495.『罰』
たった一枚の壁。
シン・キーランドの向こう側に、ユリアン・リントリィが望むものは在るはずだった。
ずっと、ずっと、ずっと。
他の誰かの人生と共にあった。
自分の意思とは裏腹に見せつけられる幸福も悲劇を目の当たりにしてきた。
時には自分が『表』に出た結果、引き起こされる事もあった。
残ったひとつの感情だけが、彼をユリアン・リントリィたらしめた。
願い続けた結果、神はユリアンを見放さなかった。
求め続けた最愛の妻。イリシャ・リントリィを自分に引き合わせてくれた。
声はすっかり変わって、少女のものとなってしまった。
指先も細く、目線も少し見上げなくてはならない。
だが、そんな些細な問題はどうでもいい。
言葉を放てば、自分へ声を掛けてくれる。手を伸ばせば、触れられる。
姿形が変わり果てても自分はユリアン・リントリィで、彼女はイリシャ・リントリィである事に変わりはない。
それだけで良かった。今までの苦労が全て報われる日は、後少しで訪れるはずだった。
しかし、一人の男が全てを台無しにした。
成就されるはずだったユリアンの願いを、根本から否定する行動。
許せるはずがない。認めたくない。受け入れられない。
イリシャだと、愛する妻だと思っていた者が別人だったなんて。
自分の気持ちを弄んだこの男に拭いきれない後悔を与えなくてはならない。
逆上したユリアンは、獣人の首根を掴む。
苦しみ、悶える姿に感情は動かない。
今はシンとこの女にどういった復讐を行うかだけを、考え続けていた。
一瞬で焼き尽くしたのでは気が済まない。
まずは顔を焼き、次に手足。そして、身体の中まで熱で満たす。
後悔してももう遅い。禁忌に触れてしまったのは、この二人なのだから。
「やめろ! ユリアン!」
背後でシン・キーランドが強い口調で叫んでいた。
いつもの淡々とした声色とは明らかに違う。焦りが手に取るように感じられる。
理由は知っている。今更考えるまでもない。
フェリー・ハートニアの中で、ユリアンは見て来たのだから。
あの男は、自分のせいで他人が傷付く事を良しとしない。
愛する者を手に掛け続けて来たからか、自己否定の念が強かった。それは今でも抜けきっていない。
狐の獣人を狙うのであれば、自分を狙え。そう言いたいのだろう。
だからこそ、ユリアンは敢えてルナールを狙う。
彼の心を折るのであれば、それが最適解だと知っている。
フェリー・ハートニアにも少なからず、影響は及ぶと考えた。
仲間を無駄死にさせた男を今まで通り信頼できるだろうか。
彼女の性格ならば、シンを支えようとするかもしれない。
だが、シン本人の自己否定が強まれば意味は持たない。
故に、ユリアンはルナールを標的に定めた。
怒りに身を任せつつも、至って冷静。
汚い真似をしておきながら、「お前には見えていない」と宣う男とは違う。
そう、思っていた。
ユリアン・リントリィは、やはり何も見えてはいない。
それを思い知るのは、ほんの数秒後の話だった。
……*
乾いた音が響き渡る。
凡そ芸術の国には相応しくない、ただ破壊するだけの音。
マギアが造り出した、人を傷付ける道具。
シンの持つ銃から、一発の弾丸が放たれる。
貫いたものは、ユリアンの。フェリーの、右手。
赤い筋が腕に描かれていく。瞬く間に傷は治っても、その線は決して消えない。
「貴様……」
ルナールの首根を絞めていた左手から、握力が失われる。
ユリアンは振り向き、銃口を構えるシンに焦点を合わせていた。
「はぁ……。はぁ……」
銃口から煙が立ち昇り、肩で息をする男が一人。
普段からは想像もつかないシン・キーランドの姿だった。
無理もない。シンが銃を放った相手は、因縁の敵ではない。
この10年間。幾度となく傷つけ、もう二度と傷付けたくないと誓った相手。
フェリー・ハートニアの肉体なのだから。
苦しそうな表情が、それをしたくなかったのだと物語っている。
俄かには信じがたい行動だった。
挑発をしておいて、フェリーの身体を撃つなど考えられなかった。
シンが何をしたいのか、ユリアンには解らない。
「――っ! ユリアン、アンタは! どうして上辺だけしか見えていないんだ!?」
顔を歪めながら、怒りと悲しみが入り混じった声でシンは叫んだ。
だが、ユリアンには響かない。というより、意味が解らない。
(上辺だけ? どういうことだ?)
