498.悪意の器
「レイバーンさん、ありがとうございます。もう大丈夫です」
「む、そうか」
頬を撫でる風は鋭く、髪が乱れる事を厭わなかった。
これ以上はリタに申し訳ないと申し出たオリヴィアはレイバーンの腕の中から離れ、自らの足で大地を踏みしめる。
「オリヴィアちゃん!」
「リタさん。それとオルガルさんも、ありがとうございました」
自分達の元へ駆け寄るリタの声が聴こえる。
彼女やクスタリム渓谷から帰還したレイバーンだけではない。
マギアからの来訪者にも、オリヴィアは感謝の意思を示した。
「いえ。間に合ってよかったです」
「若に感謝するのだぞ、小娘」
「分かってますって、おじいさん」
少し控えめなオルガルも、不遜な態度をとるオルテールも。
自分と同じくボロボロだが、いつも通りで安心をした。
「それで、『強欲』は――」
彼らに加えアルマやギルレッグも、この地へと辿り着いている。
オリヴィアが『強欲』の男を突破したと考えるのは、自然な流れだった。
「……討った」
「……そうですか。ありがとうございます」
少しばかりの間を置いて、アルマが答える。
彼は世界再生の民の御旗となっていた。
敵対としたとはいえ思うところはあったのだろうと、オリヴィアは少年の気持ちに配慮した。
「王宮はライラスやイディナに、魔狼族や鬼族が護ってくれている。
余たちは邪神を止めるべく、はせ参じた形だ」
「至れり尽くせりですね、本当に」
アメリアが連れて来た蒼龍王とその妻もだが、直接縁のない魔狼族や鬼族まで援軍要請に応えてくれた。
マギアに至っては、要請すらしていないのにだ。
これには飄々としていると言われる事が多いオリヴィアでも、思わず感極まってしまう。
想いを紡いでくれた誰かさんに、感謝せずには居られない。
「オリヴィア!」
「ストル」
そして、その一人でもあるストルが駆け寄る。
女王の元へ駆け寄ったのかと思えば、目標が自分だったのでオリヴィアは嬉しくも面を喰らってしまう。
「どうして、魔力を使わなかったんだ!?」
だが、ストルから飛び出たのは叱責の声だった。
小柄な身体から出たとは思えない大きな声に、オリヴィアは思わず耳を塞いでしまう。
「だって、魔導石を使ったら本格的に何もできなくなっちゃうじゃないですか。
温存しないといけませんでしたし」
「だからって、君が死んでしまっては元も子もないだろう!」
身を案じてくれているのに叱られているという状況に、オリヴィアは口を真一文字に結んだ。
自分にだって色々と考えがあるのだが、そういう事ではないとストルが言うのは想像に難くない。
「まあまあ、ストル。私たちが間に合ったわけだし……」
「結果論ですよ!」
珍しくリタが宥めるのだが、ストルの腹の虫は収まらない。
やっぱりだと、彼に見られないようにオリヴィアは眉を顰めた。
「いや、賭けだったのは否めませんけど。
なんか案外、あのタイミングで合図が来ると思ったんですよ」
まごまごと口元を動かしながら呟く彼女に、周りも「あー……」と納得をしていた。
全員が思い浮かべるのは、皆を紡いでくれた黒髪の青年。
「気持ちは解るぞ」「うん。解かる」
「確かに、来そうですね」「フン、あの小僧はいい格好しいなのだ」
リタやレイバーン。オルガルやオルテールも、その光景が用意に想像できると何度も頷く。
勿論、ストルも例外ではない。彼にとって妖精族の里を襲う大型弩砲を瞬く間に破壊したのは、記憶に新しい。
勿論、オリヴィアも例外ではない。
自分自身の記憶ではドナ山脈で意識を失った時が切っ掛けだが、敬愛する姉に関しては何度も命を救われている。
「でしょう? いつもいいトコで来るから、今回もひょっとしてって思ったわけですよ。
ま、来てくれたのはリタさんたちなんですけどね!」
だからと言ってはなんだが、今回も現れるのではないかという期待はあったのだ。
ただ、そのアテはまんまと空振りに終わった。上手く行かないものだと、オリヴィアは毒づく。
「そんな不確定な要素に、命を賭けないでくれ! こっちの心臓が止まりそうなる!」
「でも、そうしないといけない状況だったってことですよ」
一瞬納得をしかけたストルだが、あっけらかんと笑うオリヴィアに複雑な表情を浮かべる。
尤も。皮算用をしたのは事実だが、オリヴィアとてちゃんとこの戦いの最後を見据えての決断でもあった。
「うん。オリヴィアちゃんが危ない真似をしたのはよくないけど……。
シンくんたいがここに来るために、出来ることをやろうとしたんだよね」
「さすがリタさん、話が早い」
彼と触れ合った者ならば、全員が知っている。
例えこのタイミングに間に合わなかったとしても。シン・キーランドは必ず来ると。
皆を護る為。そして、彼自身の願いを叶える為に。
「なら、後は余たちに任せるのだ」
「ストルも、オリヴィアちゃんとやるべきことが残ってるでしょ?
