511.ただ破壊だけを求めて
その瞬間がファニルの眼に映し出されたのは、決して偶然ではない。
彼女はいつも追っていた。見守っていた。可愛くも愛おしい息子の姿を。
「――――ぁ」
炎を纏った刃を受け、崩れていく様を目の当たりにした。
呼吸も出来ない程に喉が絞まる。彼女の心が、現実を受け入れまいと拒絶している。
ただ、彼女がどう受け取ろうとも現実は変わらない。
ビルフレスト・エステレラの肉体は、穴の開いた大地へと消えていく。
母と子の視線が絡み合う事は、無かった。
「いやあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「なっ、なに!?」
悲鳴を上げるファニルを前にして、フェリーは思わず動きを止める。
響き渡る声とは対照的に、その対象は自分ではないのだと雄弁に語り掛けてくる。
「どうして、どうして、どうして!?
あの子が! 私の可愛い息子が! どうしてなのよぉぉぉぉぉ!!」
「息子……」
発狂するファニルの様子で、フェリーも大方の状況を理解する。
彼女の息子。世界再生の民の首魁であるビルフレスト・エステレラが討たれたのだと。
世界再生の民は。邪神はビルフレストが世界を破壊し、造り替える為に創り出したもの。
ファニルは息子の為に身を粉にして、共にその宿願を成し遂げようとしていた。
だが、愛する息子はもういない。同時に、彼女が戦う理由は断たれた。
――はずだった。
「ファニルさん! もう、やめようよ!」
「……やめる?」
フェリーは説得を試みながら、灼神を手に、邪神から伸びる悪意の鎖に応戦をする。
しかし、ファニルは既に状況を正しく把握できる精神状態では無かった。
唯一。自分の生きる糧だった存在が奪われたという事実に、憎悪が解き放たれていく。
「私からまた息子を奪っておいて、やめろと言うの!? ありえない、認められないわ!
あなたたちはいつもそうだわ! 私から一方的に奪っておいて、それを良しとするのね!
許せない……。私の全てを奪ったあなたたちが、憎い……!」
深い憎悪は、纏った鎖をより深い闇へと墜としていく。
心なしか、邪神は苦しんでいるようにも見えた。
「ファニルさん! でもそれは世界再生の民だって同じじゃない!」
自分だって誰かの大切なひとを奪っている。壊している。
因果応報だなんて言葉で片付けるつもりはないが、その怒りは筋違いだとフェリーは訴える。
「知った口を叩かないで! 私はずっと奪われ、それでも耐えて来た!
あの子だって、薄気味悪い愛情を一方的に押し付けられて、精神を摩耗してきたのよ!」
「なんで、そんな言い方するの!」
「事実だからよ!」
ビルフレストにとって、エステレラ家の夫妻から送られた愛情は薄気味悪いものだと断ずるファニル。
最早、彼女にフェリーの訴えは届かなかった。
ファニルの精神は愛する息子を奪われたあの日から、とうに壊れてしまっている。
自分から大切な者を掠め取った。それを許したこの世界が、憎くて堪らない。
全てが歪なこの世界に於いて、たった一人。血を分けた肉親だけが、信じられる存在だったのだ。
彼が主導して創り変えた世界は、歪など存在しない。本能が、本音が跋扈する世界になるはずだった。
そんな中でファニルは真実の愛を抱いて、余生を謳歌する。そう信じて疑わなかった。
けれど、その息子は。ビルフレスト・エステレラはもういない。
世界を創り変える意味はなくなった。だって、息子がいないのだから。
故にファニルは、ただ破壊だけを求める。
あり得ない。受け入れられない。許せない。全て消えてしまえばいい。
喉を掻き毟りたくなる程に、負の感情が湧き上がり続ける。
それはファニルの中に流れる魔族の血が、人間を憎んでいるからではない。
息子の命を奪ってまで存続しようとするこの世界が、堪らなく気持ち悪いと感じたからだ。
「不老不死? 死なない? 大いに結構よ。
あなただって、奪われてみれば分かるわ! 私のこの思いが!」
破壊する。ただ、破壊する。『死』の向こう側で、永遠に息子へ懺悔を行わせる。
利など一切存在しない。故に純粋で色濃く、悪意の器である邪神と強く結びついた。
「――――アアアアァァァァァ!」
これまでとはまるで質の違う悪意が流れ込む。
身を委ねてはならないと思いつつも、悪意の器は自らの存在意義に背けない。
ファニルへ絡みついていた鎖は消え、やがて身体が取り込まれていく。
あまりにも強く濃い悪意を前にして、ファニルは邪神の肉体と同期を果たそうとしていた。
「全て、壊してあげる。だって、要らないでしょう?
