502.壁の向こうを求めて
ずっと求めていた、自分に手を差し伸べてくれた青年が現れた。
求めた者の登場に、邪神の心はこれ以上ない程に大きく揺さぶられる。
予感。いや、期待はしていた。
悪意と呪詛。負の感情が流れ込む中で、初めに光を与えてくれたのは彼だった。
彼の残滓を持つ存在が続々と集まる中、いずれは本人にも逢えるのではないかと考える。
あの暖かさは邪神が生まれてきてからこれまでで、一番の宝物だった。
いくら心が黒く醜く染められようとも、それだけは失わないように守り続けてきた。
再び巡り合えた時。今度は分体ではなく自分自身に、その温もりを分けて欲しかった。
「――――――ッ!!!」
ミスリア中に轟くのではないかという咆哮が、大気を揺らす。
覆われた曇天さえも、邪神の気を損ねないようにと散り散りに分かれていく。
大口を開いたかの如く、僅かに差し込むだけだった光が大地を照らした。
それでもまだ、足りない。見上げる形となった邪神の顔は影に隠れている。
心の葛藤を、現しているかのように。
「いいわ、すごくいい! その意気よ。鉄の塊が飛ぼうとも、虫であることには変わりないわ!
撃ち落としていいし、はたき落してもいい。坊やの好きなように、壊してごらんなさい」
雲さえも散らす咆哮を、葛藤ではなく気合の現れだと受け取ったのはファニル。
彼女にとって重要なのは、邪神の本心などではない。この巨大な力を以て、何を成し遂げるかにある。
そして、邪神もまた彼女の願いを拒めはしない。
自らに刻まれた使命が、存在意義が。彼女の想いを肯定をしなければならないと訴えてくる。
苦悩しながらも邪神は、だらんと垂れた腕を持ち上げる。
「シン!」
「ああ」
背中越しに、フェリーが邪神の異変に気付いた。
間違いなく自分の意思ではない行動だと、彼女の眼にはそう映っていた。
シンは首を小さく縦に振り、彼女の指摘を肯定する。
僅かに見せた躊躇いこそが、シンにとっての希望でもあるから。
「必ず、俺たちが救ってみせる……!」
空白の島での呼び掛けは決して無駄ではなかった。
まだ間に合うというのは確信というよりは、願望に近い。
ただ、誓いでもあった。
邪神という役割に染まらず、純粋な心を持って生まれた『神』の為にも。
自分の我儘を叶えるべく、ここまで支えてくれた仲間の為にも。
何より、自分自身の為にも。
邪神は、自分が必ず救う。
決意と共に、シンはマナ・フライトと共に大空を駆ける。
「今よ、撃ち落としてしまいなさい」
ファニルもまた、シン・キーランドとフェリー・ハートニアを警戒していた。
何も持たない青年と、無尽蔵の魔力を持つ魔女。
対照的な二人によって、自分達の計画は大きく狂わされた。
本能で理解をしている。
仕留めなくては、その身が朽ち果てるまで立ちはだかり続けるであろうと。
ファニルの命令に従い、持ち上げられた漆黒の腕はまるで橋のように長く感じられた。
五つに分かれた先端から、大地すらも破壊する漆黒の閃光が放たれる。
狙いはシン達の乗るマナ・フライト。両の手から放出された黒い閃光は、天空へ向かって放たれた。
「――ッ!!」
マナ・フライトを巧みに操り、閃光を躱すシン。
ただ、ぶっつけ本番の操縦であるが故に思うように操れない。
旋回をする度に自分へ襲い掛かる空気の壁。初めての体験に、シンの余裕が奪われていく。
「くそっ!」
それでも、シンは懸命に魔導砲の弾倉を機体へと擦りつけた。
マナ・フライトには搭載されている魔導石・廻と、フェリーから供給された潤沢な魔力がある。
恐らくはそれさえも、マレットの想定内だったのだろう。充填するだけの下地は、既に用意されている。
せめてひとつでも指先の動きを止められればと、シンは引鉄を引く。
余計な干渉が入るのを防ぐ為、弾丸は最速を誇る金色の稲妻が選ばれた。
大空を誰よりも速く駆け抜ける一筋の稲妻。
だが、金色の稲妻は邪神に届かない。
その手前で、魔力によって創られた障壁に阻まれる事となる。
金色の稲妻の光が役目を終えたかのように消える傍ら、不敵な笑みを浮かべるファニルの姿が印象的だった。
「シンくん! さっきから、ずっとそうなの!
邪神との間に、魔力の壁がある!」
「魔力の壁……」
地面から、リタの叫ぶ声が聴こえる。
このままでは、邪神の元へは辿り着けない。
魔導砲で動きを止められなかった事よりも、その事実の方がシンにとっては問題だった。
「オリヴィア。あれが邪神の能力か?」
そんな中。同じくリタの声を耳にしたマレットがオリヴィアへ問う。
悪意と魔力によって生まれた魔力の壁。あらゆるものを拒絶する絶対防御の見解を、彼女は求めていた。
「いえ。わたしの見解では違うと思います。
邪神は邪神で、きっと抗っているんです」
オリヴィアはアルマから聞いた話と、自らが考え出した結論を話した。
邪神が本心では、争いを拒んでいるに違いないと。
「ふむ」
オリヴィアの見解を一通り聞いたマレットは、指先で顎をなぞる。
シンにとっては朗報だが、厄介な状況に変わりはない。
その障壁を突破しなくては、彼が邪神の元へは辿り着けないのだから。
だが、マレットに焦りはない。
邪神がまさか防御に全力を注ぐとは思っていなかったが、本気で戦う状況は想定していたからだ。
その為の武器も、既にシンへと託されている。
「テラン、ピース。準備はいいな?」
「勿論さ」
「いつでもいける」
「だよな」
テランもピースも、当然だと言わんばかりに首を縦に振る。
解り切っていた答えを受け取り、マレットは白い歯を見せる。
彼らも戦いに備えて、準備をしてくれていた。
マナ・フライトに搭載された最大の武器は、彼らの手によって解放される。
「シン! マナ・フライトに搭載されている大砲を使え!
