506.喰らい尽くすもの
アメリア・フォスターは選択を迫られていた。
このままビルフレストと戦うイルシオン達の援護を行うべきか、それとも邪神を止めようとするシン達に加勢するべきか。
共にこの世界の命運を握る戦い。両方に勝たずして、平和は訪れない。
慎重に状況を見極めようとする彼女だったが、強制的に第三の選択肢を選ばされる事となる。
「これは……」
蠢く悪意を感じ取ったアメリアは、後ろを振り返る。
碧い眼に映し出されたのは、斬り伏せたはずの『暴食』が小刻みに震える姿だった。
「邪神の分体が……」
異変が起きているのは漆黒に染まった肉体だけではない。
消失を持つ左腕も。上顎から頭の先も。ビルフレストの持つ悪意に呼応している。
やがてそれらは集まっていき、『暴食』の形そのものを造り替えていく。
大きな、大きな。向こう側が見えなくなるほどに黒く濁った巨大な球体が、アメリアの前へと立ち塞がる。
その変化は、『暴食』に何を齎すのかはわからない。
ただ、放っておく訳にはいかない。それだけは、確かだった。
「一体何を……――ッ!?」
状況的に、『暴食』の相手を出来るのは自分しか残っていない。
邪神やビルフレストの事を頭の片隅へと追いやり、アメリアは蒼龍王の神剣を構える。
如何なる状況にも対応できるように構えたつもりだったが、『暴食』は彼女を嘲笑う。
巨大な球体が肥大化していく。膨張する姿は、まるで水袋のようだった。
直後。『暴食』の身体が大きく弾ける。横殴りの雨のように、黒い雫が周囲へと拡散された。
「自爆!? いえ、そんなはずは!」
脳裏に過った自爆という選択肢を、アメリア自身が即座に否定する。
もしも自爆を狙っているのであれば、有効となる場面はいくらでもあった。
だから、この弾ける雫そのものに意味があるはず。
そう判断したアメリアは、自分へ襲い掛かる雫を蒼龍王の神剣で断ち斬った。
蒼い刀身が漆黒の雫に振れ、切り裂いていく。
液体に触れたとは思えない奇妙な感覚だった。
自分へ襲い掛かる雫を蒼龍王の神剣で防ぐアメリア。
接触を拒まれた雫は、亀裂の入った地面へと埋もれていく。
次の瞬間。アメリアは思い知る事となる。どうして『暴食』が、このような形に変化したのかを。
「これ……は……っ!」
卵が腐ったような臭いと共に、自分を支える大地が不安定になっていくのを感じた。
何が原因であるかは明白で、足元を取られているという事実がアメリアを避難させる。
大地に巨大な虚が生まれたのは、彼女が大地を蹴った直後の事だった。
「全てを、喰らい尽くす……」
消失。『暴食』が左腕に備えていた能力を思い浮かべるのは、必然だった。
『暴食』はビルフレストの悪意を以て、この場で進化してみせたのだ。
より多くのモノを喰らい尽くす、さながら消化液ともいうべき形態に。
(邪神の分体を皆に近付けるわけには……)
まずい。アメリアが最初に抱いた感想だった。
肉体の全てから消失が放たれる点もだが、液体のような性質を持っている事が何よりもまずい。
現に『暴食』は大地へ浸み込んで、地面そのものを喰らい尽くして見せた。
これまでの激闘により荒廃した大地には、無数の溝が存在している。
いくらアメリアと言えど、枝分かれされてしまえばその全てを追う事は叶わない。
大地に入った亀裂が伸びる先には、妹達が居る。
オリヴィアだけではない。その力を全て出し切った仲間達に、もはや抗う術はない。
ビルフレストと対峙しているイルシオン達だってそうだ。
不意を突かれてしまえば、彼らといえどひとたまりもない。
そんな結末は認められない。何としても自分が食い止めなくてはならない。
一瞬にして追い詰められたアメリアの額から、汗が伝う。
……*
「……アメリア?」
自分達とは違う方角へ視線を送るアメリアの姿に、ヴァレリアは訝しむ。
先刻までビルフレストとの戦いにどう介入するべきかと、機を窺っていたはずだというのに。
彼女の性格からして、怖気づくはずがない。
もっと優先しなくてはならないもの。緊急事態が発生したと理解するのに、時間は要さなかった。
(どうする? アタシは、どうするべきだ?)