もう、壊させて。可愛い息子へ手向けの花を、用意しなくちゃいけないのよ」
身体が邪神の中へと溶け込んでいく中。ファニルは低く、冷たい声で呟いた。
邪神の左腕から大地すらも両断しかねない漆黒の閃光が放たれたのは、直後の事だった。
……*
「――ダメッ!」
悟ったようにも、開き直ったようにも見えた表情に、フェリーの背筋が凍った。
好きなようにさせてはいけない。それだけは、本能で察していた。
刹那、彼女の肉体は邪神の腕へと回り込んでいた。
放たれる黒い閃光が、皆を傷付けないようにと。
炎の翼が彼女の身体を覆い、身を護る。
灼神と霰神へ魔力を注ぎこみ、必死に抵抗する。
だが、足りない。力の差は歴然で、容赦なく翼を。彼女の身を裂いていった。
「つ、ぅ……!」
(フェリー、無茶をするな!)
「で、も……っ! みんなが!」
出力が違いすぎると忠告するユリアンだが、フェリーはそれを聞き入れない。
自分とは違う。皆は傷付いても、治らない。だから、絶対に護らなくてはならない。
強い意思の下、フェリーは邪神の攻撃に抗い続ける。
炎で創られた翼が、捥がれる。ユリアンが再度生成するより先に、黒い閃光がフェリーを襲う。
灼神も霰神も、とても出力が及ばない。
前に突き出した腕は焼け爛れ、感覚を失った両手から二本の魔導刃・改が零れ落ちる。
不老不死の魔女は重力に抗えず、吸い込まれるように大地へと落ちていく。
「いいザマね。でも、まだよ」
その様子を愉しんで言えるファニルだったが、まだ足りない。
フェリー・ハートニアはあの程度の負傷などわけはない。すぐに回復してしまう事を、経験則から知っている。
故に、確実に動きを止める為に。起き上がった時、深い絶望を与える為に。念入りに黒い閃光の照準を彼女へと向ける。
「――っ!」
反射的に爛れた腕を差し出すフェリー。思い切り魔力を放出し、少しでも威力を相殺しようと試みた結果だった。
彼女の行動に導かれるかの如く、ユリアンもより強い魔力を放った。
重なる魔力は黒い閃光を受け止めるものの、単純な出力では及ばない。
(ダメだ!)
「み、んなを……。まもって……!」
このままでは貫かれると、ユリアンが声を荒げる。
直後、フェリーは呼吸もままならない中、ユリアンへと告げた。
自分では無理でも、彼なら出来る。そう信じて。
(――っ! ああ、解っている!)
