476.分水嶺
「これは……」
空から降り注がれる異変を初めに察知したのは、護衛として周囲の警戒を行っていたロティスだった。
次の瞬間。天井を突き破り、悪意で彩られた流星が降り注ぐ。
「まずい!」
接収によってアルジェントが隠し持っていた悪意の種が、容赦なく撒かれていく。
治療に専念していたリシュアンだったが、危険性を感じ取ったのか即座に迎撃行動へと移る。
部屋の外へ押し流すように放たれた水の魔術は、種子の一部を撃ち落とした。
しかし、全てではない。
打ち込まれた種子は幾ばくかの人間へと被弾する。
瞬く間に種子は人間の肉体を肥大化させ、人造鬼族の姿へと変貌させていく。
「うっ……」
先刻までミスリアの為に戦っていた騎士であり、護るべき民だった存在が変わり果てていく。
凄惨な様子を前にして、フィロメナは思わず顔を背けた。
救う手立てはないのだろうかと、自分に出来る事を模索するフィロメナ。
しかし、無情にも彼女が人造鬼族となった人間に出来る事は存在していない。
「お……ア、ォアアァァ……」
言葉すらもままない姿で、人造鬼族がのそのそと歩み始める。
先刻まで共に助け合い、支え合い、同じ未来を目指していた者達の変わり果てた姿に、手を差し伸べる事すら出来ない。
己の無力さに打ちひしがれている間さえも、人造鬼族は彼女の命を狙って一歩ずつ距離を縮めていく。
「フィロメナ様っ!」
ロティスの決断が早かったのは、護衛として優先するべきものをはっきりと決めていたからだろう。
王妃たるフィロメナを失ってしまえば、ミスリアは終わり。そうでなくとも、イレーネに合わせる顔がない。
「ぐ、う……」
剣を押し当てるも、肥大化した筋肉の塊は刃を通さない。
一体だけでも厄介だというのに、どれだけの人造鬼族がこの場で生まれてしまったのか。
この戦場にフィロメナを置いてはおけない。
そう判断したロティスは、強い口調でイディナへ指示を出した。
「イディナ! 君はフィロメナ様を連れてこの場から離れるんだ!
いいか! 必ず、護り通すのだ!」
「は、はいっ!」
有無を言わせない強い口調を前にして、イディナは戸惑いながらも頷いた。
逡巡している時間はない。一刻も早くフィロメナを連れて離れる事が、自分に出来る最大の援護なのだと悟ったからだ。
「フィロメナ様、ぼくといっしょに――」
共に逃げるように促すイディナを前にして、フィロメナは下唇を噛みしめた。
人造鬼族と変わり果てた者は一部だ。この場には、先刻まで共に分かち合った仲間に襲われている者もいる。
気持ちの上では彼らを放ってはおけない。けれど、自分がこの場に居ては足手まといにしかならない。
「……解りました。ロティス、リシュアン。民をお願いします。
救える者を可能な限り、救ってください。それが私の、願いです」
「承知いたしました」
無力感と屈辱感を抱きながら、フィロメナが弱々しい声を漏らす。
命令ではなく願いを託し、彼女はイディナと共にこの場から離れていく。
「そういうわけだ。リシュアン、すまないが付き合ってもらうぞ」
人造鬼族から一度距離を置き、ロティスは呼吸を正す。
王妃の願いを無下には出来ない。もうこれ以上、犠牲者を増やさないと、彼は覚悟を決めた。
「はい。お付き合いさせて頂きます」
かつての行いを悔いていたリシュアンもまた、この惨状を放ってはおけない。
ばら撒かれた悪意を少しでも食い止める為。彼は自らの罪を洗い流そうとするかの如く、水の魔術を放つ。
仲間だった者。護るべき存在だった者が次々と倒れていく。
ロティスとリシュアンによる戦いは、とても苦いものとなっていた。
……*
「フィロメナ様っ! 先に!」
自分達を追う人造鬼族から逃げるように、イディナとフィロメナは走り続ける。
王宮に振りまかれた悪意の種子は、部屋の外でも人造鬼族を生み出してしまっていた。
呂律の回らない、目の焦点が合わない。とても人間だと思えない怪物から、二人は必死に逃げていた。
(でも、どうすれば! どうすれば……!)
