47.蝕みの世界
「なに、あれ……」
目の前に広がる異様な光景を前に、思わずイリシャが呟いた。
将軍を名乗っていた居丈高な男は巨人とも、魔造巨兵とも見間違うような風貌に変質している。
巨大な刃と一体化した右腕は、一振りであらゆる物を肉塊に変えてしまうだろう。
事実、先刻まで群がっていた彼の部下は、既にその大半を失っている。
ある者は肉塊となり、またある者は縦に横に真っ二つと、運良く死ぬ事が出来た者はまだいい。
きっと苦しむ時間は無かったのだろうから。
悲惨なのは、運悪く生き残ってしまった者たち。
手を、足を、四肢を捥がれてどうする事も出来なくなった者。
流れ出る赤い液体が、命の残り時間を否が応でも報せてくる。
必ず訪れる『死』に怯え、拒絶する事も叶わない。
ただ無情に、『死』を実感する事だけを強要されていた。
いくら不老不死の魔女であっても、あのひと振りをまともに喰らえば弾け飛んでしまうだろう。
尤も、それでフェリーに『死』が訪れるとは到底考えられない。
それぐらいで事が済むのであれば、きっとシンはとっくの昔に彼女を殺している。
そのシンはリタと共にレイバーンの元へ合流を果たし、魔術師と戦闘を繰り広げていた。
遠目に見ても誰かが倒れたという風には見えなったのだが、どうやらあちらも様子がおかしい。
突如現れた半球状の暗闇に、彼らは揃って捕らわれている。
純然たる黒。絶対的な闇。ストルが張っている妖精族の里にある結界とは明らかに質が違う。
一体何が起きたのか、その中で何が起きようとしているのか、イリシャには想像もつかなかった。
だが、彼女は知っている。
シン・キーランドはここで命を落とす事はない。
そして、フェリー・ハートニアもまた同様にここが彼女の終着点ではない事を。
今となっては、それがイリシャにとって心の拠り所となっていた。
願わくば、全員が無事である事を祈らずには居られなかった。
……*
「これって……」
暗黒に覆われた世界で、リタは思わず呟いた。
黒、闇、無。そんな表現しか思いつかないこの空間が、否が応にも気持ちを沈ませる。
「リタ、無事か!?」
「レイバーン! 私は大丈夫だよ」
レイバーンの声が聞こえ、リタはひとまず安心をする。
大丈夫、声は聴こえる。
「そうか、それは良かった」
「わっ!」
蝕みの世界の発動時、傍にいたレイバーンがその記憶を頼りにリタを抱きかかえる。
暗闇の中で不意に起きた事に対して思わず声が漏れたが、分厚い胸板と獣の毛から彼がレイバーンだと確信は持てた。
「シンは居るのだろうか?」
「一緒に入ってるとは思うんだけど……」
魔術の発動時、シンだけが二人と離れていた。
彼の反応が無い事には、状況が判らない。
「匂いは……判らぬな」
空間の効果だろうか。人狼であるレイバーンの鼻は何も捉えない。
触覚と、聴覚がきちんと働いているだけまだ救いがあるとさえ思った。
そうでもなければ、気が狂いそうになる。
リタは妖精王の神弓に魔力を灯し、光の矢を生成する。
自分を抱きかかえているのが間違いなくレイバーンである事に、一先ずは安堵した。
強いて言えば、顔が近すぎて驚いてしまったぐらいだった。
だが、どこまでも広がる暗黒の世界まで照らす事は出来なかった。
レイバーンから「位置を知らせるだけになる」と言われたので、リタは言われるがままに光の矢を消した。
確かに、奥まで照らせないのであれば一方的に攻撃を許す可能性が高い。
闇は何もしてこない。だが、二人の精神を確実にそぎ落としていく。
互いの温もりだけが、かろうじて冷静さを保たせていた。
魔術師の男は、その闇の中で笑みを浮かべていた。
蝕みの世界は未完成の魔術であり、自身もその効果の範疇にいる。
どのような詠唱を組み立てれば、自分が望む効果になるかも実験段階の闇魔術。
理想を言えば、自分が入る必要のない世界。もしくは、五感を全て奪う事が完成形だった。
現段階で奪えているのは視覚、嗅覚、そして魔力の感知。
視覚と嗅覚は自分も失われているので、今後の課題だ。
それでも、妖精族の女王と魔獣族の王の動きを奪っている。
この光を失った世界で、自分だけが魔力の感知を可能とする。
強大な魔力を持つ、二人の位置は筒抜けだった。
ずっと何もない暗闇の世界に居るだけで、人はその精神に異常をきたす。
時間の経過は判らず、焦りと不安が加速度的に増えていく。
今は互いの温もりだけが支えになっていても、それはつまり離れる事を許されない。
何かの拍子に離れれば、二度と再会は叶わない。それを許さない。
まずは精神を壊す。
それから、苦しむ姿を音で愉しむ。
抜け殻となった頃に解放し、今度は眼で愉しむ。
どれぐらいで壊れるだろうか。
出入りが出来ないこの世界で、どれだけ平常心を保てるだろうか。
それを考えるだけで魔術師は口元が緩む。
だが、男は侮っていた。ただの人間を。
一番脆弱で、魔力も殆ど持たない人間。
それはつまり、彼の位置を把握する術がないという事に。
シンは、この空間に於いて最も強かった。
乾いた音が、暗闇に響き渡る。
銃弾が魔術師の肩を撃ち抜く。
「――ハァァァァッ!?」
理解が出来なかった。
何故、正確な攻撃が出来るのかを。
何故、ひとつの動揺もないのかを。
