492.彼が来るまで
「あれは……!」
まるで山のように聳え立つ巨人を。迸る圧迫感を、アメリアは知っている。
悪意によって生み出された人造の神。
人々の呪詛を取り込む器と化した邪神が三度、自分の前へと姿を現す。
漆黒に染まった身体から放たれる瘴気が、胸を締め付ける。
シンの言う通り。或いは『傲慢』や『憤怒』のように、元は純粋な子供だったとすれば。
一体どれだけの悪意に晒されたのだろうと、想像する事さえ憚れた。
「……っ」
見上げた先で、巨大な腕を振り被る邪神。
下唇を強く噛んだのは、決して畏れているからではない。
「シンさんは……」
アメリアが思いを馳せるのは、一人の男。
悪意の塊さえも救いたいと願った青年の存在が、頭から離れない。
ふと、考えてしまう。
この場に現れた邪神の姿を見ても彼は、シンは同じ事を言うだろうかと。
けれど、アメリアは決して悩んだりはしなかった。
判り切っているからだ。彼はその意思を曲げない。出来る限りの事を、全て行うだろう。
次に思うのは、自分はどうだろうかという疑問。
性善説を信じて生きて来たアメリアではあるが、正直に言うと自信はない。
邪神との戦いが始まって以降、沢山の悪意に触れてきてしまった。
現に今も、禍々しい殺気を邪神は放っている。
今までの人生では起き得なかったものを前にして、揺らいでしまうのは無理もない。
だからこそ、彼女はシンを尊敬していた。
決して折れない芯の強さが、優しさが。こんなにも自分の心を震わせる。
好きになれて良かったと、心から思った。
そんな彼だからこそ、必ず来ると言い切れる。それまでは、自分達で止めなくてはならない。
その思いで邪神を見上げた時、アメリアはある事に気が付いた。
(震えている……。いえ、耐えている……?)
振り上げられた拳が小刻みに震えている。
その瞬間、アメリアは悟った。邪神もまた、悪意に抗っているのだと。
自分だけではない。誰もが皆、戦っている。
希望は何ひとつ潰えていない。
「……もう少し、耐えてください!
あなたを救いたい男性が、必ず来ますから!」
アメリア・フォスターは自らがするべき事を悟った。
救済の神剣は決して、邪神を断つ神剣ではない。
救いの手を差し伸べるべく、振るう神剣。
決して邪神に手を汚させたりはしない。
神をも救うべく、アメリアは覚悟を決めた。
「ハアァァアアァァ……」
そのアメリアの前に、邪神の分体が立ちはだかる。
邪神と同じ。いや、それ以上に闇へと染まった肉体を持つ分体の名は、『暴食』。
ビルフレスト・エステレラの悪意を色濃く受け取った存在。
「……あなたは、止まらないのですね」
先刻から攻防を繰り広げてはいたが、未だ決着はついていない。
本体である邪神の顕現で何かしら影響があると思えたが、彼女の願いは届かなかった。
最早『暴食』は、ビルフレストの代行者とも言える存在と化している。
邪神を救う為には、『暴食』を突破しなくてはならない。
深く息を吸い、冷たい空気が脳を冷やす。落ちついた様子で、アメリアは蒼龍王の神剣を構えた。
『暴食』への救済は、悪意を振りまく力を奪う事だと信じて。
……*
「クソ、ここで邪神かよ……ッ!」
黄龍王の神剣の刃を突き立て、ヴァレリアは膝を折る事を拒絶する。
自らの身から滴る血痕が、地面に赤黒い染みを作っていく。
「ああ。邪神は三度この世に現れた。
今度こそ終わりだ。ミスリアも、世界も」
漆黒の魔剣を携えながら、ビルフレストは邪神の顕現を歓迎した。
その上で、未だ自分達に逆らう者へと高らかに宣言をする。もう終わりだ、諦めろと。
「まだだ! まだ何も、終わっちゃいない!
