513.漆黒の天空にて
クレシアが遺してくれたものを強く握りしめたまま、イルシオンは嗚咽を漏らす。
しかし、顔を上げた少年の眼に既に涙はない。
「イル、行くのか?」
「……ああ。まだ戦いは終わっちゃいない」
ヴァレリアの問いに、イルシオンは小さく頷く。
見上げた先には、悪意の具現化である漆黒の泥が漂っていた。
ビルフレストを討っても、まだ戦いは終わっていない。
邪神を止めなくては、全てが水の泡となる。
まだ完全に心の整理がついた訳ではないけれど。
少年は、明日を迎える為に戦う事を選んだ。
「そうか……」
とても頼もしいと思える眼差しだった。
自分も力になりたいと立ち上がろうとするヴァレリアだったが、身体は同意してくれない。
不甲斐無さを感じる彼女の肩へ、イルシオンはそっと手を当てる。
「ヴァレリア姉はここで休んでいてくれ。……行ってくる」
「イル……」
それだけを言い残し、イルシオンは大地を蹴る。
ヴァレリアの肩には彼の熱が残っている。
また同じ温もりを感じられるようにと祈りながら、ヴァレリアはイルシオンを見送った。
……*
時を同じくして、トリスが再び仲間の元へと辿り着く。
コーネリアの存在が確認できない事から、彼女の脅威は去っているのだろう。
しかし、とても胸を撫でおろすような気持ちにはなれない。
悍ましいほどの悪意に晒されていれば、眉間に縦皺を刻むのも当然だった。
「次から次へと、どれだけ姿を変えれば気が済むのだ……」
漆黒の泥から浮かび上がっている、一人の女性。
正確に言えば、恐らくは女性だろうという程度の認識だった。
彼女は鬼のような形相をしている。
男か女か。人間かどうかすらも、判別が難しくなる程に。
泥を被ったかのように黒く染まった女性が、奇声を上げる。
その度に漆黒の球体から、閃光が放たれていく。
狙う先は、二頭の龍族。蒼龍族の王とその妻が、懸命に悪意と抗っていた。
(私が、あの戦いに割り込めるか……?)
人知を超えた戦いが、眼前で繰り広げられている。
何か力になれればと戻ってきたはいいが、とても加われる雰囲気では無かった。
臆病風に吹かれてはいけないと己の足を、硬く握った拳で打ち付けるトリス。
その光景を視界に捉えたイルシオンが、逡巡する彼女と接触をする。
「トリス姉!」
「イルシオン」
情けない所を見られたという気恥ずかしさもそこそこに、トリスは傷らだらけのイルシオンに目を奪われた。
気のせいか、目元も腫れているような気がする。
きっと感情を抑えきれない出来事があったにも関わらず、彼の眼に曇りは無かった。
「残る敵は邪神だけだ。オレは残る力をアイツにぶつけようと思う。
トリス姉は、まだ戦えるか?」
イルシオンにとっては、トリスの身を案じての発言。
しかし、トリスにとっては己の覚悟を試されているような気がした。
これまで、彼女はいくつも道を誤ってきた。
それでもここに立っていられるのは、手を差し伸べてくれる皆が居たからだ。
皆を護る為に、残る力を振り絞るつもりだった。気後れしていた心が、彼女の想いへと追い付く。
「ああ、そのために私は戻ってきた」
「そうか。オレと同じだ」
下唇を一度噛みしめ、トリスは頷く。
イルシオンは子供の頃のような笑みを一度浮かべ、天空に佇む漆黒の球体を見上げた。
……*
「どうして、どうして、どうしてよ!?
なんであんな小娘と蜥蜴を始末出来ないのよぉぉぉぉぉ!?」
空に漂う漆黒の球体。悪意の器を道具のように振りまく女。ファニルは、悲鳴にも似た怒号を撒き散らす。
連続して放ち続けている黒い閃光は、空を舞う二頭を捉えられない。
直撃しそうな場面こそあったものの、アメリアの蒼龍王の神剣の前に断たれてしまう。
神器といえど、たかが剣一本に防がれている。
その事実は、ファニルにとって屈辱的なものだった。
不老不死の魔女が持つ、無尽蔵の魔力から放たれる防御すらも貫いて見せた。
なのに、今はあんなか細い剣にまるで歯が立たない。
龍族だってそうだ。ただ空を舞っている蜥蜴であるはずなのに、一行に捉えられる気配が無い。
不快感が蓄積されていくと同時に、ファニルはその原因を模索し続ける。
「邪神が疲弊した? 駄目よ、駄目。絶対に駄目。認められないわ。
ぼうやには世界を全て破壊しつくしてもらわないと」
邪神が消耗したなどと、認められるはずがない。
今までにかき集めた悪意。その全てが、この身に詰まっているのだ。
小娘と小競り合いをした程度で消耗するなど、受け入れられるはずがなかった。
「やめてください! 邪神は本当に戦いを望んでいるのですか!?」
蒼龍王の背で、アメリアが訴えかける。
邪神の力を断つ忌々しい神剣を持つ女の問いに、ファニルは反射的に答えた。
「当たり前じゃない! ぼうやは全てを破壊するために生まれたのよ!?
