491.託された力
悪意の権化を前にして、背筋が凍る。
ひとたびその長い腕を振るえば、自分達はたちまち掻き消されてしまうのではないか。
そう思えてしまう程、邪神は圧倒的な威圧感を放ち続けている。
「あれが、邪神……」
「こんな時に……っ」
邪神の分体よりも更に、悪意を煮詰めたかのような不快感。
実物を見るのは始めてだが、ピースやストルも邪神だとすぐに察する事が出来た。
「三日月島より……」
「いえ、この間の空白の島よりも更に……っ」
初対面の彼ら以上に、かつてその姿と対面をしたテランとオリヴィアは息を呑んだ。
より色濃く。より深く。放たれる気は禍々しく、抵抗は無駄だと思わせるには十分な存在だった。
見た者に恐怖と絶望を与える化身。
その肩に乗る一人の女性が、髪を靡かせながら周囲一帯を見下ろしていた。
「全く。どうしてこうも、情けないのかしら」
唾棄すべきように溢した言葉には、怒りと失望が込められている。
邪神の反応から判る。『強欲』の分体は、離れた地で既に朽ちてしまったのだと。
マーカスの造った合成魔獣や人造鬼族。残った黄龍族も、ふたつの地でほぼ戦力を失っていた。
蘇った『始まりの魔術師』でさえも、今や身が朽ちるのを待つだけの存在。
残っているのは『暴食』を司る分体と、その適合者。
愛する一人息子。ビルフレスト・エステレラのみとなる。
「誰もあの子にはついて来られなかったということね。
仕方ないけれど、悲しいわ。でも、何も心配をする必要はないのよ。
まだ私がいる。この子もいる。私たちが居れば、いくらでもやり直せるのよ」
子を想う母の気持ち。
本来であれば美しいと感じるはずの感情も、ファニルの手に掛かれば悍ましい何かへと変貌する。
愛しい我が子を抱けなかった嫉妬渦巻く指先を、そっと邪神の頬へと這わせる。
あの子の為に、邪魔者を全て消せ。邪神はそう受け取った。
自らに与えられた『役割』を果たすべく、巨大な腕を振り上げる。
一方で邪神は、自らが欲したものの残滓を壊そうとしているものから感じ取っていた。
分体を通して伝わってきた感情。
敵意も、悪意もなく。自分を求めている訳でもなく差し出された腕。
もう一度。今度は自分自身で触れたいと思った。
この腕を下ろせば、きっとそれは叶わない。
そこまで理解していながらも、邪神は抗えなかった。
自分に注ぎ続けられた悪意が、呪詛が。歪んだ愛情が、求めている。
生きとし生けるものを。自分が享受できない幸福なら、壊してしまえと。
ただひとり。愛する息子の為に、他の全てを壊してしまえと。
多くの者から放たれる怨みも妬み。母の歪んだ愛情。
そして、邪神自身が欲しているものを持つ者への羨望。
入り混じった感情が整理できぬまま。邪神は言われるがままに、振り上げた腕を叩きつけた。
……*
邪神の腕が振り上げられた直後。
掲げられた巨大な質量は、オリヴィアに『死』を連想させるには十分だった。
「流石に、この状況はかなりヤバいですね……!」
コーネリアとの戦いで、オリヴィアは己の魔力を枯渇寸前にまで使い果たしている。
『羽・盾型』はもうない。あったとしても、受け止められるとは思えない。
絶体絶命以外の単語が思い浮かばない。
自分独りでは、どうしようもない状況。
それでも諦められないのは、まだ希望が残っているから。
その目が潰えない限り、オリヴィアは決して俯こうとはしない。
「フォスター……」
コーネリア・リィンカーウェルは、今にも朽ちそうな肉体でその様を眺めていた。
