464.手繰り寄せられる絶望
「あれを見ろ!」
視界を覆い尽くさんと広がっていく半球状の暗闇は、どこか邪神を連想させる。
かつてその魔術を間近で見た経験のあるストルは、禍々しい闇の空間へ対して思わず叫んでいた。
「蝕みの世界……」
続けて、魔術の正体を知っているテランがぽつりと声を漏らす。
自身が開発に携わった未完成の魔術。蝕みの世界。
蝕みの世界は莫大の魔力と引き換えに、相手を暗闇の世界へと引きずり込む。
取り込まれた者は永遠とも錯覚する暗闇の中で、精神の崩壊されも招いて行く。
術者が解く。もしくは死に至る以外での脱出方法はない、まさに一撃必殺と呼ぶに相応しい魔術だった。
弱点は術者自らも蝕みの世界に取り込まれてしまう。
そうしなければ、魔術の術式が安定しないが故に避けられない事象だった。
「ディダの奴。あの範囲で蝕みの世界を……」
一体戦場で、何が起きているというのか。
眼前に広がる闇の範囲は、問答無用で全てを呑み込んでいるだろう。
蝕みの世界にとって、敵や味方というものは意味を持たない。
よもや、今更世界再生の民へ寝返ったとは思いたくはないがと、テランは眉を顰めた。
直後。テランが胸に抱いた不安は杞憂に終わる。
尤も、それが彼らにとって良い事であるかどうかは別の話となるが。
「あれ、見てください!」
蝕みの世界の異変を真っ先に感じ取ったのは、オリヴィアだった。
一見すると半球状の暗闇が、広がっていく動きを止めたようにも見える。魔術の形が定まったと考えるのは、普通だった。
だが、真実は違う。
広がり終えた半球状の暗闇は、次第にその色を薄めていく。
外部を隔てる壁だったはずの黒はやがて、大気へ霧散するかの如く消えた。
「蝕みの世界が消えた……?」
「魔術を解いた可能性はないか?」
蝕みの世界は強力だが、味方が居る時に使うべきではない魔術だ。
実際に使用したはいいが、やはり弊害の方が大きいと使用を諦めたのではないかとストルが問う。
しかし、ストルの予想は師であるテランによって否定される。
「どうにも、そんな風には見えなかった。
何より、あの弟子がそこまで考えて魔術を行使したとは考え辛い」
まるで理解できないと、テランは更に眉根を寄せる。
魔術を解いたにしては、あまりにも短時間すぎる。あれでは、期待した効果は一切得られていないだろう。
「どういうことだ?」
トリスも世界再生の民に所属した経験がある為、蝕みの世界の知識は持っている。
だからこそ、テランの言いたい事が理解できた。
現状では、暗闇の空間が生み出されては消えただけ。無駄に魔力を消費する行動に、意味を見出せない。
余りにも不可解な一連の動きに、トリスも眉を顰めていた。
「魔力が足りなかった……。いえ、違う……」
そんな中でただ一人。
蝕みの世界を見た事のないオリヴィアだけが、意図ではなく現象そのものへ視点を変えていく。
魔力が足りなかったと仮定をしても、消え方が不自然だった。
例えるならば、魔術そのものが自ら幕引きをしたというべきか。
無論、魔術に意思が生み出される訳ではない。
それでも。オリヴィアからすれば、その表現が最も適当なのではないかと考えてしまうのだ。
現場に居ない彼女達では、決して真実は解らない。
ただ、決して状況は良くないのだと察する事は出来る。
「……現着しないことには、解らないままです。急ぎましょう」
言い表しようの無い不安を胸に抱えながら、大地を踏みしめる力が強まる。
一刻も早く戦場へ向かわなければ、取り返しのつかない事になる。そんな気がしていた。
……*
ディダは驚愕のあまり言葉を失っていた。
自分の持てる魔力全てを注ぎ込み、戦闘を尻目に詠唱を呟き続けた渾身の魔術がいとも容易く破られたからだ。
「な、んでだよ……。おい……!?」
かつてシンに破られた時とは違う。
自分の意識ははっきりとしている。むしろ、攻撃を一切受けた形跡などない。
それなのに、蝕みの世界は跡形もなく消え去ってしまった。
何がどうなっているのか理解できないと混乱するディダに、フードを被った女が笑みを浮かべていた。
「いやあ、初めて見る魔術で少しだけワクワクさせてもらったよ。
こういうのを見ると、進歩? ってヤツを感じられるよな」
まるで大道芸でも見た感想を述べるかのように、女はぱちぱちと手を鳴らす。
