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その魔女に祝福を  作者: 晴海翼
終章 祝福
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510.永遠の想い

 空気が揺れる。少年がまた、遊びに来てくれた。

 いつも元気に開かれるその扉を、自分が先に開ければどんな顔をするだろう。

 開けたかったと怒るだろうか。それとも、どうして解ったのかと驚くだろうか。


 どちらにせよ、少年にとってはすぐに忘れてしまう出来事だろう。

 しかし、少女にとっては違う。そんなちょっとした驚き(サプライズ)さえも、大切な記憶。

 手を伸ばせば、彼が居る。愛おしくて堪らない。

 少女の純粋な想いは今も尚、この世界に残っている。


 ……*

 

 光を放つ紅龍王の神剣(インシグニア)を、ビルフレストは漆黒の左腕で受け止める。

 己の全てを込めた渾身の一撃を前に、黒衣が靡く。


「貴様!」


 イルシオンの一撃は、ビルフレストの眉を動かした。

 紅の刀身が、漆黒の腕に僅かではあるが罅を入れる。欠けた腕が舞い、黒曜石のように輝いていた。

 

 喰らい尽くしたが故の限界ではない。単純な一撃による損傷。

 幾度となく繰り広げられた攻防だが、吸収(アブソーブ)を持つ左腕を明確に傷つけられたのはこれが初めてだった。

 

(この男は、必ずここで殺さなくてはならない)


 この瞬間。ビルフレスト・エステレラはイルシオン・ステラリードを明確に脅威だと認定した。

 ここで仕留めなくては、いつか喉元に刃が突き付けられると。

 

「浅いか――」


 一方で傷付けられたビルフレストとは対照的に、イルシオンの顔は尚も険しい。

 己の渾身の一撃でもこの程度なのかという焦りが、顔に色濃く表れる。


 怒りによって揺れる精神も。強い想いによって大地へ根付く足も。

 自分へ振りかかる全てが、今の自分の実力。

 全てを足しても、ビルフレストには及ばないと現実を突きつけられているような気がした。


 だが、それがどうした。

 イルシオンは知った。自分は英雄ではない。かつて英雄と呼ばれた者達とは違うのだと。

 

 故に、今では素直にこう思える。

 自分の手で決着を付けたくとも、叶わないのであれば。

 ビルフレスト・エステレラを倒すのは自分でなくとも構わない。

 誰かが彼を止める礎となれば御の字だ。


 イルシオンを脅威を感じ、彼の命を断とうとするビルフレスト。

 ビルフレストに対する己の感情よりも、世界の為に礎となる事を受け入れたイルシオン。

 

 イルシオン・ステラリードの命の使い方が、若干ではあるが双方の間で重なる。

 だが、それを快く思わない者が居るのも事実ではあった。

 

「イルシオン・ステラリード。貴様には、私に傷付けたことを後悔してもらう」

「ぐあああああっ!」

 

 漆黒の刃に、英雄気取りの少年から血を吸わせなくてはならない。

 刃を構えると同時に、世界を統べる魔剣(ヴェルトスレイヴ)を抑えていたフィアンマの指が宙を舞う。

 龍族(ドラゴン)の悲鳴が、大気を震わせた。


「フィアンマ!」


 惨状を前にして、イルシオンに動揺が走る。

 ビルフレストを抑えてくれていた間に、自分が仕留めていられればという後悔の念が押し寄せる。

 何度も、何度も。ビルフレストへの怒りと嫌悪感は再燃する。他でもない、彼自身の手によって。


 冷静になれ。熱くなるなという方が、無理だった。

 感情を殺すのに精一杯で、却ってビルフレストの剣閃を受け止める余裕がなくなってしまう。

 

 ただ、一方でイルシオンはあるひとつの事だけは頑なに守り続けている。

 怒りは抱いても。頭に血が上っても。憎しみで、戦ってはいけない。

 それはきっと、取り返しのつかない過ちを引き起こすから。

 暴走する自分の想いを受け止めてくれた男が居たからこそ、その一線は越えないで居られた。

 