ユリアンもまた、フェリーの意図を即座に理解した。
邪神の一撃を防ぐ為に放っていた魔力を断つ。
フェリーの肉体は黒い閃光に呑み込まれ、そのまま大地へと打ち付けられた。
悪意による余波が周囲へ伝播しようとした瞬間。
ユリアンは魔力を再び解放する。フェリーではなく、巻き込まれるであろう仲間を余波から護る為に。
炎による壁は檻となり、黒い閃光による衝撃を可能な限り相殺した。
「あり、がと……」
ただ、あくまでそれは外の話である。
逃げ場を失った衝撃は、中心であるフェリーへと襲い掛かる。
それでも彼女は、ユリアンへと礼を述べた。仲間を護ってくれて、ありがとうと。
(無茶な真似を……)
「でも、イリシャさんやみんなを護らなきゃ。それに、邪神も――」
回復までに、どれぐらいの時間が必要だろうか。
まだ戦いは終わっていないのに。起き上がらなくてはならないのに。
傷だらけの肉体は、指一本さえも動かす事を拒絶していた。
「そうだ、シンは――」
仰向けのまま、フェリーは上空に聳える邪神を見上げる。
シンは無事だろうか。無事であって欲しい。無事なはずだ。
言い聞かせるようにして、彼の姿をひたすらに求め続けた。
「なに、あれ……」
そんな中。フェリーは邪神に起きた変化を目の当たりにする。
ファニルの身体と同期したと思われた邪神は、姿を変えようとしている。
悪意の器はその肉体が保てなくなったのか、はたまた変態しようとしているのか。
漆黒の泥となり、ひとつの巨大な球体として纏まろうとしていた。
フェリーにとって最悪だったのは、その周辺を飛び回る一機のマナ・フライトを目撃した事かもしれない。
「シン……!」
明らかに邪神はおかしい。危険だと声を上げたくても、彼には届かない。
泥の塊が波打ったその瞬間。フェリーの視界から、マナ・フライトが姿を消した。
「シン!」
自分の眼の前で。シンは漆黒の泥へと呑み込まれてしまった。
激しく動揺するフェリーへ、球体となった邪神から三度黒い閃光が放たれた。
(そう何度もは、受け止めきれない……!)
精神の乱れているフェリーに代わって、ユリアンが可能な限りの魔力を解放する。
先刻よりは明らかに威力が落ちている。乱発は出来ないのだと理解する一方で、それでも出力にはまだ差があった。
このままフェリーの肉体を傷付けられ続ければ。いくら不老不死と言えど、死なないだけだ。
彼女はファニルが味わった以上の絶望を、その眼へ突き付けられる事となる。
……*
ジリ貧だと思いつつも、ユリアンは必死に邪神からの攻撃に抗い続けていた。
無力感と共に絶望が押し寄せる中。ユリアンが思い浮かべるのは、愛する妻との思い出。
(――イリシャ)
イリシャとの日々は、どれだけの年月が経とうとも色褪せない。
だからずっと感じていたくて、ユリアンは道を誤った。
それでも、彼女を愛した事は決して間違いではないと胸を張って言える。
(フェリー……)
続けざまに、ユリアンはフェリーと過ごした時間に思いを馳せる。
初めはアンダルの中から。そして、彼女自身の中からも。ユリアンはフェリー・ハートニアという人間と誰よりも長い間接してきた。
アンダルやキーランド家の者と共に、彼女は様々なものを学んでいった。
本当は誰よりも捻くれたっておかしくない、そんな人生を歩んできたというのに。
彼女は真っ直ぐに育っていった。注がれた愛情を、そのまま受け取っていた。
勝手に不幸だったと決めつけられる事を、嫌がるほどに。
そんな彼女の笑顔を曇らせたのは、他でもない自分だ。
自分の我欲の為にどれほど愚かな行為を重ねて来たのだと、ユリアンは己を恥じた。
己が感情の赴くまま。愛のままに進んできたというのに、彼女の愛を壊したのは他ならぬ自分だ。
今更、掌を返すなんて身勝手だと思われるかもしれない。それでも、ユリアンはフェリーへ贖罪を果たさなくてはならないと考えていた。
(フェリー。シンはきっと無事だ)
「ほんと……?」
根拠はない。ただ、フェリーを励まさなくてはならないと思った。
彼女の純粋な想いを護らなくてはならないと思った。
そして、彼はシンと交わした約束も護らなくてはならない。
(私は必ずフェリーを護ると、約束をした。シンがいなくては、その証明が出来ないだろう。
全て胸を張ってイリシャと話すために、私たちがシンを救けるんだ)
「……うん」
じりじりと黒い閃光に押され、身が焼ける中。
ユリアンはその先を見据えて会話を続ける。シンやフェリーなら、そうすると思ったからだ。
100年以上もの間。幸せだった過去に捕らわれていた男が、前を向いた。
それはユリアン・リントリィが、己の中で決意を固めた事を意味していた。