ユリアンは眉間に縦皺を刻む。
今、まさに。その上辺に自分は騙されていたというのに。
謀った張本人に「上辺しか見えていない」と言われる筋合いなど、どこにあるというのか。
最早支離滅裂だと、シンを嘲笑おうとした瞬間。
ユリアンの情緒は再び激しく揺さぶられる事となる。
「イリシャも、話と違うだろう!」
「な……」
シンの口から出た名前に、ユリアンは言葉を失った。
彼は今、間違いなく「イリシャ」と言った。
この場に居るのは、自分を含めればシンとルナールのみ。
イリシャが誰を指しているのかは、考えるまでもない。
「……ごめんね、シン。辛いこと、させちゃった」
狐の獣人が、ぽつりと声を漏らす。
ユリアンは口を開きこそするが、言葉が出せない。
その他者への思いやりが入り混じった声音は、自分のよく知っているものだったから。
力が入らない。だけど、ルナールからは目が離せない。
そんなユリアンへ真実を伝えるかの如く、ルナールはそっと自らの左腕から腕輪を外す。
次の瞬間。狐の獣人はその姿をユリアンの視界から消した。
代わりに現れたのは、愛する妻。イリシャ・リントリィ。
「イリ……シャ……?」
彼女の名を呟くと、イリシャははにかんでみせた。
頬へ手を触れると、少しだけくすぐったそうにした。
間違いない。彼女はイリシャ本人だと、ユリアンは感じ取っていた。
(ど、どういうコト……?)
一部始終を内側から見ていたフェリーも、混乱の渦に巻き込まれている。
イリシャがルナールだと思ったら、違っていて。やはりこの場に居たのは、イリシャだった。
何がなんだかわからないと、頭を捻る事しか出来ない。
「この腕輪ね、魔導具なの。随分昔のものだから、もう誰も使ってないけど」
イリシャからそう告げられた時。
ユリアンはあるひとつの魔導具の名を呟いた。
「魔法の腕輪……」
魔術をひとつだけ保管するという、ミスリアが生みだした魔導具。
昔はよく売れたものだが、今となってはもう生産すらされていない骨董品。
「まさか……っ!」
「ああ、俺が過去から持ち帰ったものだ」
ユリアンの問いに、シンは首を縦に振った。
古代魔導具によって過去へと転移した際に、栗毛の少女から譲り受けた魔導具。
それを彼は、イリシャに渡していたのだ。ルナールの扱う、変化の魔術を保管した上で。
つまり、流れはこうだ。
ずっと旅をしていたイリシャは間違いなく本人で、シンの身によって隠れている間にルナールへ変化をした。
その上で、シンがユリアンを挑発する。イリシャだと思っていた者が別人だと、ユリアンは錯覚をした。
彼が逆上し、手に掛けようとした人物は、愛する妻だった。
「で、では私は……」
狼狽するユリアンは、よろよろと立ち上がる。
身体のバランスが保てず、イリシャのすぐ傍で尻餅をついていた。
「……だから、言ったんだ。アンタは何も見えていないと」
少しだけ物悲しそうに、シンが呟いた。
騙し打ちを閃いたのは彼だが、この作戦は採らないつもりだった。
推し進めたのはイリシャだった。ユリアンに対する『罰』として。
「ごめんなさい、ユリアン。全部、わたしがするって決めたの」
「イリシャ、イリシャ……!」
イリシャが、ユリアンの元へ腰を下ろす。
首根に出来た痣は自分がつけたもの。その事実に、ユリアンは耐えられなかった。
「君はどうして、こんな真似をしたんだ!?」
だから、訊かずにはいられなかった。
彼女が何を想って、自分の身を危険に晒したのか。
夫である自分が手を掛けるように仕向けたのか。
「こうでもしないと、昔のユリアンに戻ってくれないと思ったの。
今のあなたは、わたしに憑りつかれているようだったわ。
たくさんの人を傷付けたのに、わたししか見えていない。
そんなの、わたしは求めてなんていないのに」
イリシャだけ。それも上辺だけしか見ていないユリアンは、他者の苦しむ気持ちを理解しようとしなかった。
彼がどれだけの悲しみを積み上げて、その結果苦しんだ者と共にしているというのに。
だから、イリシャは決意した。
例え自らが傷付き、死んでしまうかもしれないとしても。
もう一度優しい彼と話が出来る可能性に、賭けた。
「だけど、だけど! そのせいで、私は君を傷付けた!
