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その魔女に祝福を  作者: 晴海翼
終章 祝福
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518.邪神の決意

 臓物の腐ったような臭いが充満している。

 鼻が曲がりそうになるのを堪えながら、シン・キーランドは立ちあがった。


「ここが、邪神の中か……」


 夥しいのは臭いだけではなかった。

 周囲一面を覆う泥がドロリと垂れる様は、気味が悪かった。

 下を向けば、足首まで覆っているのだから流石のシンも眉を顰める。

 

 とても何も知らない、純粋な子供が居るとは思えない光景。

 それでも、この中で抗っているという確信があった。

 もしもあの子供が悪意に染まっているのならば、自分はとうに命を失っているだろうから。


(マナ・フライトは……)


 脱出方法の確保を兼ねて、マナ・フライト探し求める。

 目当ての物自体はすぐに見つける事が出来たが、状況は芳しくない。


「流石に、もう乗れない……か」


 振り返った先にあったのは、既に機能を停止しているマナ・フライトの姿。

 装甲のあちこちが剥がれ落ち、あらゆる隙間から漆黒の泥が侵食している。

 腐食した翼は、起動は二度と叶わないのだと悟らせるには十分なものだった。

 シンは邪神の中で、退路を完全に断たれていた。


 先に進む以外の選択肢は残されていない。

 自分で選んだ道にも関わらず、首を真綿で締め付けられるような感覚。

 しかし、シン・キーランドの表情に不安は無かった。むしろ、やる事がはっきりしたとさえ思っている。

 

「マレット、皆。ありがとう」


 聞こえないと知りつつも、シンはマナ・フライト越しに礼を告げた。

 ここまで来られたのも、皆が抜かりなく準備をしてくれたからだ。

 その想いを無下には出来ない。顔を上げ、青年は悪意の泥に塗れた世界を渡り歩く。

 救うと決めた子供を求めて。


 ……*


 痛い。辛い。苦しい。悲しみが、流れ込んでくる。

 これほどまでに傷付いているのに、痛みを知っているのに。

 どうして同じ悲しみを相手へ与えようとするのか。

 純白の子供には、理解できなかった。


 まだ顕現さえ叶わない、『核』として存在していた頃。純白の子供は何も知らなかった。

 悪意の器として創られた存在は、注がれた悪意を受け止め続ける。

 善も悪も判らない中で注がれた感情に染められていく。

 

 時間の経過と共に、ヒトは悪意を振りまく事が自然だと認識をする。

 求められているものが正しいのだと信じ、破壊の限りを尽くす暴力の権化。

 この子供は、そんな存在に成る事を求められていた。


 けれど、純白の子供はそれが正しいとはどうしても思えなかった。

 嗤う者のすぐ傍に、いつも泣いている者が居たから。

 何も知らない。純白の子供であるが故に、好奇心を抱いた。


 顕現する前。『核』から覗き見た世界は、いつしか泣いている者が消えていった。

 最後に残るのはいつも厭らしく嗤う、自分へ悪意を注ぐ者達だけ。


 消えていく者達の中には、自分へ悪意を遺す者もいた。

 誰しもが持っている、自然なもの。だから皆、自分へ伝えているのだと認識をした。

 その感情は似て非なるもの。邪神という漠然とした存在へ憎悪を向けた結果なのだと教えてくれる者はいなかった。


 自分を創ったうちの一人が語り掛ける。「好きなように、破壊をしろ」と。

 破壊こそが正しくて、そうする事でより強い感情が自分へ向けられる。

 『神』になろうとする自分は、そうして力を増していく。『神』へと、近付いていく。

 

 何も知らないが故に、男の言葉に導かれようとしていた。

 求められた役目に応えるべきだと、思った。


 だけど、間違っているかもしれない。

 三日月島で初めての顕現を果たす直前に、そんな可能性が子供の脳裏を過った。


 『核』の殻を越えたのは、内側からではなく外側から。

 古ぼけた短剣の刃が、子供へと触れる。

 急速に魔力が奪われていく中で、子供はとある青年の姿をその眼に捉えた。


 眉間に皺を寄せながら、多くの苦悩を抱えながら刃を向けている。

 どうせこの男も、他の者と同じだ。最後には恨み、妬みを自分へ遺すに違いない。

 己の魔力が吸われていく中、悪意の器はありきたりな結果を予測していた。


 だが、その男は違った。

 最後まで負の感情を流し込もうとはしない。


 吸い取られていく魔力。その隙間に、彼の感情が流れ込んでいるようだった。

 それは子供にとって、未体験の感情だった。


 自分に流し込まれる感情(もの)とはまるで違う、温かい感情(もの)

