
「――ッ!」
何かが裂ける音がした。
悪意の泥によって固められた球体に亀裂が刻まれる。
次の瞬間。
広がっていく傷の向こう側から、一筋の光が天へと伸びていった。
ボロボロと剥がれ落ちた球体の向こうから、彼が姿を現す。
いつしか悪意を失った黒煙は、大気中へと消えていた。
「よかった」
誰よりも間近で見ていたアメリアが、安堵の息を漏らす。
続けて金髪の少女の瞳が、一筋の涙を流す。
「……シン」
ぽつりと、彼の名を呟く。
あちこち怪我をしているけれど、狼狽えたりはしない。
だって彼は、いつも無茶をする。今回だって、きっと無茶をしたのだ。
その証拠に、彼の腕には一人の子供が抱えられている。
晴れやかな顔をした純白の子供が、彼に全てを預けている。
彼はその身を呈して、己の願いを叶えたのだ。
悪意の器たる存在さえも、救って見せるという大それた願いを。
「悪い、助かった」
「ううん、おかえりなさい」
いつものように淡々と告げるシンに対して、フェリーははにかんだ。