もう少しで、殺してしまうところだった!」
「でも、あなたを狂わせたのはわたしだわ。だったら、わたしが責任を取らなくちゃ。
わたしが死んでしまえば、ユリアンが生きる意味もなくなる。
フェリーちゃんとシンが、同じ時間を生きられるようになるじゃない」
その言葉で、シンはイリシャの真意を理解した。
彼女が魔法の腕輪を外さなかった理由は、その為だ。
最悪、ユリアンがイリシャへ取り返しのつかない傷を負わせてしまったとすれば。
彼は二度と立ち直れない。深い後悔に苛まれる。それこそ、消えてしまいたくなるぐらいの。
イリシャは初めから、フェリーだけは解放するつもりだったのだ。例え、その身を犠牲にしてでも。
「でも、わたし駄目だね。シンに、フェリーちゃんを撃たせちゃった。
本当はしたくなかったはずなのに、ごめんなさい」
彼女にとって唯一の誤算は、シンがユリアンを止める為に銃を放った事だった。
シンにとっては二度と行いたくない負荷を与える行為を、させてしまった。
赤く染まるユリアンの袖は、イリシャに後悔を刻み込んだ。
「だが! 君は、死ぬのが怖いと言っていたじゃないか!
どうしてここで、命を投げ棄てようとしたんだ!?」
不老の身を持っていても、彼女は『死』から逃れる事は出来ない。
かつて、『死』は怖いとも語っていた。
そんな彼女が自分の身を囮にするとは、俄かに信じ難かった。
「投げ棄ててなんていないわ。
あなたを狂わせたのは、わたしだもの。あなたになら、この命を捧げても良かったのよ。
きっとそれは、我儘で家族から離れたわたしへの『罰』。
そして、多くの人を傷付けたあなたへの『罰』にもなると思ったの。
わたしたち、夫婦でしょ? 幸せも、苦労も分かち合わなきゃいけないものね」
「イリシャ……」
ユリアンの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
イリシャの言葉は、ずっと自分を大切に想ってくれている。そう、感じられるものだった。
彼女を追い求めるあまり、他の何も見えなくなっていた自分とは違う。
愛する妻を一番苦しめていたのは自分自身だと、ユリアンは己の『罪』を認めた。
「違う。違うんだよ、イリシャ。君は何も悪くない。
私が、私が君だと理解していればよかっただけなんだ。
君の優しさを知っている私なら、気付けるはずだったんだ……!」
大きく。熱の籠った涙に、イリシャは懐かしさを覚えた。
知っている。何か起きる度に、自分の責任だと感じてしまう心根の優しい人物を。
自分の愛した夫に再会が出来たのだと、イリシャは実感をした。
「ねぇ、ユリアン」
彼にこの問いを投げかけるのは、イリシャ自身も迷っていたから。
もしも愛する夫が下した決断なら、自分も受け入れようと思ったから。
「さっきの台詞。嘘じゃないのよ?
わたしは、あなたが望むのなら一緒に死んでも構わないわ。
だから、フェリーちゃんに身体を返してあげて。二人の人生を、歩ませてあげて。
これがわたしからの、最後のお願い」
そっとユリアンの手の甲に、温もりが感じられる。
イリシャの細く小さな手が乗せられた証だった。
「イリシャ……」
『死』を覚悟したとはとても思えない微笑みを前にして、ユリアンは言葉を詰まらせる。
彼女は優しく微笑んでくれている。ずっと昔、共に暮らしていた頃と同じ表情で。
幸せが永遠に続けばいいと思っていた。
そう願うのは、本当は永遠なんて存在しないと知っているから。
だから彼女との日々は尊くて、掛け替えのないものとなっていた。
ユリアンは思い出す。自分の本当の願いを。
イリシャと。愛する妻と永遠に生きたい。勿論、生きられれば何も言う事はない。
だけど、本来であれば無理な願いであるはずだった。
本当の願いは、もっと単純なものだった。
イリシャに逢いたかった。元気な姿が見られれば、それで良かった。
彼女の幸せがユリアンにとって、何よりも大切なものだったから。
「イリシャ。私は、君の『死』なんて望んでいない。
生きていて欲しい。ずっと、ずっと。君には、笑っていて欲しいんだ」
そこに自分がいるかどうかは、関係ない。
ユリアン・リントリィは自分に重ねられた温もりの尊さを、思い出していた。