514.その熱気は背中を押す
雨のように降り注がれる涙は、酸のようだった。
いくら蒼龍族が速度に自信を持っていようとも、身体の大きさは変わらない。
周囲一帯に降り注ぐ雨を防ぐ術は、持ち合わせていない。
「カナロアさん、一度離れてください!」
このまま自分に付き合わせては、蒼龍王の身が持たないと判断したアメリアは決意する。
カタラクト島には、彼の帰りを持つ者が大勢いる。既に中心地から離れつつあるセルン同様に、安全圏にまで下がって欲しいと願った。
「だが、それではアメリアが!」
しかし、素直に首を縦に振るカナロアではない。
自分が居なければ上空に佇む邪神の元へは辿り着けないだろうと、抵抗を試みた。
「後のことは、なんとかしてみます。大丈夫です、無茶はしますけど死ぬつもりはありませんから」
背中越しでも、彼女の苦笑いを感じ取れた。
龍族の王で自分の誇りを傷付けまいと、決して「逃げろ」と口にする事はない。
その優しさが、カナロアの身に染みる。
「……死ぬなよ」
「ええ。約束します」
同時に、アメリアの決意の強さも感じ取れた。
立ち向かおうとする敵は強大で、意見が割れたまま戦える相手でもないだろう。
口惜しさを感じつつ、カナロアはアメリアの提案を受け入れる。
「さて。ピースさんの見様見真似にすら、なりませんが」
龍族の背から飛び降りるように離れたアメリアは、自らが操る『羽』を足場とする。
風を上手い具合に操っていたピース程ではないが、移動手段としては十分に運用出来る。
綱渡りではあるが悪意の涙を掻い潜って邪神の元へ辿り着くには、この方法しかない。
(さて。あとはどこまで粘れるかですね)
蒼龍王へ死ぬつもりがないと言ったのは、嘘ではない。
ただ、現実に生き延びられるかどうかは別問題だ。
地上へ落下をしても、雨に打たれても待ち受けるのは確実な『死』。
まさに綱渡りの戦いとなるが、アメリアの顔は決して俯かない。
邪神を救うべく、己の身を邪神へ呑み込ませた青年。
彼もきっと戦っているはずだと思うと、勇気が湧いてくるから。
「行きますよ、蒼龍王の神剣」
どうか世界が、希望を失いませんように。
救済の神剣へ祈りを捧げながら、アメリアは漆黒の雨の中を突き進む。
「何よ。人間の癖に、神の頂きにまで届くと思っているの? 無駄よ、無駄。無駄なのよ。
私の宝物が大地に呑み込まれてしまったのに、あなたみたいな人間が上ろうだなんて!
烏滸がましいわ! 恥を知りなさい!」
見上げたアメリアの、まだ希望を失わない。純粋な瞳がファニルは大層気に入らなかった。
彼女の憎悪に反応してか、邪神から滴り落ちる涙が空中に留まる。
まるで時間が止まったかのように感じるのも束の間、漆黒の雫はあらゆる角度からアメリアへ襲い掛かる。
「っ! こんな真似まで!」
『羽』による砲撃と、蒼龍王の神剣による斬撃で迎撃するアメリア。
この状況に於ける最大の問題は攻撃の総量ではないと気が付いたのは、直後の事だった。
(あまり『羽』を乱発するわけには……)
今、『羽』は文字通り自分の命綱となっている。
漆黒の雫など関係がない。魔力が尽きてしまえば、地面へと真っ逆さまだ。
可能な限り蒼龍王の神剣による斬撃で対処をしなくてはならない。
もしくは、捨て身による特攻だろうか。
(多少強引でも、前に進むしかないようですね)
蒼龍王の神剣の刃を盾にすれば、悪意から身を護る事は出来るだろう。
尤も、身体の全てを覆えるはずはない。急所だけを護るという、策も何もない特攻。
それでも、最も希望があるようにも思えた。
「蒼龍王の神剣、私に力を貸してください!」
考えている時間はないと、アメリアはただ上だけを目指し続けた。
漆黒の雫がほんの少しだけ、身に触れる。激痛が走る。それでも彼女は止まらない。
一度決めた事は、最後までやり遂げる。子供の頃から、ずっとそうだったから。
「あら。ミスリア最強の騎士も、案外おバカさんなのね」
刹那。アメリアは、ファニルの口角がうっすらと上がるのを目撃した。
見下ろす。というよりは、見下す。いや、自分を小馬鹿にしたような視線。
その理由を知ったのは、自分へ迫る漆黒の雨が減った事に気付いたのと同時だった。
「まさか!」
アメリアは思わず振り返った。
大地が遠く離れている。無意識のうちに、ここまで高く昇っていたのかと驚きもした。
だが、それ以上に悪い予感が当たってしまった事に目を見開いた。
映し出された光景は、黒く染まっていく空。アメリアを通過した漆黒の雨が、大地を破壊しようとしている。
その先には、自分達の仲間がいる。
「――っ! 皆さん、逃げてください!」
天空から声を張るアメリアだが、地上までは届かない。
よしんば届いたとしても、傷付いた騎士や、力を使い果たした者は動く事もままならない。
数秒後に訪れるであろう惨劇が、先んじて脳裏に浮かぶ。
アメリアはひどく後悔をした。
自分の『命』を賭してでも、雫を全て撃ち落とすべきだったのだと。
「ふふ。いい気味だわ」
ファニルは恍惚の表情を浮かべた。
背中越しでも、アメリアの表情が絶望に染まっていっていると感じられる。
それが判れば、むしろ顔など見えない方がいい。見えてしまえば、想像の余地がなくなってしまう。