二人とも、離れていてね」
それまでは自分達が何とかすると、妖精族の女王と魔獣族の王が先導を切る。
彼らの闘志に呼応するかの如く、不思議な縁で結ばれた者達は悪意へと立ち向かっていく。
神に認められし者達が待つのは、何も持たない男。
……*
親指の爪を何度も噛みしめ、ファニルは不快感を露わにする。
どうしてこうも邪魔が入るのか理解に苦しむ。
嫌な記憶が反芻される。
人生の分岐点が、上手く行かない。
息子が生まれた時もそうだった。
愛する我が子を眼の前で奪われた怒りと悲しみ。
それでも。彼女は執念で息子と分かち合えた。
力を合わせ、この腐った国を。それに逆らえない世界を破壊すると心に誓った。
その為に、悪意の器を。邪神を生み出したというのに。
今度はその邪神が、悪意を振りまく事に躊躇った。
どこかひとつでも正しく機能していれば。そう思わずには居られない。
「絶対に、絶対に叶えるのよ。私の可愛い息子を、がっかりさせるわけにはいかないじゃない」
こうも上手く行かなければ、否が応でも最悪のシナリオが脳裏に浮かぶ。
あり得ない。認められない。愛する我が子を、ビルフレストを悲しませたくはない。
ファニルの悪意は、最早執念だった。何が何でも、この望みを叶える。
人の手によって創り出された神は、誰よりも自分へ感情を乗せる女の執念によって突き動かされる。
「――ア、アアァァアアァァ!!」
必死に抗っていた先刻までとは違う。動き出した身体は止められない。
腕が、脚が。身体の全てが、ファニルの悪意によって支配されていく。
「リタ、来るぞ!」
「うん!」
巨体故に、動きにキレは感じない。
しかし、悪意と魔力が詰め込まれた圧倒的な質量は全てを呑み込みかねない。
漆黒に染まる肉体はきっと、邪神へ流れ込んだ悪意。
邪神を救う為にも、まずはその悪意を削ぎ落さなくてはならない。
その奥に、シンが見た純白の子供が存在していると信じて。
……*
一方、大勢の悪意を煮詰めた存在から分離された存在。
もうひとつの悪意の塊である『暴食』はアメリアとの死闘を続けている。
蒼龍王の神剣と消失。
ふたつの力は反発し、体格の差でアメリアの腕が弾かれる。
邪神と違い人間は脆弱で、すぐに態勢を立て直せはしない。
そう判断した『暴食』が彼女を捕まえんと、右腕を伸ばした。
「水の牢獄っ!」
そうはさせまいと、アメリアは水の牢獄を用いて『暴食』の拘束を試みる。
身体全体を覆うと水の膜は薄くなる。期待した効果は得られないと、狙いは右腕に絞って放たれた水の輪。
「ガアアァアア!」
開いた指を強制的に閉じられるような不快感に、喚く邪神の分体。
一秒でも早く開放感を得る為に、消失を用いて水の牢獄を喰らい尽くしてみせた。
(判断が早い……)
その間に体勢を立て直したアメリアだが、距離を詰める事を躊躇った。
分体を含め、邪神は生まれたばかりの子供のような存在。
自らの欲求に忠実な一方で、精神的には幼いという認識を持っていた。
だが、『暴食』は明らかにこの戦いの中で成長をしている。
子供らしさは鳴りを潜め、一方で合理的な判断を下している。
確実に大人への階段を昇っていくという印象。
それは同時に、染みこんだ悪意が自らのものとして消化されている事を意味する。
「ビルフレストさん……」
アメリアはぽつりと、ビルフレストの名を呟く。