その役割を果たさず、生まれてきた意味なんてないじゃない! ふざけるのも大概にしてちょうだい!」
「ファニルさん! そんなのおかしいよ!
産まれた時から子供に何かを押し付けるなんて、間違ってる!」
怒りを露わにするファニルに、セルンの背からフェリーが訴えた。
先刻からずっとそうだ。彼女の言葉は、ずっと癪に障る。
「知った風な口を利かないでちょうだい! ぼうやは破壊することを望まれたのよ!?
だからこうして、全てを破壊しようとしているんじゃない!
分体だってそう、壊すのを愉しんでいたわ! 知らないとは言わせない!」
「それは……っ!」
皆が悪意を注ぎ込んで、歪んだ結果だ。邪神が望んだ訳ではない。
そう言い返そうとするフェリーを、アメリアが止める。
「フェリーさん。きっと彼女は、もう止まれません」
「……っ」
重苦しい顔を覗かせながら、アメリアが呟いた。
邪神は悪意によって歪んでいく。ビルフレストをはじめとする世界再生の民が源泉となって。
だから、邪神以上に歪んだ存在が居てもおかしくはない。
生まれたばかりの子供とは違う。彼女の悪意を、憎悪を取り除いてやる事は出来ないのだ。
苦しいかもしれないが、それが現実だった。
「笑わせないで、止まろうとしたことなんてないわ。
私はね、ビルフレストといっしょに成し遂げられればそれでよかったのよ。
それを奪ったのはあなたたちよ。大切なものを何度も奪った償いは、『死』程度では足りないの!」
怒りに吠えるファニル。それでも、閃光の威力は次第に落ちていく。
不可解だった。自分の憎悪は加速度的に増している。悪意の器たる邪神と一体化しつつある今、伝わらないはずがない。
何か原因があるはずだ。そう考えた時、ファニルの脳裏にあるひとつの可能性が浮かんだ。
「シン・キーランド……」
漆黒の球体。泥となった邪神の中へと飛び込んだ、一人の青年。
邪神の内部で、彼が何かをしようとしているのではないかという考えに至る。
「……なによ、ふざけないで。今度はぼうやさえも、奪ってみせるつもりなの?」
確定した訳ではない。しかし、ファニルの中では確信へと変わっていた。
皮肉にもそれは、ファニルの憎悪をより膨らませる為の引鉄となった。
「――――!!!」
今までの比にならない悪意が膨れ上がる。憎悪によって、漆黒の球体が暴走する。
爆ぜるように噴き出すのは、憎悪に満ちた泥。黒い雨となって降り注ぐその様相は、邪神が流す涙のようにも思えた。
「つうっ!」
「セルンさん!」
降り注ぐ雨は今までの閃光と違い、巨体の龍族では避けきれない。
無差別の攻撃に成す術もなく、セルンの身が爛れてく。
「このままじゃ、セルンさんだけじゃなくて地上のみんなも……。
ユリアンさん! さっきみたいに炎の羽根で、みんなを護れない!?」
まずいと本能的に感じ取ったフェリーは、出来る限り被害を抑えようとユリアンへ協力を求める。
灼神と霰神が回収できていない今、自分に出来るのは壁になる事だと考えての発言だった。
(いいや。フェリー、それではさっきの繰り返しだ。
君だけが苦痛に耐えることとなる)
「でも、何もしないよりはゼンゼンマシだよ!」
ユリアンはこれ以上、フェリーだけが痛みに耐える事を良しとしなかった。
皆が傷付くのを嫌がる彼女と、意見が割れる。
(違う。フェリー、私に提案があるんだ)
「提案……?」
ただ、決してフェリーの意思を尊重していない訳ではない。
己に許された最後の手段を以て、ユリアンは状況の打破を試みる。
しかしそれは、彼にとって愛する妻と今度こそ永遠の別れが訪れる事を意味していた。