紅龍王の神剣(インシグニア)、悪い! オレに付き合ってくれ!」


 怒りのボルテージを上げながらも、大切なものは見失わない。

 危うくも、気高い精神状態の中。紅龍王の神剣(インシグニア)は、まだ未成熟な少年へ力を貸す。


「それが貴様の最後の旅路だ」


 反面、ビルフレストからすれば理想的な展開だった。

 酷く揺れ動くイルシオンの精神を掻き乱す手札は、まだいくつもある。

 このまま揺さぶって行けば感情のふり幅は大きくなり、やがて彼を支えきれなくはなるだろう。

 着軸に勝利へ向けての体勢が整いつつある証拠。

 

「この……ッ!」

 

 決して芳しくない状況は、紅龍族の王も認識していた。

 ビルフレストはあの手この手で、イルシオンを揺さぶるだろう。

 見方によればそれは、彼が優しくて大切なものが多い事の証明でもある。

 だから、フィアンマも長らく行動を共にした。どこか放っておけない、弟分のような存在として。

 

 共に居た時間が長くなったからこそ、彼を死なせたくないと強く願う。

 翼を、尾を、指を失いながら。紅龍族の王は、尚も悪意の根源へと立ち向かう。

 そこには龍族(ドラゴン)たる彼自身の意地が含まれている事は、言うまでもない。


「その尻尾は、お前のものじゃない! 返してもらうぞ!」


 残った左手に握り締められているのは、龍族(ドラゴン)の尾。

 ビルフレストが自分から奪ったもの。


 これから激しい剣戟が繰り広げられるだろう。

 少しでも彼の行動を阻害できればという、最後の抵抗。


「ああ。構わないぞ、返してやろう」


 しかし、ビルフレストも横たわる龍族(ドラゴン)が選択するであろう行動は読めていた。

 淀みなく振り下ろされる刃は、ビルフレストから尾を切り離す。

 掌から伝わっていた重みが失われるフィアンマ。次の瞬間には、離された尾と共に自分の鮮血が宙を舞っていた。


「ちく……しょう……」


 紅龍族の王の身は斬り裂かれ、巨大な肉体を再び地面へと沈み込ませる。

 自分では力が足りなかった。イルシオンの援護もままならなかったと、悔しさを滲ませる。


 だが、ビルフレストは尾を斬り離す瞬間。僅かではあるが、意識がフィアンマへ傾いた。

 時間にして数秒程度だろう。だから、フィアンマもそれほど価値を見出せてはいない。

 その数秒こそが、イルシオンとビルフレストの戦いに大きな意味を持つ事をまだ誰も知らなかった。


「フィアンマ!」


 傷付いた身体を圧してまで、フィアンマは自分の攻撃へ繋げようとしてくれた。

 何としても最初の一太刀はビルフレストへ入れなくてはならない。

 イルシオンは最短距離で、紅龍王の神剣(インシグニア)の刃をビルフレストへ向ける。


「無駄だ」


 しかし、紅の刃を止めるのはまたも漆黒の左腕だった。

 一度欠けたとはいえ、断つには至らなかった。


 ならば、後何度かは受け止められるだろう。

 その算段があったからこそ、ビルフレストはフィアンマへ意識を向けていた。


「くそっ!」


 黒曜石のような欠片が、再び宙に舞う。

 初撃こそ受け止められたが、まだ終わってはいない。確実に削れてはいる。

 ビルフレストが世界を統べる魔剣(ヴェルトスレイヴ)を構えるまでの時間が、イルシオンにとっての時間制限(リミット)

 

「一度でダメなら、何度でもだ!」

 

 自分と彼の差を少しでも埋めるべく。後へ連なる者が少しでも楽になるように。

 イルシオンは再び紅龍王の神剣(インシグニア)による剣閃を放とうとした。


「無駄だと言っている」

「かは……っ」


 尤も。悪意の根源が彼の行いを見過ごしてくれるかどうかは別問題となる。

 次の一撃を放つべく、刃を引いた瞬間。イルシオンの身体に、稲妻が駆け巡った。

 それが雷の魔術を得意とするラヴィーヌのものだと理解したのは、自分の皮膚が焼け爛れている事と気付いた時だった。

 

