517.支える者たち
天空を舞う紅の翼は、思わず手を伸ばしてしまう程に煌めいている。
アメリアの無意識な行動をは裏腹に、炎の翼と漆黒の球体。ぶつかり合う強大な力から、少しずつ離れていく。
「フェリーさん。よかった」
懸命に戦い続ける少女。両の手には愛用していた剣がある。
うっすらと笑みを浮かべながら、アメリアは胸を撫でおろした。
幾度となく、フェリーは悪意とぶつかり合う。
援護をしたいところだが、自分の『羽』はもう言う事を聞こうとはしない。
彼女に全てを託さなければならない自分の不甲斐無さが、口惜しかった。
浮遊島での戦いとは違う。手を掴んでくれる、自分の身体を支えてくれる者はいない。
その彼にだって、十分な恩返しが出来たとは思えない。
後悔ばかりが脳裏に過りながらも、アメリアは己に出来る事を模索し続ける。
自分が惹かれた男性は、彼の周囲に集まる者たちは、この程度の事で諦めたりはしないと知っているから。
「すぐに、私も向かいますから」
地上までは時間がある。身体は動く、魔力だって残っている。
何か方法はあるはずだと気を張るアメリア。
彼女の心配が杞憂に終わるのは、直後の事だった。
「え……?」
空気の壁を貫いていくだけだったアメリアの背中が、支えられる。
金属質で、屈強な感触。でも、どこか頼り甲斐を感じさせる広い背中のようだった。
「金属の、板……?」
そっと手を添え、身体の向きを変えるアメリア。
今まで空ばかりを眺めていた眼には、つぎはぎだらけの板が映し出される。
板全体を覆うような魔力から、それが不格好でありながら『羽』なのだと察した。
「アメリアさん!」
「ピースさん!?」
『羽』がアメリアを支えた位置。その遥か後方で、緑髪の少年が吠えた。
魔導弾から抽出した魔導石を翼颴へ与えながら、『羽』を操るピース。
迸る魔力に触れ続けた影響で皮膚が裂け、爪が剥がれようとも。彼は決してその手を離さなかった。
自分もただ力になりたい。その一心で、彼は痛みと戦いながら『羽』を操る。
天空のアメリアに、ピースの努力全てが視えた訳ではない。
ただ、頼もしいと思えた。初めて逢った時から、ずっと。
この世界とは違う場所で生を受け、どういう訳かこの世界で新たな命として現れた少年。
自称ではあったが、偽りを感じさせない。異質な存在だった。
彼は争いとは無縁の生活を送っていたらしい。
だから、この世界で突然戦いに巻き込まれた時は大層驚いたと振り返っている。
でも、彼は逃げなかった。眼の前で困っている人を見棄てなかった。
今、この瞬間だってそうだ。出来る事を模索して、背中を押してくれている。
「そうですよね。ピースさんも、最初からミスリアを支えてくれていましたよね。
……恐縮ですが、また力を貸してもらえるとありがたいです」
呟いた声は、地上のピースへは届かない。
その必要も無かった。同じ思いは、どうに抱いていたから。
アメリアが立ち上がると同時に、『羽』は高度を上げていく。
命を預けるに値する。ピースを信じながら、彼女は蒼龍王の神剣を構えていた。
……*
悪意に身を委ねたファニルは、痛みよりも恨みを感じ取った。
断ち切られたはずの左腕が、瞬く間に再生をする。
「どうして、どうして! なんであなたはいつもいつも!」
「ファニルさんが、世界を壊そうとし続けるからだよ!」
意地を交えつつ、ぶつかり合うフェリーとファニル。
灼熱が身を焦がすのも厭わず、ファニルは真紅の刃をその手で掴んだ。
「っ!」
「当然じゃない! こんな世界、もう価値なんてないんだから!」
漆黒に染まった指がボロボロと灼け落ちながらも、フェリーを放り投げる。
僅かに開いた隙間を狙って、無数に生成された漆黒の雫が襲い掛かる。
弾幕が視界を覆い尽くす。強行突破は出来ない。
この雫がいつ、自分の身を焦がすか解らない。不老不死でなくなったフェリーは、無闇に傷を負う事が出来ない。
尤も、フェリーは一歩も退く気は無かった。
先刻から、散々見て来たからだ。悪意はいつ、仲間へ牙を剥くか解らない。
何が何でも撃ち落とさなくてはならないと、灼神と霰神を強く握りしめる。
(フェリー。ここは私に任せろ)
「ユリアンさん」
しかし、そんな彼女を。そんな彼女だからこそ。
ユリアンは彼女を護らなくてはならないと考えている。
フェリーの、シンの、イリシャの。何より、自分の為に。
紅の翼から放たれるのは、炎を纏った羽根。
視界を覆い尽くしていた黒は、瞬く間に紅へ。そして、やがて美しい空の色へと変わっていく。
向かい側に存在する、歪な塊だけを残して。
「なによ、なんなのよ!?」
より一層強まるフェリーの魔力を前にして、ファニルは信じられないという顔をした。
卑怯だとさえ思えた。邪神はいくら悪意を捧げても、力を存分に発揮してくれない。迷いを見せているというのに。
やはり世界はなにひとつ自分の思い通りに行かないと、ファニルは更に憎しみを募らせる。
「ファニルさん! シンを返して!」
積み重なった憎悪を断つべく、フェリーは灼神を振り下ろす。
漆黒に覆われた身体が刃を防いだのは、毒づく彼女とは裏腹にまだ邪神が悪意の器として機能している証左でもある。
「返して? 勝手に邪神の中へ入り込んだんじゃない?