彼女の祖先。自分の知っているフォスターも、そうだった。
どんな不利な状況でも、希望が残っている限りは諦めない。
往生際が悪いと言われるかもしれないが、そんな前向きな好感を抱いた。
風前の灯となった肉体は、間も無く土塊に還るだろう。
そうなる前に、何か手を打ちたい。彼女とその仲間を死なせたくはない。
コーネリアは、オリヴィア達へ未来を託すと決めた。
その為の可能性を、彼女へと授ける。
「フォスター。お前、やたら魔力を温存するように言われていたよな」
「え、ええ。そうですけど……」
戦闘前。オリヴィアは再三、ストルから魔力の使用を控えるように窘められていた。
速攻で倒せば魔力の消費が抑えられるなんて都合のいい話が、『始まりの魔術師』には通用しなかった。
結果的にオリヴィアは、魔力をほぼ使い切ってしまっている。そうしなければ、勝てない相手だという証明でもあったが。
ただ、代償は決して小さくない。
オリヴィアは事前に用意した策。自分に与えられていた最も重要な役割を果たせない状況下にある。
「なら、アタシの魔力。いや、その源泉を使え」
「え……」
その埋め合わせをするかの如く。
コーネリアは、自らの身体へ手を伸ばすようにオリヴィアへ促した。
「それは、どういう……」
敵意は無いと解りつつも、具体的に何をさせようとしているのか。
オリヴィアは彼女の言葉の意図を測りかねていた。
「アタシの身体には……。なんだ、復活の時に埋め込まれた高密度の魔石がある」
高密度の魔石。それも、意思を持った躯の『核』として利用されるもの。
オリヴィアはその存在を、その名を知っている。
「魔導石……」
「多分、それだ。そこにはアタシの『魂』を介して増幅した魔力がまだ残っている。
お前に策があるってんなら、遠慮なく魔石の魔力を使うべきだ。
付き合ってくれた礼と、魔力を使わせすぎちまった詫びだ。
アンタはアタシに勝ったんだ。それぐらいの権利はあるさ」
「コーネリアさん……」
放っておいても、コーネリアの身体は時期に朽ちてしまう。
ならば、消えてしまう前に有意義に使ってもらいたかった。
(問題は、アタシを縛っているこの薄気味悪い魔術か……)
ただ、ひとつだけ懸念が残されている。
自分を縛る術者が、果たしてそれを許してくれるか。
胸の奥のざわつきを必死に抑えながら、コーネリアは未来を紡ごうとしている。
「っ……」
「コーネリアさん!?」
しかし、彼女の想いとは裏腹に、『核』として埋め込まれた魔導石は暴走を始める。
彼女の魔力を蓄えた魔導石ならば、周囲に大きな損害を与えるのは間違いない。
術者であるマーカス・コスタの、せめてもの抵抗でもあった。
……*
周囲が六花の新星による氷で覆われ、潜ませていた魔物は使えない。
追い詰められたマーカスが採れる選択肢は、決して多くはない。
「ステラリード卿。待て、待ってくれ!
私が間違っていました! 落ち着いて、話し合おうではありませんか!」
「今更、見苦しいぞ」
不利になるや否や、態度をころりと返る。
判り易くも浅ましいその姿に、トリスは辟易した。
自分独りならば、彼が話す内容次第では絆されていたかもしれない。
だけど、今は違う。自分の判断ひとつがミスリアを、世界を危機に晒す。
真に大切なものを見つけた今だからこそ、トリスは毅然とした態度でマーカスを見下ろしていた。
尤も、マーカスとてトリスの態度を見て諦めきれるものではない。
なにせ自分の命が掛かっているのだ、必死にもなる。
「兄君! そう、兄君を元に戻したいのでしょう!?
