44.曖昧で絶対的なもの
――ああ、失敗した。
向き合う女王と族長を見ながら、レチェリは喪心した。
もう少し、もう少しだったのだ。
邪魔な魔王は倒れ、女王は悔悟し、里から子供は消え失せる。
後は隣国が混乱に乗じて蹂躙する。たったそれだけの事だったのだ。
妖精族の里は、滅びに向かうはずだったのだ。
(いや、違うな)
レチェリはただ、忌々しかったのだ。女王を、リタ・レナータ・アルヴィオラを。
女王だから? 神器に認められたから?
たったそれだけの事で、何もかも得ようとするあの女が憎くて堪らなかった。
魔族に恋をし、人間を友人として迎え入れる。周囲は咎めつつも、決してそれを取り上げる事はしない。
自分の母は、そんな願いすら持つことを許されなかったというのに。
本当に、失敗したと思う。
斥候の際に接触したギランドレの将軍。この男は使えると思った。
だが、互いの目的から計画が肥大化してしまった。
自分は違ったのだ。
女王自身の手で愛する者を殺め、彼女に深い絶望を味合わせるだけでよかった。
彼女の心さえ壊れれば、妖精族の里が崩壊するのも時間の問題だったのだ。
結果を焦り過ぎた。
失敗した。いや、途中までは上手くいっていたのだ。
多少強引ではあったが、思惑通りに事を進める事が出来た。
リタに神弓を射させる事までは出来たのだ。
邪魔をしたのは、リタの後ろにいるあの女だ。
まさか、腹に穴が開く事を厭わずに飛び出してくるとは思っていなかった。
それどころか、あの回復力は一体なんだというのだ。あれはもう、化物の類だ。
計画を間近にして、人間が訪れるとは思っていなかった。
だが、懸念はしていなかった。
イリシャ・リントリィとは会話した事がある。あれも特殊な人間だが、それ故にただの人間以上に死を恐れている。
フェリー・ハートニアも、同類だと見誤った。
異質にも程がある。死なない人間など、聞いた事がない。
人間の番いが、居なければガレオンと汚い罵りあいをする事もなかっただろう。
あの瞬間、妖精族の自分に対する信用は地に落ちた。焦り過ぎたのだ。
尤も、自分が引いたところであの男が退くとは思えなかったが。
自分の居場所は、アルフヘイムの森に無い。
消えたのではない。はじめから存在していない。
……*
「レチェリ、教えてください。どうして貴女はこんな事を――」
リタが、目元を腫らせながらも問う。
まだそんな戯言をいうこの女が、レチェリは心底憎たらしかった。
「まだ、そんな事を訊ける余裕があるんですね。
いや、愛しの人狼が生きているからこその態度ですか?
彼の力があれば、私などひと捻りでしょうし」
挑発だと頭で理解していても、揺さぶられる。
神弓といい、レチェリは自分とレイバーンに対して必要以上に突っかかる。
それがきっと彼女の動機だ。歯を食いしばってでも、リタは問う事を止めない。
「……そうですね。優位に立っているからと思われても、良いです。
それでも、教えてください。貴女の言葉を、聞かせてください」
「貴女には、理解できませんよ」
徹底した拒絶の感情が抑えられず、露わになる。
理解されたくもなかった。この女にだけは、理解という形で上辺の態度を見せられる事すら癪に障る。
リタに続いて、ストルが口を開いた。
「レチェリ、お前はこんな事をする奴では無かったはずだ。
族長同士の諍いも止めてくれる。そういった奴のはずだろう」
「……はず?」
煩わしい言葉だった。神経が逆撫でされる。
少しばかり長い時間を共に過ごしただけで、理解した気になっている。
この男も、結局は何も見えてはいない。
「貴様たち妖精族は、いつもそうだ!
