485.ヘカトンケイル
「こやつ、一体どこまで……」
眼の前で起きる光景を前にして、レイバーンは息を呑む。
リタに至っては、思わず視線を逸らしてしまった。
彼らが相対している悪意の塊はそれだけ、創造を絶する絵面だったのだ。
まずは肩から。続けて、レイバーンによって裂かれた腕がひとつひとつ形を成していく。
背中から……。いや、腰からさえも生えていく。
『強欲』がまだ足りないと欲した結果。遂には腕から枝分かれするように増殖していった。
出来上がったのは無数の腕によって包まれた化物。
大きさこそ不揃いだが、その全てが魔硬金属の義手を模した形をしている。
瑪瑙と漆黒の入り混じった、不気味な怪物が眼の前で誕生をした。
何もかもを欲した結果が、この無数の腕なのだろうか。
あまりにも痛々しい姿を前に、レイバーンは投げかけるべき言葉を見つけられない。
尤も、『強欲』も同情は求めていなかった。
悪意の塊が欲しているのは、望んで得た力を振り回す先。
「――ぐうぅっ!」
右から枝分かれした無数の腕が、レイバーンへと襲い掛かる。
両腕の神爪を以て身体を覆うものの、全てはカバーしきれない。
拳の重みに押し負け、レイバーンの巨体が後ろへ下がる。
「アハァ!」
膂力で勝ったと見た瞬間。『強欲』の口が大きく裂けた。
暴力はやはり、気持ちが良い。欲しいものが力づくで手に入れられるのは、素晴らしい事だ。
背中から生えた腕が、レイバーンの頭を鷲掴みにする。
そのまま力任せに顔を地面へと叩きつけられる。
3メートルを超える巨体が地面へと触れた瞬間、大地が震えるのを皆が感じ取った。
何度も。何度も。太鼓を叩くかの如く、『強欲』はレイバーンの顔を地面へ打ち続ける。
壊れろ。まだ壊れるな。相反する感情を抱きながら、自らの力を愉しんでいた。
レイバーンの顔が上がる度に、撒き散らされる雫は量が増えていく。
彼の顔は、自らの鮮血で紅く染まっていた。
「レイバーンを離して!」
その光景に、リタが耐えられるはずもない。
何としてもレイバーンを『強欲』から引き離さなくてはならないと、無我夢中で妖精王の神弓から矢を放つ。
「ヒヒィッ!」
自らを射抜くべく放たれた光の矢を前に、『強欲』は笑みを溢す。
この光の矢にも苦労をさせられた。だが、今は全く怖いと思わない。
事実、『強欲』の感覚は正しかった。
左の枝分かれした腕が、腰から伸びる腕が。妖精王の神弓の矢を掴んでは握り潰す。
リタの祈りが込められた矢は、儚くも光の粒子となって消えていく。
「そんな……!」
傷ひとつ付けられず握り潰された光の矢を前に、リタは言葉を失う。
確かに焦りはあった。すぐにでもレイバーンから引き離さなくてはならないと思った。
だが、こうもあっさり掻き消されるとは思ってもみなかった。
どうすれば、傷を与えられるのか。どうすれば、レイバーンを救けられるのか。
必死に頭を回すが、胸に抱えた不安が思考を邪魔にする。
それでも、考えなくてはならない。結果、思考に僅かな隙が生まれる。
『強欲』はその隙を逃さなかった。
腕の先端から、また新たな腕が。
模倣によって伸び続けた腕が、リタへと襲い掛かる。
「――っ!!」
リタは間一髪躱したと思ったが、そうではない。
『強欲』の指先が、リタの服を掴みとる。
そのまま力任せに払われたリタの身体は、彼女の意思を拒むかのように地面を転がっていく。
崩れた瓦礫が全身を強く打ち付けていき、リタは耐えるように歯を食い縛る事しか出来なかった。
「姐さん!」
「おいおい、なんなんだよありゃ!?」
レイバーンだけではなく、リタまでもが一方的に蹂躙される。