イディナは不安で胸が押しつぶされそうになっていた。
自らが吸血鬼族の眷属になりそうだった経験から、自分は本当に運が良かっただけなのだと思い知らされる。
こうやって自分の意思すら持たない化物になっていた可能性があったのだから、無里もない。
加えて、ただの食堂の娘であるイディナが王妃を任されるという歪な状況。
重く圧し掛かる責任感。正確に推し量った自分の力量。導き出された結論は、力不足という無情な結果。
けれど、それはイディナにとって悪い事ではない。
むしろ己の実力を過信した結果フィロメナを危険に晒さない分、しっかりしているとも言える。
「フィロメナ様! 情けない話ですけど……。きっとぼくだけじゃ、護りきれません。
だから、お願いです。妖精族の里へ、避難をしてください!」
自らの実力を痛感したイディナが出した結論は、妖精族の里へフィロメナを逃がす事だった。
転移魔術の軌道後に転移装置を破壊してしまえば、人造鬼族の脅威からフィロメナは護られる。
この時。イディナは理解をしていた。
自分も妖精族の里へ退避をした後では、人造鬼族が追ってくるかもしれない。
ならば、ミスリア側で転移装置を破壊した方が確実だと。
その役目は自分が担う。
壊した後にどんな運命が待ち受けていようとも、成さねばならない。
イディナはイルシオンに任されたのだ。この場に残り、民を護る事を。
自分の実力では、直接的に民を護る事は叶わなかった。
だからせめて、この国で一番大切な人間だけでも護る。
そうでなければ、イルシオンに合わせる顔がない。
「……解りました」
イディナの覚悟を知らぬまま、フィロメナは首を縦に振る。
ほっと胸を撫でおろしたイディナは恐怖で震える手を抑えながら、彼女の手を引いた。
これが自分にとっての分水嶺だと、人造鬼族の魔の手から、王妃を逃す事を己へと誓った。
そこから先は、兎に角必死だった。
動きが鈍いとはいえ、肥大化した筋肉の塊だ。怖くない訳がない。
実際、軽く摘まんだだけの壁がクッキーのように軽々と砕かれたのだ。追い付かれる訳にはいかなかった。
もしも掴まれたら、追い付かれたら。考えないようにしても、どうしても思い浮かべてしまう。
余裕がなくなり、自然と呼吸が浅くなる。酸欠のままイディナは、ひたすらフィロメナの手を引き続けた。
……*
大した時間走った訳でもないのに、イディナは背中を汗でぐっしょりと濡らしていた。
緊迫した空気に晒され続けた影響か、頭が真っ白になっていく。
けれど、その時間ももうすぐ終わる。
フィロメナを転移魔術で逃がせば、後は転移装置を破壊するだけ。
その後、自分がどうなるかは考えていない。
考えてしまえば、脚が動かなくなると思ったからだ。
華奢な身体には収まり切れない覚悟の下、イディナとフィロメナは転移装置へ辿り着く。
(これで、フィロメナ様を!)
フィロメナを妖精族の里へ逃がす事が出来る。
恐怖と戦い続けた時間が報われる瞬間の訪れとなるはずだった。
しかし、悪意は彼女達を見逃してはくれなかった。
二人を追ってきた人造鬼族は、基となった人間の知能を著しく下げる。
楽をしようとした結果。怪物は、己が尋常でない筋肉を秘めている事に気が付いた。
追い掛ける事すら億劫だと感じる怪物は、壁を次々と破壊して直進し続ける。
結果、偶然ではあるがイディナ達の元へと辿り着く事になる。
それはイディナ達にとっては、非情な結果でもあった。
「――っ!? 転移装置が!」
崩された瓦礫が覆いかぶさるように、転移装置を隠していく。
このままではフィロメナを妖精族の里へ送れない。
瓦礫を動かしている間、人造鬼族は黙ってくれているだろうか。
尋ねるまでもなく解る。答えは、ノーだと。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……)
直前で希望を断たれたイディナに、これまで誤魔化してきた疲労全てが重く圧し掛かる。
気を取り直している時間も、作戦を立てる時間もない。
人造鬼族の巨大な腕が、彼女を叩き潰そうと振りあがっているのだから。
もう逃げられない。
そう悟ったイディナは、力いっぱいに目を閉じる。
もう数秒もしないうちに、あの巨大な腕が自分を挽肉のようにしてしまうのだ。
「――っ! イルさん……っ!!」
最後だと感じたイディナが、イルシオンの名を呟いたのは約束を守れなかった事に対する後ろめたさからだろうか。
実際のところ、その心の内はイディナ本人にも判っていない。ただ、咄嗟に出たのが彼の名だった。
張り詰めた空気が、空間を支配する。
いくら待てども、人造鬼族の腕はイディナへと届かなかった。
「……?」
何が起きているのか、イディナには解らない。
自分は今、弄ばれているのだろうか。
瞼を持ち上げた瞬間、顔が絶望へと変わる様を眺めようとしているのだろうか。
ただ、もしもフィロメナを逃がす好機であるのなら。
こうして怯えている訳にはいかないと、イディナは勇気を振り絞る。
持ち上げた瞼から、光が差し込む。眼前に広がる光景は、予想だにしないものだった。
「――アガッ!?」
人造鬼族の膨れ上がった腕が、天井へ向かって落ちている。
まるで重力の向きが変わったような、不思議な光景。
「イディナさん、大丈夫かい?」
眼前に立つのは、槍を構えた男性と、その様子を眺めながら力強く頷く老人。
自分の名を呼ぶその男を、イディナは知っている。
「オルガルさん!? オルテールさん!?」
かつて砂漠の国で出逢った、マギアの貴族とその従者。
オルガル・バクレインとオルテール・ニムバスト。
神器の一本。宝岩王の神槍の継承者である彼らが、姿を現していた。