勝手に……私がどうだとかを決めるな!」
レチェリはずっと魔法陣の形で留めていた魔術を発動する。
ストルも使用していた、妖精族特有の精霊魔術。
若木が土や岩石と混ざり合い、魔造巨兵を生み出す。
レチェリが自身の魔力許容いっぱいまで込めた、二体の魔造巨兵が立ち上がる。
レイバーンよりも巨大なそれは、ゆうに5メートルは超えている。
限界まで魔力を使った為か、頭が少しふらつく。
それでも引き下がれないレチェリは、魔造巨兵の肩へと乗った。
「くそ……!」
ストルは魔造巨兵の存在を見て、臨戦態勢に入った。
あの質量で暴れられると、すぐにでも結界が壊されかねない。
ただでさえ、内側はそこまで強固に造られてはいない。
シンが何の抵抗もなく外に出た事が、それを証明していた。
「レチェリ……」
「そんな眼を……するなッ!!」
それでもまだ対話を試みるリタに腹が立ち、レチェリは魔造巨兵の拳を振り下ろした。
決別を叩きつける、決定的な一撃。
「リタ様!」
援護に向かいたいストルだったが、もう一体の魔造巨兵に邪魔をされて叶わない。
リタは、自身の精霊魔術でそれを受け止めようと試みる。
この質量を叩きつけられて、無事でいる自信は無かった。
レチェリの真意も知らずに、この拳を受け止める事は無理だと思った。
「させない……ってば!」
精霊魔法による防御壁を魔造巨兵突き破ろうとする直前。
魔造巨兵の腕に強い衝撃が襲い掛かる。
「なっ……!」
樹と岩、そしてレチェリの魔力で増強されたはずのそれは振り子のように弾き飛ばされる。
魔造巨兵の右腕に拳大の跡がくっきりと残り、想定外の方向から襲い掛かった負荷に巨体の体勢が崩れる。
「フェリー……ちゃん」
膨大な魔力を持つ、不老不死の魔女。
彼女が己の渾身の魔力を込めた、強烈な一撃だった。
「いったぁ~……」
殴った手をぷらぷらと振りながら、フェリーはレチェリを見る。
逸らす事を許さない、真剣な眼差しで。
「あなたも、その魔造巨兵もスカスカじゃん。ぜんっぜんたいしたコトない!
リタさんはちゃんとみんなのコト、想ってる!
何に怒ってるのかは知らないけど、逆恨みっていうのだけはわかる」
フェリーは普段、魔術を使用する事を控えている。
それはひとえに魔力の制御が苦手だからだ。その部分を魔導刃で補い、戦っている。
魔導刃の出力はフェリーの魔力そのものに依存している。莫大な炎も、生み出しているのはフェリー自身だった。
その魔力を、拳に込めて魔造巨兵へ叩きつけた。
尤も、その身の強度を無視した行動には代償が伴う。
現に今の一撃でフェリーの右拳は砕け、皮膚が裂ける。拳伝いに鮮血がぽたぽたと地面へ零れていく。
それは愛する人を手に掛けようとし、今もなお同胞と対峙しているリタの代わりに涙を流しているようにも見えた。
「き……さまっ……」
レチェリは歯噛みした。
一度ならず二度までも、この女は邪魔をする。
それどころか、「スカスカ」だと言い放った。昔年の恨みを、大したものではないと断じた。
憎たらしい。リタも、この女も、憎たらしい。
「なに? 文句があるならちゃんと言ってよ」
「……フェリーちゃん、ありがとう」
「え?」
リタがフェリーに下がるよう促す。
「二度も守ってくれて、ありがとう。
でも、ここから先は私がやるから。
……ちゃんと、責任を持つから」
妖精王の神弓が輝きを放つ。もう、迷ってはいけないという覚悟の現れでもあった。
リタが「だから、休んでて欲しい」と言うと、フェリーは考えた後に頷いた。
「責任? 一体貴女が何の責任を持つというのですか?
魔族を愛し、人間を友にし、それでも尚、神器と共にある!
