499.身を喰らい、心をも喰らう
重たい荷物を投げ棄てたかのように、ゴトリという鈍い音が鳴る。
自らの悪意を分けた分身。
『暴食』の身体が断たれた事を、適合者であるビルフレストは即座に感じ取っていた。
(まさか。『暴食』が――)
自らの悪意を取り込んだ、言わば分身がたった一人を前に屈してしまう。
俄かには受け入れ難かった。いや、認められなかった。
しかし、視界の端に映る漆黒の肉体は否が応でも現実を突きつける。
悪意を断つ神剣によって、間違いなく斬り伏せられたのだと。
「ビルフレスト! アンタが何を企んでいたとしても、ここまでだ!」
黒衣の男の眉が動く。瞬きによって視界が一瞬遮られる。
一秒にも満たない時間。持ち上げられた瞼の先に映るヴァレリアの姿は、先刻のものより大きくなっていた。
ヴァレリアはこの一瞬に、勝機を見出していた。
彼女は気付いていたのだ。戦況を視界に収めようと視線を流しただけのビルフレストが、顔を強張らせるのを。
理由はすぐに解った。
アメリアが、邪神の分体である『暴食』に一太刀を入れたからだ。
いくらアメリアが手練れと言えど、単独で邪神の分体を圧倒するとは思ってもみなかったに違いない。
本人が動揺を自覚するよりも先に、流れを完全に引き寄せる。
自身も負傷しているが故に、長期戦は好ましくない。見えた希望を、むざむざと手放す性格でもない。
ヴァレリア・エトワール決死の猛攻が、ビルフレストへと襲い掛かる。
「ヴァレリアの言う通りだ! お前の仲間は倒れている、いい加減に諦めろ!」
紅龍王も同様に、ヴァレリアが創り出した状況に乗った。
しなる尾が、逃げ道を奪うかのように弧を描く。
避ける事は叶わない。必ずどちらかの攻撃は当たる。
そんな淡い期待は、ほんの数秒のまやかしに終わってしまった。
「――煩い羽虫たちだ」
苛立ちを露わにしながら、ビルフレストはぽつりと呟く。
彼にとって、今この場で挟撃を行うヴァレリアとフィアンマに左程の興味はない。
隙を突いた攻撃でさえも、脅威となり得なかった。
「なにっ!?」
黄龍王の神剣の刃を、いとも容易く世界を統べる魔剣で受け止める。
全力を込めた突撃により強い衝撃が発生したにも関わらず、彼の足は一歩もその場を動いていない。
まるで大木に攻撃を加えたかのような感触を前に、ヴァレリアの背筋が凍った。
「ヴァレリア!」
一瞬ではあるが、ヴァレリアとビルフレストの距離が限りなくゼロへと近付く。
それがどれだけ危険であるかを、翼を捥がれたフィアンマは理解している。
彼をヴァレリアから引き離すべく、フィアンマは鞭のように振るう尾へ力を込めた。
「蜥蜴風情が、この程度で怯むと思うな」
だが、ビルフレストはその場を一歩も動かない。
吸収を持つ漆黒の左手が、フィアンマの尾を強引に掴んだ。
魔力による防御を含んでいるにも関わらず。
悪意は火龍の尾を咀嚼するかのように握り潰した。
「――ぐうううっ!」
フィアンマに激痛が走る。尾の神経を無理矢理引っこ抜かれたかのような感覚だった。
人間よりも膨大な魔力を持つ龍族さえも、突き破る程の悪意。
むしろ、龍族だったからこそ彼の掌分だけで済んだのかもしれない。
自らの尾。その先端を喰らい尽くされながら、フィアンマは底知れぬ悪意に慄いていた。
「深手を負った貴様では、この程度が限界だ。大人しく退くべきだったな」
火龍の尾から漏れる血とは別に、ヴァレリアは大地に赤い染みを作っている。
脇腹から滴り落ちる雫に冷たい視線を送りながら、ビルフレストは彼女と顔を見合わせた。
彼が敵を喰らうのは左手のみではない。底知れぬ闇を抱えた視線で、心までも喰らい尽くす。
「……くそっ」
目が合った瞬間。ヴァレリアは己の力が及ばないのだと悟ってしまった。
剣を握り締めた力は、ほぼ気力によるもの。心で負けてしまえば、自然と弱まっていく。
漆黒の魔剣により黄龍王の神剣が弾かれたのは、直後の事だった。
(すまない、みんな)
次の瞬間。世界を統べる魔剣による袈裟斬りが更に鮮血を散らせる。
返り血を口元に浴びたビルフレストが、舌を這わせる。
常に冷徹に振舞う彼にしては珍しい行動だった。
それほどまでに、彼は見せつけたかったのだ。自らの方が『上』だと、判り易い形で。