こうなった背景に、適合者である彼の存在が関係しているのは間違いないからだ。
どれほどの悪意に晒され、適合者の考えが刷り込まれていったのか。
同時に、ビルフレストはどれだけの悪意を内に秘めているというのか。
『暴食』が救えない領域に達している事よりも、その底知れなさが怖かった。
(オリヴィアは……。邪神は、皆さんがいる)
ふとオリヴィアは、『暴食』に蒼龍王の神剣の切っ先を向けたまま周囲を見渡す。
流した視線の先には、自分よりも遥かに頼れる仲間達が集結していた。心強く、有難いと思う。
「ふぅ……」
深く吸った息を、ゆっくりと吐きだす。
上下する身体に沿って、青い髪が揺れる。脳に酸素が行き渡り、余計な思考が遮断されていく。
アメリアは仲間意識の強さと責任感故に、全力を出し切れない状況も珍しくはない。
五大貴族だから。騎士団長だから。神器の継承者だから。自分は支える立場にあると常日頃から考えている。
何より、それが自分のやりたい事だと自覚もしている。
だが、これまで紡いで来た時間が、彼女の思考に僅かな変化を見せた。
自分が全てを背負う必要はない。それは決して無責任になった訳ではなく、頼る事を覚えた証。
(まずは『暴食』を倒す。その先は、邪神を。
ビルフレストさんは、イルくんたちなら大丈夫。
シンさんとフェリーさんも必ず来る)
結果、アメリア・フォスターの神経は研ぎ澄まされていく。
感覚が凝縮されていく。反対に、思考は拡張をしていく。
やるべき事、頼るべき事を整理したアメリアは大地を強く蹴った。
対面では消失を構えた『暴食』も、同様に突進をしてくる。
蒼龍王の神剣を構え、消失に対抗をするアメリア。
先刻と同様の展開に、悪意の塊はほくそ笑んでいた。
今度こそ弾き飛ばしたその瞬間に、胸倉を掴むと右手に神経を集中させる。
ぶつかり合う度に成長を続ける『暴食』。しかし、悪意の塊は根本的な事を見落としていた。
相手も同様の思考に至るという、至極単純な事実を。
「――!?」
神剣と左手がぶつかり合う瞬間。『暴食』はその身に確かな違和感を覚える。
自分が腕を振り下ろす速度が、いつもより速い。原因に気付いた時には、消失を持つ左手は空を切っていた。
正体は水の牢獄による水の輪。
先刻よりも薄く広げたそれを、アメリアは『暴食』の左腕と己の『羽』に絡めていた。
水の牢獄が絡まった瞬間に、アメリアは『羽』による砲撃を空へ向かって放つ。
空砲による反動は左腕諸共『羽』を地面へと推し進め、|『暴食』《ベルゼブブの想定よりも早く空を切る。
「ガアァァァァ!」
カラクリに気付いた瞬間。まるで鬼のような形相を見せる『暴食』。
大きく裂けた口がアメリアへ喰らい尽くそうとするが、『羽』による砲撃が顔面へと放たれる。
消失による脅威も。『暴食』本人の状況判断も奪った結果。
アメリアは自らの手で千載一遇の好機を勝ち取った。
「はああああっ!」
「ギャアァァァアァァァァ!?」
まずは消失の手首から先を、蒼龍王の神剣で斬り落とす。
悲鳴と共に、『暴食』の頭が上がる。
次の瞬間。切り返した蒼龍王の神剣の刃は、『暴食』の口を一閃する。
顎から上が切り裂かれ、大きな音と共に大地へ転がっていく。
全てを喰らい尽くす悪意の塊はふたつの口を失い、漆黒の身体を大地へと横たわらせた。