どうして、どうして貴女だけが――!」
逆の腕で、再びリタへ魔造巨兵の拳を叩きつけようとした時だった。
「妖精王の神弓。私の声が聞こえているのなら、応えて」
神弓から放たれた無数の矢が、正確に魔造巨兵の関節部へと突き刺さる。
一発。二発。三発……リタがその手を止めるまで、関節という関節を撃ち抜いていく。
魔造巨兵の膝は崩れ、支えきれない身体は前のめりに倒れる。
肩に乗っていたレチェリも、振り落とされるようにリタの眼前へと転がった。
「なっ……」
レチェリが見上げた先に居る彼女は、自分が知らないリタの姿だった。
知らなかった。侮っていた。
妖精族の女王を。リタ・レナータ・アルヴィオラを。
彼女の本当の実力を見たものは、誰一人として居なかった。
神弓に選ばれたから、女王になった。お飾りだと思っていた。
祈りを捧げるだけの、象徴だと思われていた。
実際は違う。女王たる者だからこそ、妖精王の神弓に選ばれたのだ。
「レチェリ、もう一体の魔造巨兵も退かせて。
私は貴女を、討ちたくないです」
圧倒的強者が、弱者を憐れむ視線。
「そんな悠長な事を言っていないで、討てばいいじゃないですか。
それで魔造巨兵は止まりますよ」
「……っ! そうしたくないから、言っているんじゃないですか!」
垣間見せる優しさが、またレチェリを苛立たせる。
強者と弱者の境目がはっきりと引かれているようだった。
「強者の余裕ですか。そうですね、それだけの力があれば魔王と逢瀬を重ねても誰も何も言わないでしょうね!
私の、私の母は力が無かった! だから、死んだ! 心を殺した!
妖精族を憎みながら、この里で朽ちた!」
もしも自分の母が強者であるならば、違う道を歩んでいたのだろうか。
あるいはリタのように、里に受け入れられていたのだろうか。
そう思うと、目の前の存在はやはり腹立たしかった。
「……なにを、言っているんですか?」
リタは知らない。レチェリの母を。
自分が産まれるより先に、彼女は他界している。
レチェリの訴えが何を意味しているのか、問う事しか出来ない。
もう自分は終わりだと、レチェリは悟っている。
時間稼ぎをしても無駄だろう。残った魔造巨兵も、リタの前では赤子同然だ。
ガレオンが自分を庇い立てるはずもない。……終わりだ。
「――私の母は、人間を愛した」
リタの手が止まる。
自分がこれからどうなるかは解らない。
ならばと、レチェリは全てをぶちまけようと思った。
妖精族の摂理に逆らった女の末路を、この女に聞かせてやろうと思った。
「母は人間を愛し、その人間もまた母を愛した。
二人は妖精族の里を出て二人で暮らそうとしたが、許されなかった。
いや、一人の族長が許さなかった。私の父だ。
……本当の父かどうかは判らないがな」
レチェリは自嘲気味に笑った。
「それは、一体どういう……」
リタは、レチェリの言っている事が判らなかった。
「それってどういう……」
「しっ。これはわたしたちが首を突っ込んでいい話じゃないわ」
「……イリシャさん」
フェリーが問おうとすると、魔導刃を持ってきたイリシャがそれを制す。
長年続いた妖精族の掟に纏わる悲劇。
そうだとすれば、部外者が簡単に割り込んでいい話ではない。
「父は母を愛していたのだ。だから、その母の心を奪う人間の男が憎くて堪らなかった。
いや、羨ましかったのかもしれないな。だから、男を殺した」
「……っ!」
リタは言葉を失った。自分の常識では、到底考えられない所業。
他種族を愛する事が、どうしてそんな形に発展してしまうのか理解が出来なかった。
「父は族長だった。妖精族の力を欲した人間が、母を惑わせたと言った。
それでみんな納得してしまったのだ。直後、父は母を娶った。そして、私を身籠った。
……思えば、それが母なりの復讐だったのだろうな」
「意味がわかりません。どうして、それが復讐になるんですか?」
レチェリは彼女を嘲笑った。
同時に、まだリタとレイバーンがそうではないと確信した。