 心地よいと思ってしまった。悪意なんかより、彼の持つ感情(もの)をもっと知りたかった。

 正体を知りたくて。教えて欲しくて、手を伸ばした矢先。その青年は、姿を消した。


 儚い想いは、こうも簡単に消え去るのかという絶望。

 嘲笑う人間は、またすぐ傍にいた。否が応でも、自分がどういう存在かを思い知らされる。


 それならば、もうその通りに動くしかない。

 悪意の器が生み出した結晶らしく、全てを破壊しようとしたその時。

 不老不死の魔女が、立ちはだかる。


 強い憤りを見せる裏側で、邪神は違和感も覚えた。

 魔女が怒りに身を任せる直前。彼女は確かに、深い悲しみを抱いていた。

 

 悲しみは知っている。皆、その後に運命を呪う。最後は怨嗟となって、自分へ注がれる。

 だけど、彼女の悲しみは違っていた。深い後悔が、己を責め続けていた。

 他の誰かを恨むような真似は、一切していなかった。

 立て続けに知らなかったものを見せつけられながら、初めての顕現は終わりを迎えた。


 多くの魔力と注ぎ込まれていた負の感情を失い、邪神は深い眠りについた。

 その間。己の分体を通して、子供は朧気ながら醜い世界を見通していく。

 行く先々で消えたはずの青年。シン・キーランドと邂逅したのは、僥倖だった。


 とても不思議だった。

 彼はいつも眉間に皺を寄せながら苦しそうに、時には怒りに身を任せながら戦っている。

 なのに、悪意へ身を任せる様子はない。それどころか、自分へ抗い続けている。


 自分の分身が斃れていく。大気中に残った残滓は、自然と彼の姿を追い求めていた。

 彼の周囲には、多くの者で溢れていた。消えていくのではなく、増えていく。

 

 初めて興味を持った人間は、自分を必要としていない。

 どこか寂しさを覚える一方で、彼の周囲で彩られていく笑顔が眩しかった。


 悪意の器は。邪神という存在はとても歪で、存在してはいけないのではないか。

 三日月島で打ち込まれた楔が、悪意の器へ小さな罅を生み出した瞬間だった。


 予感は正しかった。

 分体を通して彼と目が合った時、自然と涙が溢れ出た。彼はそれを見逃さなかった。

 マギアで彼の温もりを感じた時。彼は言った「救けてやる」と。

 

 自分の分身に嫉妬と羨望の眼差しを送ってしまった。

 邪神はこの瞬間。己が、『救い』を求めていたのだと自覚する。

 注がれる負の感情を全て棄てて、彼のように周囲に笑顔を咲かせる。

 そんな存在に成りたかったのだと、知覚した。

 

 自覚をしてからは、邪神は己の宿命を呪った。

 自分が悪意の器であるからこそ、彼と巡り合えた。

 けれど。自分が悪意の器であるからこそ、彼のように生きられない。


 今も悪意は注がれている。彼と触れ合ったからこそ、その奥にある『愛』も感じ取れた。

 邪神には判らない。これほどまでに強い想いなのに、どうして憎悪に身を委ねてしまうのかが。

 一方で、悪意の器として創られたが故に抗えない自分にも辟易していた。


 想いとは裏腹に、悪意の器としての自分が負の感情を吸収していく。

 肥大化していく力。歪んだ『愛』の持ち主は、邪神である自分さえも取り込もうとしている。

 

 彼女の好きにさせてはならない。

 悪意に取り込まれ、意識が引っ張られようとする中。

 純白の子供は最後の希望に、己と世界の命運を預けると決めた。


 ……*


 穢れに満ちた空間を、シンは一歩ずつ進んでいく。

 相変わらず腐臭と泥によって不快感が同居している状況だが、拒絶はされていないと感じた。


 シンの眼前に広がるのは絶え間なく広がり続ける、一筋の道。

 「来い」と言われているような気がした。

 誘われるままに到達した先で、彼はついに邪神と対峙する。

 その姿は悪意を集約し、世界へ破壊齎す存在には到底思えなかった。

 

 瞳に映し出されるのは。漆黒の鎖に繋がれ、頭を垂れる純白の子供。

 まるで蛇のように蠢く鎖が、悪意によって生み出されたものだと察するのに時間は必要としなかった。

 

「お前が……。邪神の本体か」


 シンの問いに、顔を上げた子供は笑みを浮かべた。

 真っ白と言えど、顔の彫りが動いた事によりシンにも表情の変化は理解できる。

 ただ、どうして笑みを浮かべたのか。その理由自体は、解らなかった。

 

 子供からすれば、ずっと追い求めて来た男が眼の前に立っている。

 どんな状態であれ、逢えた事が嬉しい。

 待ち焦がれていたのだ。この悪意に満ちた器を破壊するに、相応しい者の到来を。


「こ……」


 子供の唇が微かに震える。

 たどたどしいながらも言葉を紡ごうとする姿を、シンは黙って見守っていた。


「ころして。ぼくを、ころして。とめて、ほしい」


 発せられた言葉は、純白の子供による懇願だった。

 悪意によって導かれる破壊を、憎しみの連鎖を止めて欲しい。

 

「あえて、うれしかった」

 

 シンになら。手を差し伸べてくれた青年になら、殺されてもいい。

 強い決意と覚悟を以て発した言葉を前に、シンは沈黙を貫いた。

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