512.悪足掻き
ビルフレストが倒れ、ファニルが憎悪に身を任せるのと同時刻。
彼女の感情を直に感じ取った邪神が放つ黒い閃光に呑み込まれるフェリーの姿を、シンの眼が捉えた。
「フェリー!」
フェリーは必死の様相で防御をしているが、明らかに破壊力が勝っている。
自分が代わりに受け止めたいとすら考えるが、瞬く間に殺されてしまうだろう。
ならば、自分はどうするべきなのか。
決まっている。変わっていない。邪神を止める事だった。
何をやりたいかも、何をするべきかもはっきりしている。
なら、動くしかない。シンはマナ・フライトの操縦桿を握り、再び邪神へと接近する。
「なんだ……?」
違和感と危機感から、眉を顰めるシン。
その先に待ち受けているのは底なしの闇だった。
状況を正確に把握する事さえも許されない。邪神は絶えず泥のように己の身を融かしていく。
形容しがたい悪意を感じる傍らで、どこかそれは苦しんでいるようにも見えた。
決して邪神が望んだ変化ではない。穿った見方かもしれないが、シンにはそう見えたのだった。
(どうすればいい、どうすれば――)
マナ・フライトに蓄積された魔導石・廻は、既に魔力の殆どを失っている。
フェリーへ襲い掛かる黒い閃光の矛先が、いつ自分へ向くかもわからない。
残された時間はほんの僅か。焦燥感が身体を支配する中、シンは漆黒の泥の中で確かにそれを見た。
「あれは――」
一秒にも満たない、ほんの僅かな時間だった。それでも、シンの眼には焼き付いている。
悪意によって創られた泥。その中心でもがき続ける、純白の子供の姿を。
シンがどうするか判断するよりも遥かに早く、子供は泥の中へと呑み込まれていく。
「――ッ! 待っていろ!」
見えた。見つけた。自然とシンは、操縦桿を強く握りしめる。
もう迷ってはいられない。考えてはいられない。
マナ・フライトに残っている魔力全てを、前へ進む為の力へと変えた。
得体の知れない物質へ飛び込むという恐怖はあった。
だが、迷いはしなかった。まだ邪神は、純粋な子供のままでいてくれたのだから。
帰還の保証も、手段も持ち合わせていない。
後先考えずに飛び込むという、無謀でしかない行動。
端から見れば、愚かな存在だっただろう。
それでも構わない。シン・キーランドは、己の本心に従った。
彼がマナ・フライト共々、漆黒の泥に呑み込まれたのは直後の事だった。
……*
「まずいだろ、あれ」
マレットは空を見上げながら、乾いた笑みを漏らした。
巨大な人型から、泥の塊へと変貌していく邪神。
無尽蔵の魔力を持つフェリーが、その源泉であるユリアンの協力を得ても抑えきれない程の攻撃。
彼女が魔力による障壁で周囲を護っていなかった場合を思うと、背筋が凍った。
「いやあ、さすがに……。ちょっと引きますね……」
同意するように、オリヴィアが苦笑いをする。
魔力を使い果たし、身体を動かすのもやっとな自分では力になれない。
運命を託したと言えば聞こえはいいが、まな板の上の鯉だという他無かった。
余力が残っていないのはオリヴィアだけではない。
これまでの戦いで、多くの者がその力を使い果たした。
だからこそ、ここまで繋ぐ事が出来た。ただ、そこまでしても届かないのかと絶望が押し寄せるのも事実だ。
(まだ何か。おれが少しでも力になれることはないのか?)
そんな中。異世界から来た少年は、まだ頭を必死に回していた。
自身も魔力はとうに使い果たしている。それでも、諦めきれない。
往生際の悪さには、自信があったからだ。
仮に風祭祥吾だった時の記憶を生かしても、直ぐには活用できないだろう。
そもそも、製作する時間も材料もない。あり合わせでなんとかしなくては、意味がない。
周囲には壊れた『羽』や、テランが持つ魔導弾のみ。
これでは邪神の身体を撃ち抜くなんて、以ての外だった。
灼神や霰神。魔導砲の威力を越えなくては、意味がない。
そんなものは、魔導羽砲ぐらいしかないと知っていながら。
(……待てよ)
絶望的だと思われた状況の中。ピースの思考がある場所で留まる。
見上げた先は、天空に漂う漆黒の泥。その中には、シンが居る。
「なあ、マレット」
「なんだよ? 仮に逃げても、アタシは責めないぞ」
珍しく余裕のないマレットの様子に、本格的に危機感を覚える。
それで軽口を叩くのは、逃げてはいけないという空気を払拭する為だったのだろう。
相変わらず、意外と他人への気遣いが出来る奴だとピースは感心していた。
「違うっつーの! そんなことよりも、お前はシンさんがあの中でどうなってると思う?」
だが、ピースは逃げる気など微塵も無かった。
自分の脳裏に浮かび上がった可能性を実現する為に。前へと進む為にマレットへ質問を投げかける。
「そりゃあ……」
普通に考えれば、邪神に呑み込まれた形だ。無事で済むはずがない。
しかし、訊かれたマレットも。周囲の仲間も。訊いたピース本人でさえ、同じ事を思い浮かべている。
「アイツはそう簡単にくたばらないだろ。絶対、生きているはずだ」
「だよな」
想像通りの答えに、ピースは苦笑した。
魔力なんて、元々持っていないのに。神に認められた存在でもないのに。
どうしてだか、簡単に死ぬ姿が想像できなかった。
でも、そう思ってくれているからこそ。
自分の思い付きを試す価値があった。
「マレット。ギルレッグさん。ちょっと、造って欲しいものがあるんだ」
ピースはマレットとギルレッグへ、己の考えを身振り手振りで説明を始める。
黙って聞いているマレットとは対照的に、小人族の王は途中で眉を顰めた。
「そりゃ、出来なくもないだろうが……。動作の精度は期待できないぞ?」
「後は気合でなんとかする!」
太い指から伸びる分厚い爪で額を掻きながら、ギルレッグは答える。
ピースはそれでも構わないと、鼻息を荒くした。
「根性論かよ」
「もう、それしか出せるものがないんだよ」
呆れるようにため息を吐くマレットだが、小馬鹿にしている感じではない。
知っている。どちらかというと彼女は、こういう無茶が嫌いではないと。
「もしもの時に備えるぐらいは、しておきたいだろう」
「そりゃそうだ」
軽い笑みを浮かべた直後。マレットはピースから翼颴を受け取り、一度分解をし始める。
一方で小人王の神槌を構えたギルレッグが、大地に散らばる『羽』の破片を加工し始めた。
(頼む……)
上手く行くようにと祈るピース。
シンも、フェリーも依然として戦い続けている。必死に悪意と抗っている。
ウェルカの時と同じだ。自分だけが、先にリタイアしてしまった。
同じ轍は踏みたくない。ほんの僅かでも力になれるなら、なりたかった。
彼らはピースにとって、生まれ変わった最初の友人だから。
救えなかった親友と違って、今度こそは笑って共に明日を迎えたい。心から、そう願った。
……*
「いいわ、いいわよ! 本当に死なないんだなんて!