「そうしなければ、人間との子だと判ってしまうからだ。
すぐに身籠ってしまえば、どちらの子かは判別が出来ない。
……私は、自分が妖精族なのか半妖精なのかも判っていない」
彼女は「母にとって僥倖だったのは、私の外見が母に酷似していた事だろう」と付け加えた。
人間の男の特徴も、父の妖精族の特徴も、レチェリには見当たらない。
「……だから、妖精族の里に復讐を? お母さまの遺志を継いで」
「まさか」
レチェリは首を横に振る。
「母も、私がどちらの子かは判っていない。だから、私への干渉は殆どなかった。
あるいは、愛していたのはあの男だけで、その子供には興味が無かったのだろう」
だから、すぐに父と交わる事を選んだのだとレチェリは推測する。
もし、男との子である事に意味があるならきっと父と婚姻をしない。
復讐の道具として使う事を、選んだのだ。
「父も内心では、自分の子供ではない可能性を感じ取っていたのだろうな。
私と積極的に接する事は、あまりなかったように思うよ。
父が先立ち、母にこの話を聞かされた時は背筋が凍ったものだ」
その直後に、レチェリの母も命を落としている。
復讐する相手も居なくなり、生きる意味を失ったのだろう。
「……じゃあ、どうしてレチェリは族長を引き受けたんですか?
ずっと暮らしていた妖精族の里を、故郷だと想ってくれていたからじゃないんですか?」
「違う」
リタの問いに、間髪入れずレチェリは否定をする。
「意味が欲しかったんだ。私が、存在する意味が。
妖精族か半妖精か判らない、私の。
曖昧だが、絶対的に存在している境界線。私はどっち側に居ていいのか、その意味が」
それが判れば、妖精族の里でずっと暮らしていてもいいと思えた。
「心変わりをしたのは最近だ。リタ様、貴女が魔王を愛してしまったからだ。
初めはただの悲恋に終わると考えていた。
だが、誰も咎めない。認めなくても、邪魔はしない。
腹が立つだろう。私の存在が否定された気になったよ」
リタは言葉を失った。
どうすればいいのか判らない。自分が、彼女に言葉を掛けていいのかさえも。
「じゃあ、里が襲われたのは……」
自分の責任かもしれないと狼狽えるリタに、レチェリは笑って否定した。
「いいや、隣国は私が居ようが居まいが侵略を試みていただろう。
里が狙われた事は、リタ様には関係ないよ。私がそれに乗っただけだ。
……さあ、私の話は終わりだ。リタ様、早く止を刺してください」
言いたい事は、言った。
後は妖精族の女王が残りの人生を苦悩する。
本懐を遂げた訳では無いが、自分の復讐はこれで良しとしよう。
沈黙が流れる。断罪への、祈りを捧げる時間のようだった。
だが、リタの出した結論は違った。
「……お断りです」
リタの言葉に、レチェリは耳を疑った。
何故、断るのか。この期に及んで、手を汚す事を躊躇うのか。
やはり、この女は腹立たしい。
「レチェリが、恨んでいる事は分かりました。
でも、私はレイバーンを愛しています。
だから、レチェリも手伝ってください」
「……は?」
レチェリは意味が判らなかった。何が「だから」なのだろうか。
「私は、妖精族もレイバーンも大好きです。
イリシャちゃんたち人間とだって、もっと仲良くなりたいと思ってます。
そうすれば、レチェリのような哀しい思いをする人も減りますよね?
だから、レチェリも手伝ってください」
(ああ、そうか……)
レチェリは、リタの真意を理解した。
あの時、母は声を上げたのだろうか。
妖精族のみんなに、願いを伝えたのだろうか。
そう、考えるべきだったのか。
いつしか、もう一体の魔造巨兵もその動きを止めていた。
動かす気も、既にレチェリから失せていた。
神器のひとつ、妖精王の神弓は王と認めた者にのみ力を貸す。
彼女がどのような女王になるかは、誰にも解らない。リタ自身にさえも。
妖精族の里は変革期を迎えようとしている。魔族に恋をする、一人の少女の手によって。