「さらばだ。ヴァレリア・エトワール」
ビルフレストはより確実にヴァレリアの命を絶つべく、彼女の身体を貫こうとする。
力の差を誇示し、戦意を失わせる目的もあった。その為の生贄として選ばれたのが、ヴァレリア。
「させ、る……かぁ!!」
また眼の前で。この男のせいで。大切な人の命が散る。
そんな事は許さないと、イルシオンが吠える。
大切な存在を護りたいという純粋な想いに、焔と清浄の神は応える。
紅龍王の神剣から放たれた炎はヴァレリアとフィアンマを保護するかの如く、高い壁となりビルフレストを阻んだ。
「フィアンマ、下がってくれ!」
「あ、ああ」
炎で分断された隙を以て、フィアンマはその身を引かせる。
翼だけではなく尾を捥がれた屈辱に耐えながらも、紅龍族の王は勝利の可能性を繋ごうとしていた。
その隙にイルシオンは、ヴァレリアの救出へと向かう。
指先は動いていた。身体は大地へ横たわる事を拒絶していた。
まだ死んでいない。間に合うはずだ。
大腿がはち切れようとも、必ず救ける。
イルシオンはただそれだけを考えて、ビルフレストとヴァレリアの間へと滑り込もうとしていた。
「そう動くであろうことは、予測していた」
しかし、ビルフレストは冷静だった。彼は片時も、イルシオンの存在を忘れてはいなかった。
それは左腕が喰らい付くしたクレシアの想いが無意識にそうさせていたのかもしれない。
どちらにせよ。
コーネリア・リィンカーウェルが息絶えた事により、ビルフレストは卓越した魔力の操作を取り戻していた。
尤も。邪神が暴れ回る事により魔力は再び乱れが生じている。
彼が操れるのはあくまで自分の周辺のみだが、コーネリアと違い邪神はまだ御しやすい。
問題はないと判断する彼を証明するかのように、紅龍王の神剣が生み出した炎の壁がかき消される。
「炎が……!」
魔力の。更には空気の動きを止め、一時的に真空を創り出す。
酸素の供給が断たれた炎は、息絶えるようにして消えていく。
深手を負ったヴァレリアが、再びビルフレストの眼前へと晒された。
次の瞬間。ビルフレストとイルシオンの目が合う。
それは今から絶望を与えるという合図でもあった。
「くっ、そおおおおお!」
世界を統べる魔剣を構えるビルフレストを前にして、イルシオンは一層強く大地を蹴った。
彼が得意とするのは、淀みのない魔力操作。己の魔力を前進に費やしても、まだ届かない。
代わりに自分が斬られてもいい。間に合ってくれ。
切なる願いを抱きながらも、彼の身体は加速する限界を迎えていた。
魔術を放つ余裕もない。仮に放ったとしても、間に合わない。
自分では何も護れないと言われているようだった。
無力感に苛まれるイルシオン。嘲笑うかのように口角を上げるビルフレスト。
脳裏に浮かんだ光景が現実のものとなるまで、数瞬。
イルシオンに未来は変えられない。心の中が、絶望の渦に取り込まれていく。
刹那。指の弾く音がその全てを否定する。
この音は知っている。子供の頃から何度も、何度も聞いた音。格好いいと思って、真似をした事もある。
詠唱破棄をする為。即座に魔術を行使する為。自らの条件者反射として組み込まれた動作。
放たれた魔術はアメリア・フォスターの、水の牢獄。
「アメリア・フォスター……!」
「そう何度も、好き勝手にはやらせませんよ」
水の輪はビルフレストの身体を拘束する。
ビルフレストは即座に探知の派生である風を操り、水の牢獄を内側から破壊する。
時間にして二、三秒の出来事。ただそれは、命を繋ぐには十分な時間だった。
ヴァレリアとビルフレストの間を割るかの如く割り込んだイルシオンは、紅の刃を斬り上げる。
漆黒の左手で刃を受け止めたビルフレストは、そのまま彼の脳天へ自らの魔剣を振り下ろすつもりでいた。
「ぐっ……!」
だが、浄化の神剣がそれを許さない。
悪意を振り払う一撃は、漆黒の左手に衝撃を走らせる。
「ビルフレスト! もうお前に、お前達にオレの大切なものは何も奪わせない!」
「吠えるだけならば、誰にでも出来る」
身体の芯から痺れるような一撃を受けながら、ビルフレストは紅髪の少年を見下ろした。
顔色こそ変えてはいないが、イルシオン・ステラリードを明確に危険と感じたのは、この時が初めてだったのかもしれない。