「待、て……」


 イルシオンの動きが止まる。後ろへ下がったビルフレストとの距離が開く。

 紅龍王の神剣(インシグニア)の刃を届けるには、追わなくてはならない。

 世界を統べる魔剣(ヴェルトスレイヴ)が血を吸うであろう、剣の結界へ飛び込まなくてはならない。


 魔剣だけではない。離れていれば、魔術が襲い掛かってくる。

 近付きすぎれば、左腕による吸収(アブソーブ)も待ち受けているだろう。

 もうフィアンマの援護も望めない。イルシオンにとって、千載一遇の好機は失われてしまっていた。


 己の全てを注いでも、まだこの男(ビルフレスト)には届かない。

 心が揺らぐ。恐怖心が、脚を竦ませる。

 

 それでも。イルシオンの瞳は決して光を失ってはいない。

 ここまで繋いでくれた、自分を生かしてくれた全ての者を侮辱するような真似だけは、決してしないと誓ったから。


「まだ気持ちは萎えていないか」


 眼に宿る光を眺めながら、ビルフレストは彼の気迫を称える。

 一方で、悪意の根源たる男にひとつの悪巧みが脳裏を過った。

 

 深い絶望を与えながら、イルシオンの命を奪おうという悪趣味極まりないもの。

 彼の断末魔さえも、邪神の糧にしようと考えた故の行動だった。


「ならば、貴様に相応しい『死』の形をくれてやろう」


 ビルフレストは左腕を掲げる。

 魔力によって集められた風が、彼の腕へと収束していく。

 量だけではない。密度も、通常の魔力とは比べ物にならない。


「ビルフレスト、貴様……!」


 紅の髪を風に泳がせながら、イルシオンは奥歯を噛みしめた。

 彼がこの状況で敢えて風の魔術を選択した理由を、察したからだ。


「そう。この魔力操作はクレシア・エトワールのものだ。

 貴様にとっては、唯一無二の存在だ。本望だろう」


 流石は察しがいいと、ビルフレストは口角を上げた。

 勿論、肯定をする事によって更に怨嗟を引き出そうという狙いもある。

 元々、彼は強い感情を持つ人間だ。自分を苦しめたのだから、相応の対価は回収しなくては割に合わない。


「キッ……サマァアアアアアァァァァァ!」


 案の定というべきか。イルシオンへの効果は覿面だった。

 傷だらけの身体に鞭を打ち、駆け引きもなにもなく神剣を構えたまま突進するイルシオン。

 彼に残された選択は、最早相打ち狙いの特攻しか残っていない。全く以て、操りやすい存在で在り続けてくれた。


 これで脅威のひとつは散る。自分も手負いではあるが、ミスリアも既に満身創痍だ。

 邪神の力を以て蹂躙すれば、お釣りは返ってくるだろう。


「さらばだ」


 手始めに自分へ迫ろうとした少年の命を奪うべく、ビルフレストは左腕に集めた風の塊を放つ。

 彼の最も大切だった存在。クレシア・エトワールから奪った力によって創られたそれはイルシオンの元へ――。


 ――届く事はなかった。


「ぐっ――!?」

 

 風の塊がビルフレストの指先から離れようとした瞬間。

 漆黒の左腕が、内側から崩壊を始める。


「何事だ!?」

「な、なんだ……!?」


 ビルフレスト本人も、対面しているイルシオンも状況が理解できていない。

 ただひとつ判るのは漆黒の左腕の内から、強い風が吹き荒れている事だけだった。


「こ、れは……!」


 ビルフレストは己の左腕を抑えつけるが、制御が利かない。

 二度、紅龍王の神剣(インシグニア)の剣閃を左腕で受け止めた。

 

 確かに、その際に傷は負った。だが、それだけだ。

 完全に破壊される要素ではない。現に、雷の魔術は問題なく放てている。


「この……!」


 必死に魔力の暴走を抑えるビルフレストだが、勢いは止まらない。

 吹き荒れる風は漆黒の左腕を内側から破壊していく。小さな罅が腕全体へと広がる亀裂となっていく。

 風の通り道が増え、更に風は侵食をしていくという負の連鎖。


「ぐ……! 鎮まれと言っている!」


 暴れる左腕と抗う中。黒曜石のように美しい破片が、風に乗って宙を舞う。

 その中で一際目を引く輝きが、イルシオンの眼は捕らえた。


「あれは――」


 宙を舞う光。その正体は、指輪だった。

 小さくとも丁寧に彫られた紋様を、イルシオンは知っている。


「クレ……シア……」

 