あなたみたいなバケモノを見る機会なんて、そうそうないわ!
心が壊れるまで、いくらでも身体を壊してあげる!」
膨張する憤怒、憎悪を胸に。悪意の泥と一体化を果たしたファニルの暴走は激しさを増していく。
周囲の者は取るに足らない。いつだって殺せるという確信がある。
だからこそ。まずは忌々しい不老不死の少女の心を、ぐちゃぐちゃに壊したいという欲望が彼女を支配する。
「っ……!」
懸命に魔力で抵抗を試みるフェリーだが、凌ぎきれない。再生や耐える事よりも、破壊される速度が勝っている。
絶え間なく続く苦痛を前に、痛覚が麻痺をしてきた。それでも、決して意識は切らさない。
この牙が自分以外に向いてはいけない。自分だけが、受け止められる。
大切な者を護る為に、彼女は自らを餌としてファニルの憎悪を一身に受け止め続けていた。
(フェリー、無茶だ!)
「でも、でも! あたしじゃないと……!」
ユリアンの忠告に耳を傾けるも、考えは曲げない。
知っている。フェリー・ハートニアは、そういう少女だと。
そんな彼女の意思を尊重したい。願いを完遂させてやりたいと、今では本気で思っている。
だが、絶え間なく邪神の脅威に晒されているこの状況ではそれもままならない。
せめて肉体が完全に回復するまでの時間が稼げれば。
フェリーを一度逃がせば、きっとファニルは標的を仲間へと切り替える。
一方でこのまま邪神の攻撃を受け続ければ、状況は好転しない。
延々と続く雁字搦めの状況は、まさに生き地獄というに相応しいだろう。
(どうにかしなくては。どうにか――)
決意を固めたというのに。決断したというのに。
思うようにいかない歯痒さが、ユリアンを苦しめる。
「だいじょぶ。あたし、ケッコーガマン強いから……」
(そういう問題じゃ――)
強がりを見せるフェリーに、ユリアンが更なる心苦しさを感じたその時だった。
青白い光が、邪神から放たれる閃光を断ち斬る。
邪神の攻撃が止んだその先に現れたのは、青色の髪を靡かせる騎士の姿だった。
「フェリーさん! 大丈夫ですか!?」
「アメ、リア……さん。けほっ」
フェリーは焼けた喉から声を絞り出し、視線を傾ける。
その手に握られているのは、蒼龍王の神剣。救済の神剣を以て、邪神の攻撃を斬り払う。
「遅くなってすみません」
「そんな! アメリアさんこそ、ケガが……」
よく見るまでもない。彼女の装いには赤い染みがいくつも広がっている。
凛とした顔つきこそしているが、痛みを耐えているに違いない。
「問題ありません」
それでも彼女は、決して弱音を吐かない。
ただ真っ直ぐに、邪神を見上げる。
「あんな姿に、なってしまったのですね……」
またしても姿を変えた邪神の姿を見上げ、アメリアはぽつりと声を漏らす。
シンが救おうとした存在。純白の子供は、まだ存在しているのだろうか。それだけが、気掛かりだった。
「何よ、何よ、何よ! いいところだったのに!
許せないわ、まずはあなたから消えなさい!」
愉悦の時間を邪魔されたと、ファニルは己の喉を掻き毟る。
怒りの矛先が、フェリーからアメリアへと変わった瞬間だった。
「待っ――」
制止しようとするフェリーの言葉に、彼女が耳を傾ける道理はない。
黒い閃光がアメリアへ向かって放たれたその瞬間。
アメリアと、フェリーが地上から姿を消した。
「っ! なに!?」
何が起きたのか、目で終えなかった。
舌打ちをしながら、ファニルは二人の姿を探し求める。
視界の先に映し出されたのは、二頭の龍族とその背中に乗る少女達の姿。
「わわっ!」
「カナロアさん、セルンさん」
フェリーとアメリアは驚きのあまり、声を漏らす。
彼女達を地上から空中へと運んだのは、最速を誇る龍族。蒼龍族の二頭だった。
「あのままでは地上が破壊されるだろう」
「どこまで耐えられるかは判りませんが、出来る限りのことはしますよ」
「……ありがとうございます」
蒼龍王とその妻は二人と背に乗せながら、黒い閃光を紙一重で躱し続ける。
緊張感が走る中。ファニルの歯軋りが、虚空に響き渡る。