貴様を倒して、邪神を止める!」
しかし、イルシオンはそんなビルフレストの言葉を決して受け入れはしない。
絶望するにはまだ早い。間に合うはずだと、紅龍王の神剣を構えた。
「思い上がりも甚だしいぞ。傍にいた者すら護れなかった貴様に、成し遂げられると思っているのか?」
「――っ!」
ビルフレストが誰の事を指し示しているか等、考えるまでも無かった。
ずっと傍で自分を支えてくれた少女。クレシアを思い返し、イルシオンは奥歯を噛みしめる。
それは怒りに身を任せてはいけないと、必死に自分を抑えつけているようでもあった。
「ビルフレスト、テメェ!」
彼の言葉に怒りを覚えたのは、イルシオンだけではない。
最愛の妹を奪われたヴァレリアもまた、憤りを露わにする。
赦せない。彼女の存在を口にして欲しくない。
クレシアの命を奪い、あまつさえ彼女の力を悪意に染めているこの男にだけは。
「いくら吠えようと、現実は変わらない。
貴様等はクレシア・エトワールを護れなかった。いいや、多くの者を失っている。
グロリア・エトワールも、ネストル・ガラッシア・ミスリアさえも」
救えなかった者達の名を告げるビルフレスト。
悪意の代行者は知っている。心の傷を深く抉れば、抑えつけていたものは否が応でも溢れる事を。
そして、溢れ出た感情はそのまま邪神の糧となる。負の感情が、彼ら自身を窮地に貶めると。
「確かに、オレたちは護れなかった。大切なものをたくさん失ってしまった」
己の胸を掻き毟るように握り締めながら、イルシオンは呟く。
いくら言葉で否定しようと、事実は変わらない。目を背けたい過去に、彼は向き合う。
何度も何度も、懺悔を重ねた。
紅龍王の神剣は、そんな情けない自分を見棄てずに居てくれた。
とある騎士見習いの少女が言った。「みんな、死なない」と。
彼女はまだ子供で、平民で、剣を握る必要がないはずだった。
なのに、少女は立ち上がった。己のしたい事を、するべき事と定めたのだ。
どこか危なっかしくて、クレシアとはまるで違う。背中を預けるのも見守るのも、心配ばかりだ。
だが、イルシオンはその少女を。イディナを尊敬している。
自分より真に強い人間だと、認めている。
彼女に恥じない自分でいよう。
そう考えれば考えるほど、不思議と頭が冷えていくのを感じた。
怒りが収まった訳ではない。だが、平温は保っている。
「ビルフレスト。だからこそ、もう貴様や邪神には何も奪わせやしない」
「貴様では無理だ」
「オレ独りである必要はどこにもない。皆で、護るんだ。
今、こうして仲間が集ってくれているように。オレはその他大勢で構わない。
英雄は、この中の誰かが成ってくれる。オレにはそれで十分だ」
「イル……」
決意するイルシオンの姿を前に、ヴァレリアは感極まっていた。
いつもクレシアと遊び回っていた子供の面影は、もう見当たらない。
嬉しくもあり、寂しくもある。何より、頼もしくもあった。
「そうか、貴様は夢を諦めたのか。
ならば私は、その代償を払ってまで願ったものを破壊してやろう」
「させるものかよ!」
嘲笑するかの如く、ビルフレストは肩を竦めてみせる。
相棒を失い、共に見た夢を捨てた少年。彼の全てを喰らうべく、ビルフレストは魔剣を振る。
漆黒の刃と真紅の刃が重なり、ぶつかり合う魔力が強い衝撃を生み出していた。
……*
再び現世に蘇ったその時から身体に纏わりついていた不快感。
コーネリア・リィンカーウェルを縛り続けたそれが、忽然と消えた。
「そうか……」
突然の変化に戸惑いつつも、彼女は変化の理由を察する。
自分との戦闘中に姿を消した一人の魔術師。彼女が、術者である男を討ったのだと。
即ち、それは自分がこの世界での活動を終える事を意味していた。
「コーネリアさん?」
怪訝な表情を浮かべながら、オリヴィアが覗き込む。
青い髪が重力に沿って、ふわりと垂れる。
その更に奥では、邪神がいつ拳を下ろすか判らない。
予断を許さない状況であるにもかかわらず、コーネリアはオリヴィアを美しいと感じてしまった。
「いや。アタシはもう、現世には居られないみたいだ。
本当はもう少し、お前と語りたかったんだけどな。
こればっかりは仕方がない」
「コーネリアさん……」
口惜しさを感じつつも、コーネリアはその先を欲しようとはしなかった。
彼女に逢えただけで奇跡と呼ぶに相応しい出来事なのだから。
贅沢を言うつもりはない。自分の役目は500年前に終わっているのだから。
ほんの僅かな時間しか存在していなかったが、世界再生の民が言う程、度し難い世界ではないと感じた。
改めて訊くまでもない。オリヴィア・フォスターと、その仲間を見ていれば判る。
だから、コーネリアは安心していた。
絶望的な状況でも、彼女達は諦めなかった。
きっと上手く行く。世界を悪意に染めたりはしないと、心から信用出来た。
自分は背中を押すだけ。未来を掴む切っ掛けを、与えるだけ。
ただ、我儘をひとつ言うならば。いつかまた、逢いたい。
きちんと語り合いたい。『魂』だけで、構わないから。
「フォスター。ここから先はお前たちの時代だ。
……死ぬなよ。語り合うのは、もっともっと未来でいい。
全部やりきってから、ゆっくり話そうや」
「……はい」
コーネリアの言葉を噛みしめながら、オリヴィアは強く頷く。
彼女に導かれるまま、心臓に収められた『核』に。魔導石に触れる。
「……っ!」
迸る熱が、指先から全身に流れてくるようだった。
もう、コーネリアの身体は動いてはいない。満足したような寝顔が、瞬く間に砂となって消えていく。
とても大切な者を受け取った。決して無駄には出来ないと、オリヴィアは下唇を噛んだ。
「コーネリアさん。必ず、無駄にはしません」
魔導石を強く握りしめ、オリヴィアは立ち上がる。
いくら『始まりの魔術師』の魔力が込められているといえど、決して無限ではない。
自分が為すべき事は、あとひとつ。その為に使うと、彼女は強く誓いを立てた。
「ベルさん……」
しかし、それにはまだ最後のひとかけらが足りていない。
オリヴィアは天を見上げ、ただひたすらにその時を待っていた。
淀んだ空では、邪神が未だ震えている。
悪意の器は、自らに注がれた悪意と必死に戦っていた。
覚えているひとかけらの温かさを、失わない為に。
誰もが皆、戦っている。
それは遠い空の向こうでも、同じ事だった。