481.悪意を創造する者
「クフ……。ヒ、ヒヒヒ……!!」
マーカス・コスタは自分独りの空間で高笑いを上げていた。
『憤怒』の男とマギアから得た研究成果を元に、魔導石を介して生み出した躯。
あの一件で『憤怒』を一時的に自分の制御下に置いていたのは大きな収穫だった。
おかげで『憤怒』の能力についてはかなりの知見を得る事が出来た。
コーネリア・リィンカーウェルの『魂』を元に、造り上げた意思を持った躯。
『核』となる魔導石を通して、マーカスは周囲の状況を把握する。
出来は『憤怒』の男が造った躯とは比べ物にならないと自負している。
ただ、問題があるとすれば。
コーネリアは自分が最初に下した縛り以外は自由意志で動いている節が見受けられる。
当時の彼女を追求しすぎた弊害ではあるが、大前提の命令には背けない。些細な問題だった。
合成魔獣や人造鬼族も、ミスリアを苦しめるのに一役買っている。
特にアルジェントには、直接人造鬼族にする術を持たせた。
敵の戦力からいくらでも現地調達が出来るのは。一石二鳥だ。
己の研究成果が、ミスリアを追い詰めている。
自分の価値を認められなかった、ミスリアを甚振る様を眺めるのは至福のひと時だった。
……*
初めは単純な好奇心だった。
偶々見つけた瀕死の魔物。どうせ『死』を待つ身であるのなら、自分が有効活用をしてやるべきだ。
命の尊さを知っているからこそ、命を堪能するべきだという詭弁の下、彼は悪意に手を染める。
一体だけでは試せる事も限られる。
彼がより多くの魔物を欲するのは必然だった。
研究室の連中は、魔術の研鑽に勤しんでいる。
たまに魔物を調査したとしても、あくまでそれは対策を教本化する為だった。
根本的に価値観が理解出来ず、マーカスにとってはとても退屈な作業だった。
怪しまれずに実験資料を得られるのは、有り難かったが。
やがてマーカスは幾つもの魔物から四肢を、臓器を継ぎ接ぎしていく。
魔物は人間よりも、体内に蓄えられている魔力の割合が大きい。
その点に着目した彼は、魔力を基に魔族の体質を弄り回していく事を覚えた。
仕方がなかったのだ。人間の肉体も実験したい気持ちはあるが、足が付いてしまう。
万が一追及されてしまえば、逃げる手段を持ち合わせてはいない。
一生懸命説明をしたところで、ミスリアは理解しないだろう。
顎で使っている従者や、欲望の捌け口にしている者より遥かに有意義な内容に使っているというのに。
だから魔物で我慢する日々が続いた。
尤も。ひとつ解剖する毎に得られるものは、ひとつどころではない。
退屈する日々はなかった。自分は研究に一生を費やすと、いつしか確信していた。
偶然、魔族が人間に成ろうと造られた薬の調合法を知ったのもこの時だった。
普段から魔物の生態を解明していたからか、マーカスはこの薬の本質にいち早く気付いた。
魔力を蓄える為の器を小さくするのではなく、逆に大きくしてみてはどうだろうか。
こうして彼の手が加わった薬は、人間を魔族へ変貌させるものに変わっていった。
同時に「この薬を人間に使ってみたい」という欲求が生まれるのは必然だった。
今まで人間を手に掛けなかったのは、自分に立場があるからだ。その一線を越えてしまえば、地獄が待っている。
理性がマーカスに「待った」と呼びかける。
世の中。特にこの国で『命』を軽んじている催しがあるではないか。
そこからひとつぐらい摘み食いをしても、早々バレるものではない。
本能がマーカスに「行け」と命じる。
理性と本能の衝突は、せめぎ合いにすらならなかった。
ずっと理性は、彼の本能に抗い続けて疲弊していたのだ。新たな波に、耐えられるはずもない。
こうしてマーカスは秘密裏に得た犯罪者へ、薬を投与した。
姿形が下級悪魔へ変貌した瞬間、歓喜に打ち震えた。
今までの研究では味えない。例えるならば、初めて舌に甘露を載せたかのような幸福感。
証明できた。報われた。自分はなんだって出来る。
万能感に包み込まれるマーカスだったが、彼は間違いなく一線を越えた。
その瞬間を両の眼で捉える者は、常に彼の動向を探っていたのだ。