今頃は呑み込まれて、消えてしまっているわ」
「違うよ。シンはゼッタイに、消えてなんかない!」
即答するフェリーに、ファニルは毒づいた。
揺さぶろうにも、動じる気配が無い。
「あたしはシンと、ちゃんと家族を作るの!
そのために、世界は護らないといけない。だから、もうやめて!」
魔力を放出し、真紅の刃がファニルへと食い込んでいく。
立ち昇る黒い煙が異臭を放つが、風に乗ってたちまち消えていく。
「家族? 笑わせないで。そんなもの、作る価値なんてないわ」
鼻で笑うファニルだったが、内心では強い憤りを覚える。
彼女にとって家族というのは、怒りの対象でしかないからだ。
全てが憎い。罪深い存在だった。
死ぬ間際に、魔族の王の末裔だと伝えた父親も。
子を宿したと伝えた途端、自分の前から姿を消した男も。
「情けない、本当に情けない! 最後に呪いを振りまいた父も、責任から目を逸らして逃げたあの人も!」
「ファニルさん……?」
彼女の憤りに連動するかの如く、力を増す邪神。
立ち昇る黒い煙はいつしかなくなり、灼神の刃をも押し返していく。
「家族だなんて、本当に価値がないのよ!
信じられるのは、母の愛情だけ! あなたは幻想を追い求めているだけだわ!」
早逝こそしたものの、母だけは自分を裏切らなかった。
母になろうとした時。ファニルはその意味を、理解した。
自分の中で育まれていく命だけには『罪』がない。
生まれた時から傍にいる。知らない時間なんて存在しない。この子の全てを理解できる。
真実の愛を注ぐ相手に希望を見出したファニルから子を奪ったのもまた、家族だった。
「でもね、腐った人間たちは他人の果実すらも欲しくなるのよ。その方が甘いと、知っているから!
子供を奪われて、誰よりも近い場所で家族ゴッコを見せられた私の気持ちが、あなたに分かるかしら!?
あなたは母親に愛情を与えられなかった。だから、代わりを夢見ているだけだわ。
好きなひとと一緒になって、家族が生まれるって言ったわね? そんなもの、幻想だわ!」
憎い。責任を逃れ、安寧を求めた結果。自分の愛する子供を貴族へ差し出したあの医者が。
悍ましい。何も知らず、他人の子供に愛情を注ぎ続けたエステレラ家の人間が。
幾度となく精神が壊れそうだった。それでもファニルは、息子の成長だけを誰よりも近い位置で見守り続けた。
彼女の言う、唯一無二の愛を証明する為に。
そうまでして愛情を注ぎ込んだ息子さえも、奪われた。
もう少しで、全てが報われるはずだったのに。
フェリーの言葉は皮肉にも、ファニルにより強い悪意を感じさせるものとなる。
「幻想なんかじゃ……ないよ!」
悪意に象られた腕は、灼神さえも押し返そうとする。
彼女の憎悪が、針のように突き刺さる。フェリーは歯を食い縛りながらも、彼女へと抗った。
「ファニルさんがどれだけ辛い思いをしたのか、あたしは知らない。
でも、家族がどんなものかは知ってる。暖かくて、笑って、支え合って。
時々ケンカもするけど、仲直りして」
「それは家族ゴッコを続けるために、皆が仮面を被っているだけだわ。
あの子を育てる私が、我慢していたように!」
「違うよ。ゼッタイに、違う。だって、人を好きになるんだよ?
どうしようもないぐらい大切に想うんだよ? 仮面を被ったぐらいで、そんなの抑えられないよ!」
振り被られた右腕に対して、霰神で応戦する。
氷漬けになった右拳のすぐ下から、ファニルが怒りの視線を送り続けていた。
どれほど強い重圧が放たれていたとしても、フェリーは一歩も退かない。
「ファニルさんだって言ってたじゃない。何か理由があって、離れたかもしれないって!
そうだよ。何か理由があって、離れちゃうコトはあるかもしれない。
でも、キライになったからじゃない! 離れたからって、キライになるとは限らないじゃない!」
(フェリー……)
ユリアンは胸が締め付けられそうになった。
イリシャを愛するがあまり、進む道を誤ってしまった自分さえも肯定しようとしてくれていると。
様々な愛の形を、家族の形を知る彼女が、とても眩しい存在に思えた。
「あんなもの、あなたを惑わせるために口走った詭弁にすぎないわ。
事実、あなたは親に棄てられた人間じゃない。愛を注ぐに値しない人間だったのよ。
家族を語る資格も、愛を語る資格も。あなたにはないわ!」
「あるよ! あたしは誰よりも家族に幸せにしてもらったって、胸を張って言える!」
強く纏った炎と氷が、漆黒の両腕を弾く。
決してファニルの挑発には乗らない。ただ、意見が決して交わらない事は悲しかった。
やり方はどうあれ、彼女が息子に対する『愛』も真実だから。
イリシャやユリアンのように、少しでも分かり合いたかった。
「そう、だったら頭に咲いているお花畑を焼け野原にしてあげるわ!
私の愛がいかに正しいかは、このぼうやが証明してくれるもの!」
両腕を破壊されようが、悪意に身を委ねるファニルにとってはさして意味は持たない。
悪意によって漆黒の腕が、即座に形成されていく。
(シン……!)
終わりの見えない攻防に、フェリーは焦りを覚え始める。
縋るように思い浮かべたのは、自分の愛する男性。
彼がこの歪んだ愛情に絡めとられた子供を救ってくれると信じて、フェリーは刃を振るい続けた。