元はと言えば、私の造った薬が原因です! 元に戻す手立てを、共に探しそうではありませんか!」
「それは貴様自身が、戻せないと否定したばかりだろう。
貴様に頼らなくても、私には信用に足る者が大勢いる」
「くっ……」
トリスの意思は揺らがない。今更、甘言に心が動かされるはずもなかった。
最早自分の言葉には踊らされないと、マーカスも認めざるを得ない。
単純に命乞いをするだけであれば、このまま彼女に捕らわれていればいいだろう。
今後の人生で日の目を見る事はないだろうが、命だけは救かる。
だが、それはマーカスにとって人生の終焉を迎えるも同義だった。
二度も捕らわれた自分を世界再生の民が、ビルフレストが救ってくれるとは思えない。
邪神は既に、悪意の器として完成している。既に自分の手から離れてしまっているのだ。
今までに他者を切り捨てて来たからこそ解る。切り捨てられる恐怖を。
自分の存在価値を証明するには、マーカスはこの危機を自力で乗り越える必要があった。
(考えろ、考えるのだ……)
残された可能性を必死に模索する中。
マーカスは指にはめ込んだ魔導石から、コーネリアの状況を察知する。
その状況は決して、マーカスにとって良いものではない。
オリヴィアが使用した簡易転移装置により、魔導弾による奇襲を受けた彼女の姿だったのだから。
(ぐ。まさか、コーネリア・リィンカーウェルが……!)
彼女はマーカス個人が操れる手札としては、最大級のものだった。
尤も、彼女自身が魔術師としてマーカスより遥かに優れているからか、行動の全てを操れていた訳ではないが。
それでも自分に危害を加えられない。ミスリアを破壊するという、最低限の命令だけは下せた。
想定から外れた点といえば、あくまで彼女は彼女自身の意思を元にミスリアへ憤ったという事だろうか。
そして、今となってはその事実が仇になろうとしている。
彼女は自らの『核』として搭載された魔導石を、オリヴィア・フォスターへ託そうとしていた。
マーカスの下した命令から逸脱しない形で、ミスリアに与しようとしているのだ。
(させるものか……!)
『核』となった魔導石は、コーネリアの魔力を大量に吸収している。
コーネリアを上回るような魔術師だ。オリヴィアの手に渡れば、世界再生の民にとって脅威となるのは明白だった。
故にマーカスは、最後の手段を採らざるを得ない。指輪を通した命令で、魔導石を暴走させようと目論む。
暴走した魔導石はオリヴィアだけではなく、周囲に居る者全てを巻き込んだ爆弾となるだろう。
それならばビルフレストの役にも立つ。利用価値からまた自分が救ってくれる可能性も生まれる。
この選択が自分にとっての最適解。マーカスは、そう判断をした。
コーネリアを操る指輪へ、マーカスは己の魔力を注ぎ始める。
導火線へ火を点けるように。『始まりの魔術師』の命を、貶める行動だった。
「マーカス……?」
マーカスが魔導石を暴走させるまで、怪しい行動は見当たらない。
だからこそ、トリスは疑った。
あそこまで見苦しい人間が、途端に黙り込むだろうか。諦めきれるだろうか。
そう考えた時。あり得ないと判断をするのは共に世界再生の民で過ごした時間があったからかもしれない。
「貴様、何を企んでいる?」
「くっ!」
訝しむトリスを前にして、マーカスの焦りが加速する。
もう一秒たりとも無駄に出来ない。なりふり構わず、魔力を指輪へと注ごうとする。
しかし、彼の魔力がコーネリアへ届く事は無かった。
次の瞬間。マーカスの身は、拡張された六花の新星にとって覆い尽くされていたからだ。
「く、そ……」
己の身体が凍り付いていく。意識が遠のいていく。
視界が段々と霞む中、マーカス・コスタはその生命活動を終えた。
「――マーカス」
トリスには、マーカスが何をしようとしているかははっきりと判らなかった。
ただ、これだけは判る。彼は生まれつき、純然たる悪意を持つ者だったのだと。
だからこそ、力づくで止めるしかないと判断をした。
「痴れ者が……」
どこかやるせなさを感じながら、トリスはぽつりと呟く。
だが、彼女は紛れもなく仲間の命を救って見せたのだ。
その行動は、意思は、次の者へと託されていく。