「見せてもらったぞ、マーカス・コスタ」
足音もなく忍び寄る、黒衣の男。
ビルフレスト・エステレラが、マーカスの前に立ちはだかる。
「エ、エステレラ卿……」
この瞬間。マーカスは自分の人生が終わったと確信した。
エステレラ家といえば、自分達の統治するウェルカ領を管轄する、謂わば上役だ。
高揚で震えていた唇は、原因が恐怖によるものへすり替わっていた。
ただそれは、全てを失うからではない。
これ以上、研究が出来ないという後悔から来るものだった。
僅かな心の機微を、悪意の申し子は見逃さない。
「案ずるな。私は貴殿を口外するつもりもなければ、粛清するつもりもない」
「え……」
ビルフレストの意外な言葉を前に、マーカスは思わず顔を上げてしまう。
見上げた先にあるはずの彼の表情が読み取れないのは、闇夜のせいではなかったと感じる。
「むしろ、私は貴殿の才能を高く評価している。私の下で、今まで以上に腕を振るってもらいたい」
差し伸べられた手を取るまでに、時間は要さなかった。
こうしてマーカスは、ビルフレストの下で己の欲望を満たしていく。
ミスリアを破壊し、世界が悪意に染まった後の世界で。
自分の行いが賞賛され、認められる日は近いと信じている。
……*
その日は。いや、その瞬間はもう目の前まで近付いている。
後ほんの少し手を伸ばせば、全てが手に入る。
世界再生の民が世界を支配してしまえば、全ての命は思うがままだ。
主君も功績を認めてくれている。自分の研究なくしてはここまで辿り着けなかったと。
待ち遠しい。今まで以上に、『命』を弄り回せるようになる瞬間が。
きっと手が足りなくなる。人造鬼族や躯の研究を進めなくてはならない。
そうだ。生意気だったあの女も、躯として扱えば自分に逆らえはしない。
勿論、土塊の肉体ではあの豊満な身体を愉しめはしないだろう。
頭脳から身体。どちらかしか選べないのは、非常に勿体ない。
殺してしまえば取り返しがつかない。
躯にするのは最終手段。彼女の心を折る術を一通り試してからだ。
やりたい事。試したい事をマーカスは指を折りながら数えていくが、両の手では足りない。
他の誰よりも陰湿的な悪意により、マーカスの口角が歪む。
だが、彼の願いはまだ成就されていない。
その前に彼自身が越えなければならない障害は、すぐそこにまで迫っていた。
「見つけたぞ、マーカス!」
呼吸を乱しながらも、十分な程の怒気が伝わる声にマーカスは振り返る。
その先には、逆光を浴びる一人の少女が居た。
光によってはっきりと顔を見た訳ではないが、誰なのかは判る。
突如、戦場から姿を消した少女。かつての同胞、トリス・ステラリード。
「これはこれは、ステラリード卿。よくここが解りましたね」
マーカスは内心、焦りを感じていた。
面と向かえば、自分がトリスに敵う道理はない。
けれど、決して表情には出さない。
彼女の性格を熟知しているからだ。こちらが余裕を見せればその分、彼女は熱くなると。
そんなマーカスの心情など知る由もなく、トリスは彼への警戒を緩めない。
「ああ……。実際、骨が折れる作業だった」
苦笑いにも似た表情が、トリスがこの場所に至るまでの道のりを物語っていた。
コーネリア・リィンカーウェルから発せられる魔力の残り香。
それが彼女自身のものではないと仮定したトリスは、賢人王の神杖を以て残滓を辿る事を試みた。
コーネリア本人とは違い、儚く消え入りそうな魔力を懸命に辿った末。彼女は漸くこの場所へと辿り着いた。
「まさか術者が貴様自身だったとはな」
トリスは驚きを隠せない。
十中八九。マーカスが絡んでいるだろうとは思っていた。
しかし、まさか彼自身が術者だとは思ってもいなかった。
「私の研究成果を有効に扱える人間が限られているだけのことですよ」
「なにが、『有効に』だ……っ」
その研究で、どれだけの人間の人生を狂わせたというのか。
追い詰められながらも余裕の態度を崩さないマーカスに、トリスは苛立ちを覚えた。
「今すぐ、コーネリア・リィンカーウェルに掛けた術を解け!