驚きは疑問より先に錯乱をもたらす。
気付いた時には、魔術師の背中が地面と重ね合わされていた。
その上に、奴は居る。馬乗りになって。
「な、なんでここが……」
シンは答えない。
魔術が発動した瞬間の位置関係から推測を立てて、銃を放ったに過ぎない。
自分の足元が変わっていないから、結論付けた。
一種の賭けだった。もし位置が変わっていなくても、魔術師に当たらなければ判らないままだった。
結果として、それは成功した。
後はその声を頼り、動いたに過ぎない。
闇に乗じて、人を殺めた経験。その消し去りたい過去が、皮肉にも彼を前に進めた。
魔術師の男は、失敗をした。声を出すべきではなかった。
そうすればシンは独り、暗闇に囚われるはずだったのだ。
「この空間を解け」
シンが冷たく言い放つ。余計な事を話すつもりはない。
「ハッ! 誰が――っつう!?」
拒否の言葉を放った瞬間、魔術師の耳に激痛が走った。
乾いた音と同時に、突き刺さるような痛みが襲い掛かる。
「もう一度言う。この空間を解け」
「何を偉そうに……」
詠唱を破棄して魔術を放とうとした魔術師の腕に、激痛が走る。
切り裂かれたような、鋭い痛み。
「何度も言わせるな」
「はっ、脅しているつもりか? 俺を殺せば二度とここからは出られ――」
乾いた音と同時に、腹に痛みが突き刺さる。
「な、なんで……」
脅し文句も、この男には一切通用しない。
男は弱者を甚振るのが好きで堪らなかった。
強者の心が折れる様を、見るのが好きで堪らなかった。
だが、この男は違う。
躊躇も容赦も、恐怖の色すら見えない。
甚振られているのも、心を折られているのも、自分だ。
それに気付いた時、全身の汗腺が開いた。
吹き出る汗が『死』への恐怖を呼び覚ます。
「二度と消えないのなら、どこかで同様の事象があるはずだ。
少なくとも俺は知らない。言い切るのはお前の保身の為だろう。
なら、ここで検証をするのは悪い賭けじゃない」
魔術師は、馬乗りになっている男が狂っている事に気付いた。
例えそうだとしても、自分の身を、仲間を犠牲にしてまで行うにしては早計すぎる行動だった。
しかし、奴は本気だった。少なくとも、男にはそう感じた。
腹部に強烈な激痛が走ると同時に、魔術師は気を失った。
……*
「あ、あれ……?」
突如、闇が晴れる。
リタは周囲を見渡したが、アルフヘイムの森で間違いない。
その身をレイバーンの腕に抱え上げられ、彼女は戻ってきた。
「む……。これは一体……」
レイバーンも同じように、周囲を見渡した。
腕の中にはリタ。そして、少し離れた位置にシンと魔術師がいる。
「仲が良さそうだな」
「えっ? あっ! えっと、これは……!」
シンに自分達の状況を指摘され、揃って顔を紅潮させる。
リタは慌ててレイバーンから離れ、視線をやるべき場所を求めて泳がせる。
「こ、これは暗闇で離れ離れにならないようにだな!
……む。シンよ、それは何なのだ?」
「これか?」
しどろもどろになるレイバーンだったが、シンが持つある物に気がついた。
その手に握られれているのは、決して戦闘で使う物では無かった。
一角ウサギの角。
アルフヘイムの森へ入る前に、退治した魔物のそれ。
イリシャに「便利だから」と言われて斬り落とした角だった。
実はと言うと二発目以降の銃弾は、空に向かって撃たれていた。
あくまで自分が撃たれたと魔術師に錯覚させる為、撃ったに過ぎない。
撃たれたような痛みは角で突かれただけ、切り裂かれるような痛みは角で引っかかれただけ。
致命傷には程遠い、唾でもつけておけば治りそうな小さな傷しか生み出さない。
魔術師を脅す手前、殺す事に躊躇がないように振舞ったが、それはシンの望む所では無かった。
前例がないという事も、あくまで知ったかぶりで言ったに過ぎない。
最低限の魔術知識はあっても、シンは魔術師ではない。専門家以上の知識など、持ち合わせていなかった。
それに、万が一にも永遠に閉じ込められるとなればリタやレイバーン。彼女達を慕うものに申し訳が立たない。
フェリーとの約束も果たせなくなる。
シンにとっては、それが何よりも心苦しい。
だから、ある意味では賭けだった。
魔術を解いてくれれば良し。気絶して解除されるなら、それも良し。
最悪なのは奴が頑丈かつ、絶対的な意志の持ち主だった時だった。
実際の男は、そんな精神性とは程遠かった事もあって杞憂に終わった。
気絶で魔術が解除されない可能性もあったが、その時は無理矢理にでも起こすつもりだった。
心をへし折るまで、何度でも続ける。拷問をしても構わないと考えていた。
そういう意味では、一角ウサギの角は非常にいい仕事をしたと思う。
「……確かに、役に立ったな」
先人の言葉には、きちんと耳を傾けるに限る。
イリシャの言った通り、本当にこんな物が役に立った。
「お主は何を言っておるのだ?」
レイバーンが首を傾げる。
リタと顔を見合わせるが、二人して「分からない」という顔を見せあっただけだった。
「こっちの話だ。それに、まだ終わってない」
フェリーはまだ戦っている。
援護をしなくてはならないと、気を引き締めた。
余談だが、イリシャは一角ウサギの角を砕いて粉末状にする事により薬が作れる。
そういう意味で「便利」だと教えたつもりだった。