それなら、そんな壁突破できるはずだ!」
マレットからシンへ、大声で伝えられるのはマナ・フライトに搭載された武器。
魔導羽砲を使用しろという呼び掛けだった。
「大砲を――」
事前にマレットから説明は受けている。
マナ・フライトに搭載された唯一にして最大の武器。
魔導羽砲は強力な威力を秘めた武器だと。
一方で、使用にはいくつか制限があるとも聞かされた。
まずは莫大な魔力を消費するが故に、マナ・フライトが一時的に飛行能力を著しく弱めるという事。
そしてもうひとつ。放てるのは一発限りという点だ。
これは複数の理由が絡んでいる。
マナ・フライトの魔力を殆ど消耗するという点。
いくら魔術金属と魔硬金属の合金と言えど、その出力に砲身が耐えられないという点。
そして、これを放つにはテランとピースの協力が必要不可欠という点だった。
特にテランとピースに関しては、この一撃で魔力のほぼ全てを使い果たすだろうとマレットに聞かされていた。
故に、魔導羽砲による一撃は何が何でも外せない。
自分独りが危険を背負うのとは訳が違う。いくらシンと言えど、重圧を感じずには居られなかった。
問題は味方に限った話ではない。
邪神もファニルの命令に従い、攻撃の手を一切緩めてはくれない。
シンも黒い閃光を躱す事に精一杯で、外せない一撃を放つだけの準備が整えられない。
(どうする? どこで撃てばいい?)
縦横無尽に空を駆け抜ける一方で、じりじりと真綿で首を絞めつけられているような感覚がシンへと襲い掛かる。
避け続けるにも限度がある。いつかはこの均衡が崩れてしまうのを、シン自身が一番理解している。
邪神の元へ向かうには、どこかで攻撃に転化しなくてはならない。
極限まで集中した中、シンはどうするべきかを考え続けていた。
「シン……」
そんな彼の心境を、フェリーは背中から感じ取っていた。
強張っていく身体。滲む汗は、緊張の証。
自分に出来る事はないかと必死に考える中、彼女に語り掛ける者が居た。
(フェリー)
これまで、ずっとフェリーの心の内に潜み続けていた存在。
ユリアン・リントリィが、口を開く。
「ユリアンさん?」
正直に言うと、フェリーにユリアンと話す余裕は無かった。
自分に出来るのは魔力の供給だけだとはいえ、何かあれば自分がシンを護らなくてはならないと考えていたからだ。
だが、ユリアンの提案はそんなフェリーの考えを覆すものとなる。
(このままでは、シンが摩耗するだけだ。突破口を、私たちで開こう)
「でも、どうやって……?」
ユリアンの言っている言葉の意味は解る。自分だってそうしたい。
けれど、肝心の手段を持ち合わせていない。
(私に考えがある。けれど、この肉体はあくまで君のものだ。
実行するかどうかは、君が判断をしてくれればいい)
そう告げたユリアンは、自分の考えをフェリーへと伝えるが、その内容にフェリーは驚きを隠せない。
彼が心の内で語り掛けてくれているから良かったものの、きっとシンは了承しないであろう内容だったから。
「っ!」
(シン……)
懸命にマナ・フライトを操り、邪神の攻撃を凌ぎ続けるシン。
段々と余裕が失われているのが、背中越しに伝わってくる。
「案外しぶといのね。私はあなたにそこまでの余興は求めていないわ」
邪神の肩では今も尚、ファニルが自分達を墜とすべく命令を下す。
どちらの精魂が先に尽きるかは明白だった。
この状況を変えられるとすれば、自分しかいない。
ユリアンの目論見通りに行けば、シンが魔導羽砲を放つだけの時間が稼げる。
フェリーを決断させるだけの材料は、既に出揃っていた。
「ユリアンさん。ホントに、任せるからね」
(ああ、信じて欲しい。このままでは、いずれイリシャにも被害が及ぶ。全力で事に当たろう)
それは、ある意味では何よりも信用できる言葉だった。
彼もまた、自分の最も大切なものを護りたい。自分と、何も変わらないのだ。
「じゃあ、任せるからね」
「……フェリー?」
シンは後ろを振り向くまでもなく、違和感を覚える。
自分の背中でフェリーがぼそぼそと喋っていた事には気付いていたが、会話までは聴こえていない。
だからこそ、彼女の取った行動には驚かされた。
次の瞬間。自分の腰に回された腕の力が緩むのをシンは感じ取った。
どうにかしなくてはならないが、マナ・フライトの操縦桿からは手が離せない。
決断するまでの時間が与えられる事なく、フェリーの身体は空へと投げ出される。
「フェリー!?」
流石のシンも、突拍子の無い行動に動揺が走る。
危険を承知で彼女の回収を試みようとしたシンだったが、眼前の光景に思わず目柄が奪われる。
フェリーは決して、地面へ墜落をした訳ではない。
背中から広がる炎が、翼のように彼女を空中へ留めている。
(さあ、行こう。フェリー)
彼女の中に潜み続けた、不老不死の正体。
ユリアン・リントリィが『魂』の旅で得た魔力と知識を存分に振舞った結果。
それは壁を壊す為の、新たな力となって現世へと姿を現した。