彼女だけじゃない! 双子の兄の身体も、元に戻してもらう!」
ひとりの魔術師として、トリスは許せなかった。
ミスリアだけでなく、魔術界に於いて多大な貢献を齎した才媛。コーネリア・リィンカーウェル。
死して尚、彼女の功績は語り継がれている。伝説上の存在を、悪意で穢している。
彼女の件だけではない。人造鬼族の実験台となった双子の兄、スリットの件も怒りを忘れた事はない。
今でこそ賢人王の神杖の力で活動を抑えているが、決して治癒された訳ではない。
兄は自分と違い、まだ道を誤った事にすら気付いていない。
そのまま生涯を終えるなんて、救われないにも程がある。
マーカスには何が何でも、彼を元に戻す方法を吐いてもらう必要があった。
「コーネリア・リィンカーウェルの件については、承服しかねます。
私の上役はビルフレスト様であって、ステラリード卿に命令される謂れはありません。
そもそも、貴女は世界再生の民を裏切った身ではありませんか」
「そういう問題ではない! 彼女の『魂』をこれ以上、穢すなと言っている!」
「穢す? それはステラリード卿の主観でしょう。彼女自身は、今のミスリアに憤りを感じていたようですよ。
粛正する機会を与えたに過ぎません」
「貴様という奴は……!」
コーネリアが忌み嫌う貴族の一人が自分である事を棚に上げながら、マーカスはほくそ笑む。
彼女がその事実に気付いた所で、術者である自分に危害を加える事は出来ない。
『始まりの魔術師』の尊厳を穢している。その事実は、彼に必要以上の万能感を抱かせた。
「ああ、それと。兄君の件でしたら、私にはどうしようもありません。
人造鬼族への改造は、不可逆的なものですから」
「なっ……」
突き付けられた言葉は残酷で、トリスから血の気を引かせるには十分な内容だった。
スリットはもう二度と、元には戻らない。そう、宣告されたのだから。
(戻らない、スリットが……?)
「私としては、元に戻そうと奔走している方が理解できません。
より強い魔力の器を与えられたのです。一体、何が不満なのですか?」
反応するだけの余裕が、トリスには無かった。
マーカスの挑発は、彼女の耳を素通りしていく。
信じられなかった。嘘だと言って欲しかった。
まだスリットとの決着はついていない。伝えなければならない事も沢山ある。
それが叶わないなんて、信じられなかった。
指先から力が抜け、賢人王の神杖が手の中を滑っていく。
落とさないように慌てて握り直したトリスは、この神杖を託してくれた人間の事を思い出した。
(ライル殿……)
彼と過ごした時間は決して長くはない。
けれど、トリスにとってこれまでの人生よりも濃厚な時間だったと確信している。
「愛している」なんて面と向かって言われたのは、初めてだ。嬉しかった。
これも全て、自分を活かしてくれただらしのない男のお陰だ。
(ジーネス……)
そのだらしのない男は、今際の際まで自分の身を案じてくれていた。
彼のように生きる事は出来ないけれど、遺してくれた言葉は大切にしたいと思う。
トリスは自分の人生に大きな影響を与えてくれた人物に想いを馳せる。
こんな出逢いがスリットにもあれば。自分の代わりにスリットが行っていれば。
そう思わずには居られない。
だけど、きっとジーネスもライルもそんな事は望んでいないだろう。
二人とも「どっちも救われるべきだ」と言ってくれるという確信が、胸の内にはあった。
(……そうだ)
トリスの眼は再び光を取り戻す。諦めるには、まだ早いと。
マーカスは人間を化物に変えただけだ。不可逆的なのではなく、彼がそこまで辿り着いていないだけだ。
そうでなければ、自分が進行を抑えられるはずがない。
「人間は魔力の器としてはあまりにも脆弱で――」
「もういい、マーカス。黙ってくれ」
訊いてもいないのに未だベラベラと語り続けるマーカスを、トリスは鋭い眼光で睨む。
吹っ切れたか、逆上したか。どちらでも構わないという顔をするマーカスに、トリスは応戦する。
「対して悩む必要もなかった。貴様に出来ないだけだ。貴様以上の天才を、私は知っている。
ベル・マレット博士ならば、何れ必ずスリットを元に戻してくれるだろう。
無論、私も出来る限りの全てを以て彼女に協力をさせてもらうがな」
「……ッ」
トリスははっきりと、ベル・マレットの方が格上だと言い切った。
マーカスは奥歯が割れそうな程の力で、強く噛みしめる。
彼女の神経を逆撫でするつもりが、逆に自分が逆撫でされていた。
「私が、ベル・マレットに劣ると……?」
「当たり前だろう」
比べるまでもないとトリスが事も無げに言い切った瞬間。
マーカスの怒りが爆発した。
「あんな、魔導具に現を抜かして、玩具で遊んでいるような人間が!?
私より、格上であるはずがないだろう!」
怒りに身を任せたまま、マーカスは周囲に設置した魔導石を起動させる。
現れたのは研究中の怪物。躯から造られた、『死』を恐れない人造鬼族と合成魔獣。
「トリス・ステラリード! その発言、後悔するがいい!
貴様は楽には殺さない! 一生その身を弄んで、生まれてきたことを後悔させてやる!」
「一時でも悪事に手を染めた以上に、後悔することなどありはしない。
マーカス、貴様こそ覚悟しておけ!」
もう、諦めない。心も折れない。
欲しい未来も、皆の未来も自分で掴みとってみせる。
賢人王の神杖を構え、トリス・ステラリードは己の為すべき事に身を投じた。