振り返ったその時に答え合わせをすればいいのだから、今はこの瞬間を愉しもう。
などと、ファニルが己の悪意に身を震わせている中。
天空に居る者全てが、湧き上がってくる熱気に触れた。
「アメリア姉、大丈夫だ! オレたちが、なんとかする!」
聞こえないだろうと思いつつも、地上から声を荒げるのは炎のように燃え盛る髪を持つ少年。イルシオン・ステラリードだった。
彼の想いに呼応し、紅龍王の神剣から発せられた炎が瞬く間に空を朱に染めていく。
「無茶苦茶だが……。これぐらいやらなくてはならないのも、事実か……!」
すかさずその炎を拡張していくのは、彼に劣等感を持っていた少女。トリス・ステラリード。
彼女もまた、神器のひとつである賢人王の神杖を以てイルシオンを援護する。
二人のステラリードによって生み出された炎は、漆黒の雫へ込められた悪意を次々と浄化していく。
「イルくん……」
はっきりと地上の様子は解らない。けれど、立ち昇る熱気と燃え続ける炎が教えてくれる。
「大丈夫だから、先へ進め」と言ってくれている。それは今の彼女によって、何よりも勇気が湧いてくるものだった。
「ありがとうございます……」
下唇を噛みしめ、目尻から零れそうになる涙を堪えた。
地上は大丈夫。もう、振り返らない。残る全てを邪神にぶつけるべく、アメリアは再び上だけを求め続ける。
……*
「出来たぞ、これでいいか!?」
一方、地上ではマレットとギルレッグが同時に声を上げた。
ピースの頼まれていた魔導具の準備が出来た形となる。
時間も材料もままならない。不格好極まりない代物だが、これが今の限界だった。
「ああ、助かる!」
ピースはマレットから、出来上がった魔導具を受け取った。
彼女やギルレッグからすれば、不満が残る一品かもしれない。
もしかすると、精度に不安が残るかもしれない。
しかし、受け取った少年はそんな心配など微塵もしていない。
マギアの誇る天才発明家と、あらゆる工芸を行う小人族の王がいくつもの不可能を可能にしてきた事を知っているからだ。
万が一失敗をしたのなら、自分の思い付きが悪かった。そう言い切れるほどに、ピースは二人を信頼している。
「テラン! ありったけの魔導弾をおれにくれ!」
「あ、ああ」
魔力を使い果たしたテランへ、ピースは魔導弾を要求する。
訝しみながらも、テランは義手に搭載された魔導弾の全てをピースへと渡した。
「何をする気なんですか?」
同じく魔力を使い果たしたオリヴィアも、少年が何をやろうとしているのかまだ見えてこない。
けれど、ピースは彼女に感謝をしなくてはならない。
オリヴィアがコーネリアの魔力を使って『扉』を開いたからこそ、この可能性に行きついたのだから。
「こうするんだ……よ!」
魔導弾の弾頭に取り付けられた魔導石を外したピースは、自らの持つ翼颴へと押し当てる。
更にその上から被せられたのは、マレットが用意した魔導具。魔導砲の弾倉と同じ性質を持つものだった。
ガリガリと削られていく魔導石は、その魔力を翼颴の魔導石・廻へと移していく。
「魔導石から、魔導石に……」
驚きのあまり、オリヴィアは思わず声を漏らす。
刃を形成する翼颴。魔力が正しく伝達された証だった。
「でも、魔導刀を形成したぐらいじゃ……」
ただ、今更翼颴が刃を形成したところで、邪神へは届かない。
ピースだって、そんな事が解からないはずはないだろうに。
眉を顰めながら、オリヴィアとテランは少年の動向に注目を続ける。
「解ってる。だから、こうするんだ」
無論、二人の予想通りピースだってそんな事ぐらいは把握している。
彼の本当の狙いは、その先にある。翼颴を通して、やりたい事がある。
ギルレッグによってひとつに纏められた、ツギハギだらけの『羽』を動かすという目的が。
「……こりゃ驚いた」
造った張本人であるギルレッグでさえ、『羽』の軌道には驚きを隠せない。
なんせ、あの『羽』は翼颴から。
正確に言えば、魔導弾に搭載された魔導石の魔力では足りない程の質量なのだから。
「アイツ、面白いこと考えるよな」
しかし、マレットはケタケタと笑っている。
成功するかどうかは別として、やはり彼が考えるものは面白い。
それが成功したのだから、尚面白い。嬉しさと称賛を兼ねた、笑みだった。
ギルレッグが驚いた通り、繋ぎ合わせた巨大な『羽』は魔力を伝達する経路さえも洗練されていない。
故に魔力の効率が悪く、内部に溜め込んでしまう。
だが、ピースに言わせればそれが良かった。
繋ぎ合わせた『羽』には、翼颴動揺に魔導砲の弾倉と同じ性質のものが取り付けられている。
翼颴を通して動かしているのは、その部分だけなのだ。
故に、魔導弾の魔導石からでも起動する事が出来た。
魔力が吸着さえ出来れば、恐れるものは何もない。
ここら一帯、激しい戦闘によって大気中の魔力濃度が上がっているのだ。
いくらでも魔力は、供給されていく。
「さあ、頼むぞ。みんなを助けてくれ……!」
残った仲間にだけ、きつい戦いを押し付けたりはしない。それが、ピースの決意。
繋ぎ合わされた『羽』は、皆の軌跡を取り込んで空へ羽搏いていく。