二人を慕う魔狼族と鬼族にとっては、許されざる光景。
しかし、黄龍と人造鬼族も放っては置けない。
救けに行けない状況がもどかしく、奥歯を噛みしめる。
「人間、ここは私たちに任せろ。貴様はあの化物のところへ行け」
そんな中。黒狼は加勢に来たオルガルへ、『強欲』の元へ向かうよう促す。
神器を持つ彼だけでも向かわせる事が、状況の打破に繋がるかもしれないという判断だった。
「――判りました、ありがとうございます!」
一瞬の思考により、オルガルはリュコスの提案を受け入れる。
置き土産だと言わんばかりに宝岩王の神槍で黄龍を地面へ叩き伏せ、走り始める。
「リタ!? おのれ、貴様……!」
何度も顔面を打ち付けられながら、視界の端に捉えたもの。
それは『強欲』に一蹴されるリタの姿だった。
生傷が増えていくリタを目の当たりにしたレイバーンは、怒りで身を震わせる。
「よくも、余のリタを!」
歯を食い縛り、自らを地面へ縫い付けようとする無数の腕に抵抗するレイバーン。
頭を上げ、膝から腰。そして上半身へと、全身の力を伝わらせていく。
次第にレイバーンの頭の位置が高くなり、『強欲』は怒りに燃える彼の眼差しを見つめる。
だが、悪意の塊はその程度では怯まない。
顔が上がったのであれば殴りやすいと、容赦なく枝分かれした拳がレイバーンの顔面を捉えた。
レイバーンの顔が跳ねる様を見て、『強欲』はゲラゲラと笑っている。
自らの鼻血が、自慢の嗅覚を鈍らせていく。
それでも、レイバーンの闘志は萎えてなどいない。
許せないのだ。大義もなく暴力を振るう、この悪意の塊を。
「その程度で、余が怯むと思うな!」
歪んでしまった邪神の分体は、もう救えはしない。
けれど。せめて、これ以上は悪意に染まらないように、ここで倒さなくてはならない。
傷だらけの身体を圧しながらも立ち上がるレイバーンに、戦と獣の神は応えた。
「ギ? ギギギギギギギ!?」
右手に装着された獣魔王の神爪へ、悪意の腕が引き寄せられていく。
『強欲』は本能的に、危険だと察知した。だが、いくら離れようとしても逃げられはしない。
分け隔てなく受け入れ、多くの者を引き寄せるレイバーンに、戦と獣の神は力を貸した。
獣魔王の神爪が生み出す力は引力。どんなモノであれ、逃しはしない。
「ガアアアァァァァアアァァァッ!」
逃げられないのであれば、レイバーン自身の息の根を止めてしまえばいい。
力の流れに逆らうのではなく、『強欲』は利用する事を選ぶ。
全身から生まれた腕を以て、悪意の塊はレイバーンへと襲い掛かる。
「させぬぞ!」
だが、レイバーンもまた感じ取っていた。
『強欲』ならば。悪意の化身ならば。自分の脅威となる存在は、必ずここで破壊しようとするはずだと。
引力に導かれながら、レイバーンは左腕の鬼武王の神爪で悪意を迎え撃つ。
同時に、鬼族が信仰していた力と規律の神も彼を認めていた。
放たれた力は、獣魔王の神爪の引力と対を成す力。斥力。
「ギャアアァァァァアアァァァ!?」
際限なく強まる引力と斥力によって、『強欲』の腕は次々と引き裂かれていく。
悲鳴を上げ、抵抗を試みても逃げられはしない。無数の腕は無残にも、ふたつの神器によって引きちぎられていく。
「はあっ……。はあっ……」
『強欲』の腕。そのほぼ全てを引き裂いた所で、レイバーンの膝が折れる。
悪意の塊が力なく崩れ去る一方で。レイバーンもまた、解放した神器の出力を前にして大きく疲弊していた。
「恩に着るぞ、獣魔王の神爪。それに、鬼武王の神爪」
力のほぼ全てを出し切り、指の一本すらも動かす気力を余してはいない。