 クレシアが自分へ贈ってくれた装飾品(アクセサリ)と、同等の指輪。

 それを見た時、少年は全てを悟った。


 ビルフレスト・エステレラは、彼女の痕跡を全て喰らい尽くした。

 残された両腕さえも、自分の眼の前で。その指には、指輪がつけられていたのだろう。

 自分に隠して、同じものを彼女は用意していたのだ。

 

 三日月島で我を失った自分は、クレシアが遺してくれた装飾品(アクセサリ)によって命を救われている。

 生前残したノートには、こうも記されていた。


 ――イルのピンチを、絶対に護ってみせる。ずっと、永遠に。


 クレシアが魔術付与(エンチャント)に込めた、強い想い。

 それはビルフレストに喰われてからも、失われる事は無かった。

 彼女は死して尚、自分を護ってくれていた。


 ……*

 

「クレシア……」


 風を暴発させるビルフレストを遠巻きに眺めながら、ヴァレリアは妹の名を呟いた。

 イルシオンほど正確に状況を把握している訳ではないが、そうとしか思えなかったのだ。

 妹がどれだけ彼を大切に想っていたかは、よく知っていたから。


 ……*


「ありがとう、クレシア」


 感謝の言葉を漏らし、イルシオンは一歩ずつビルフレストとの距離を詰める。

 吹き荒れているはず風は、少年を優しく撫でるに留める。

 どこか懐かしさを感じながら、イルシオンは下唇を噛んだ。


「貴様、何を……!」


 尚も砕け続ける左腕を抑えながら、ビルフレストはイルシオンを見上げた。

 見下していた相手を見上げるという屈辱を顔に滲ませているが、イルシオンはそっと受け流していた。


「オレは何もしていない。クレシアだ、クレシアが不甲斐無いオレを、護ってくれたんだ」


 深い後悔と感謝。それよりも深い愛情を胸に秘めながら。

 イルシオンは紅龍王の神剣(インシグニア)を天に掲げる。舞い上がる風は炎をより強く燃え盛らせる。

 流石のビルフレストも、理解した。己の首元に、死神の鎌が突き付けられている事を。

 

「ま――」

「待つものか!」


 ビルフレストが言葉を放つよりも先に、イルシオンは刃を振り下ろす。

 紅龍王の神剣(インシグニア)は咄嗟に構えられた世界を統べる魔剣(ヴェルトスレイヴ)を折り、その勢いのままビルフレストの肉体を灼き斬った。


「おの、れ……。このまま……では……」


 よろよろと覚束ない足取りで、後ずさりをするビルフレスト。

 まだ終わっていない。少しでも遠く、イルシオンから離れなくては。

 そう考えつつも、身体は彼の意思とは裏腹に歩みを止める。

 大きく開いた大地の亀裂へ、ビルフレスト・エステレラは崩れるように沈んでいく。


「やった、のか……?」


 横たわったままその光景を眺めていたフィアンマは、驚きで目を丸くする。

 イルシオンを労ってやりたいが、生憎身体が動きそうにもない。

 

「イル……」


 ヴァレリアもまた、同様だった。

 正確に言えば、彼女の場合は声を掛けるのを躊躇った。

 残されたクレシアの余韻は、彼のものであるべきだと考えたから。


 魔術付与(エンチャント)から放たれた風が、ゆっくりと解けていく。

 クレシアの痕跡が、この世界から消えようとしている証だった。

 

「クレシア、待ってくれ!」


 本人ではないと理解しつつも、彼女の名を叫ばずには居られなかった。

 風が失われていく中。イルシオンの掌に、彼女が造った指輪だけが残っている。


「クレシア……っ」

 

 人目を憚らず、イルシオンは大粒の涙を流し続けた。掌に乗った指輪が、涙で埋もれていく。

 彼女の残滓がイルシオンの想いに反応したかどうかは定かではない。

 ただ、クレシア・エトワールは確かに存在した。その証を、少年は力の限り握り締めていた。

 

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