脇腹の激痛は、確実にヴァレリアを『死』へ近付けていく。
それでも、まだ彼女の眼から光は失われていない。
血がべったりと塗りたくられ、赤くなった黄龍王の神剣の柄を握り締めながら、自分に出来る事を追い求め続ける。
(イル……は……)
ふと脳裏に浮かんだのは、妹が思いを寄せていた少年。
自分と同じ心の傷を負った彼は、今も懸命に紅の刀身を振り続けている。
「最早、貴様に構っている暇はない。そこをどいてもらおう」
漆黒の魔剣で応戦しながら、ビルフレストは呟いた。
彼の言葉に偽りはない。邪神の左腕が消滅し、尚も天空では激しい戦いが繰り広げられている。
あの日から幾度となく自分達の障害で在り続けた青年と少女が、最後まで立ちはだかる。
もう次はない。ここで自分は、絶対的な勝利を手にする。そうでなくては、世界を破壊など出来るはずもない。
彼もまた、邪神の存在に昂っていた。
圧倒的な破壊の力も、『暴食』に齎された進化も。
他の駒など当てにしてはいけないという証左ではないか。
それで良かった。世界を破壊する権利を、自分以外の者が持つなど認められない。
自分が生殺与奪の権を握る強者である為にも、ビルフレストは刃を振るう。
吸った血の分だけ。向けられた怨嗟の数だけ。邪神の糧になる事を彼は知っているから。
「どくはずがないだろう! 貴様は、絶対にオレが止めると何度も言っている!」
「イルシオン・ステラリード。威勢だけでは、私は越えられない」
一歩も引かないイルシオンに辟易しながら、ビルフレストは刃を重ねる。
途中、フィアンマの介入が入るも彼の脅威では無かった。
火龍が全力を出せば、自分よりもイルシオンが無事では済まない。
出力を下げざるを得ないと知っているからこそ、ビルフレストは余裕で居られた。
ただ、この炎そのものには利用価値がある。
ビルフレストは左手を掲げ、フィアンマの放つ炎を呑み込んだ。
「炎を……ッ」
距離を極限まで詰めていたイルシオンの身体が強張る。
吸収が炎を喰らい尽くす。その意味を彼は、誰よりも知っているからだ。
「この距離ならば、躱せまい」
「イルシオン!」
そのまま左腕から放たれるのは、フィアンマの息吹と同質の炎だった。
威力を抑えられているとはいえ、全くの無傷で済むはずがない。直撃したイルシオンに、隙は必ず生まれる。
焦がした身を斬るのも、喰らうのもビルフレストの自由。
強いて言えば、喰らう方がいい。彼の力も取り込めば、自分はより高みへと昇る。
「今度こそ、貴様もクレシア・エトワールと同じところへ送ってやろう」
ビルフレストは炎を放った左腕をそのまま突き出す。
だが、感触が肉体のそれではない。炎の奥で触れたのはイルシオンではなく、紅の光を灯す刃だった。
炎に包まれ、身を焦がしながらも。彼の瞳に迷いは無い。
「お前はいつもそうだ。何度も、何度も。オレの神経を逆撫でするような言葉ばかり並べて。
ああ、そうだ。実際、どれだけ心を落ち着けようとしても。オレはお前を許せない。
でも、それ以上に自分が許せない。ここでお前を止めないと、クレシアの命が無駄になる……!」
「イル……」
怒りと後悔の向こう側で。イルシオンがクレシアにしてあげられる、唯一の事。
彼女の行動が正しいものだと証明するには、世界を救わなくてはならない。
その為ならイルシオン・ステラリードの精神はあらゆるものを凌駕する。
懺悔と祈り。彼が持つ生来の優しさを認め、浄化の神剣はイルシオンへ力を貸した。
飛び散る火花はビルフレストの底知れぬ悪意を、根本から断ち切ろうとする祈りの欠片のようにも思えた。