それでも『強欲』は止められたと、レイバーンはふたつの神器に礼を述べる。
悪意の塊は倒せた。そう、思っていた。
「レイバーン!」「レイバーン殿!」
だが、身体を起こしたリタと加勢に向かうオルガルが同時に声を荒げる。
遠くから俯瞰していた二人には見えていた。引き裂かれたはずの悪意は、まだ散り切っていない事に。
「ア、アアアァ、ァァァァァァァァ!!!」
腕が千切れ、引き裂かれ。それでもまだ、『強欲』は活動を止めない。
止めてしまえば、自分は消えてしまう。消えてしまえば、もう何も手に入らない。
自らの欲求が止まる事への拒絶反応から、悪意の塊は動き続ける。
何を欲しているか、自分でも判っていないにも関わらず。
「こやつ、まだ!」
リタとオルガルの声に全てを察したレイバーンは、信じられない光景を目の当たりにした。
引力と斥力によってふたつに割かれた身体が、別々に行動を開始している。
裂けた部分を無理矢理、模倣による腕で覆っていく『強欲』。
疲弊した魔獣族の王の前に現れたのは、痛々しくも禍々しい二体の化物だった。
「ぐっ……」
臨戦態勢を取ろうとするレイバーンだが、既に指の一本すら動かす力も残っていない。
思考が反応しようとも、身体がついていかない。
それを好機だと見た二体の『強欲』は、容赦なくレイバーンの腕を折っていた。
「ぐああああああっ!」
悲鳴を上げるレイバーンを、悪意の塊は特等席で眺めている。
彼の悲鳴が余程気に入ったのか。喉を潰すのは最後にしようと、左右の『強欲』が同時に決めた直後。
そうはさせまいと、駆け付けたオルガルが乱入をする。
「これ以上は、やらせはしない!」
二人の間へ割り込むようにして、オルガルは滑り込む。
宝岩王の神槍の穂先と柄を以て、左右の『強欲』両方へ一撃を加える。
重力の向きを変え、まずはレイバーンから引き離すという算段だった。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!?」
「コイツ……!」
だが、『強欲』は決して下がったりはしない。
重力の向きを変えようとも、抗えばいい。
二体の『強欲』はそれぞれ、足の代わりに造った腕で大地を掴んでいる。
「ぐっ!」
引き離す事には失敗したが、オルガルは即座に迎撃行動へと移行する。
二体に増えたのではなく、力が半減したはずだと考えたオルガルは、まず片方を集中的に叩こうと神槍を突き立てた。
「アヒィ……!」
尤も、『強欲』にとってはオルガルの考えなど関係が無い。
新たに現れた玩具をどう楽しむか。その為には、まずこの不愉快な神槍を取り除かなくてはならない。
右半身の『強欲』が、宝岩王の神槍に自らの胴体を捧げる。
鋭い突きに貫かれる一方で、無数の腕はオルガルの身体を捕まえた。
「ぐ、ううううううっ!」
悪意に象られた腕は、オルガルへ容赦なく負荷を加える。
骨を軋ませながらも、決して宝岩王の神槍を抜こうとはしないオルガル。
重力の向きを何度も変えながら、彼もまた『強欲』へ強い負荷をかけていく。
ここまでくれば、残るは意地の張り合いだった。
しかし、それはあくまでオルガルと右半身の『強欲』との間による。
自由となった左半身の『強欲』が、背後からオルガルへ襲い掛かろうとした瞬間。
「――神の御心は永久に朽ちぬ耀きを。総ての生きとし生ける者へ、永久の安らぎを与え賜え」
目一杯の祈りと祝詞。そしてリタの魔力が込められた渾身の一撃が、『強欲』の左半身を貫く。
肉体に風穴が開くと同時に、模倣によって象られた悪意の塊がボロボロと崩れていく。