だがそれは、彼女が超一流の魔術師であるが故の感想でもあった。
「けどさ、まだまだ作り込みが甘いよな。
やりたいことはなんとなくわかるけど、周りを巻き込み過ぎだ。
これをきちんと完成させたいのなら、100年じゃ足りないだろうよ」
粗削りな魔術を前にして、とても残念だと女は何度も頷く。
一切崩れない余裕を前にして、ディダの頭に血が上っていく。
「ッ……! テメェに、何が解かるってんだよ!?」
安い言葉ではあるが、ディダは感情をぶちまけるしか出来なかった。
これでも蝕みの世界の開発には、相当な年月をかけた。
不完全である事は認めざるを得ないが、あくまでそれは利便性に於いて不安が残るという話だ。
標的にした人間からダメ出しをされるなど、屈辱でしかない。
「解るからこそ、こうして消してみせたんだろうが」
逆上するディダとは裏腹に、女はやれやれと肩を竦めて見せる。
彼女の言葉が理解できず、ディダはただただ鼻息を荒くするだけだった。
「それよりも、お前さんは相当な失敗を犯したよ。
なんせ、これだけの合成魔獣を自由にしたんだから」
「――ッ!」
蝕みの世界によって闇に紛れた合成魔獣が、女により解放された結果。
合成魔獣の足跡を追えるものはおらず、戦場へ霧散していく。
戦場に響き渡る悲鳴は、合成魔獣が龍騎士や魔術師へ襲い掛かっている証だった。
ディダの想定では合成魔獣諸共、蝕みの世界の中へと閉じ込められているはずだった。
仲間の化物による同士討ちすらあり得る状況を前にして、この女の余裕を打ち崩す算段。
彼の目論見はいとも容易く破られ、あまつさえ味方を危機に追い込んでしまう。
「くそっ!」
こうなったのは自分のせいだ。
咄嗟に魔術を放つ事で、ディダは合成魔獣の標的を自分へと移そうと考える。
「なんで、なんでだよ!?」
しかし、上手く行かない。
蝕みの世界を放った影響で、確かに自らの魔力は枯渇寸前だ。
それでも、まだ注意を引き付ける程度の魔力は残っているはずだった。
だが、魔術が撃てない。正確に言えば、撃った傍から霧散していく。
意味も判らず、ディダは焦りと後悔を募らせていくばかりだった。
「やめろ、やめてくれ……」
ディダは無力さのあまり、懇願以外の手段を採る事が出来なくなっていた。
解放されて以降。ディダはミスリアの騎士団で、見習いとして日々しごかれている。
逃げ出そうと思った回数は、とても数えきれない。
それでも逃げ出さなかったのは、他に行く当てもなかったからというだけではない。
なんだかんだ言って、騎士団は自分を受け入れてくれていた。
もう少しだけなら、居てやってもいい。
湧き上がった気持ちは次第に、居心地の良い場所へと変わっていった。
だが、眼前で起きる凄惨な光景はささやかな幸福さえも破壊していく。
自分を受け入れてくれた人たちが、自分のせいで命を落としてしまう。
絶望のあまり、ディダは膝を折る。
相手の心を折る蝕みの世界を使用したにも関わらず、ディダは自分の心が折られてしまった。
だが、それでも全てを諦めるにはまだ早かった。
少なくとも、全員の心が折れた訳ではないのだから。
「フィアンマ!」
「言われるまでもない!」
イルシオンが叫ぶと同時に、フィアンマは炎の息吹を吐く。
狙いは合成魔獣ではなく、未だ余裕の態度を崩さない魔術師の女。
「火龍はいつの時代も元気だね。感心感心」
「知った口を!」
自らの視界全てを炎が覆い尽くしたにも関わらず、女は依然として笑みを崩さない。
魔力によって生成した障壁を持って、炎の直撃を防いでいた。
炎の息吹を吐いた程度では、この女を止められはしない。
フィアンマもいい加減、それぐらいは理解していた。
彼女は全力を以て相手をしなくてはならない、強敵だと認識している。
だから、この炎はあくまで援護だ。
少しでも女の介入を阻止し、次へと繋げる為の。
「ヴァレリア!」
「あいよ!」
続けざまにヴァレリアは、黄龍王の神剣を振るう。
祖国を護りたいという強い願いは、祈りとという形で彼女へ力を齎していく。
刀身から放たれる風は炎を包み込み、強大な炎の壁を生み出した。
蝕みの世界とは違う形で、女を封じ込めようという算段。
「いけ、イル!」
「ああ!」
とはいえ、この女に常識が通用しないのは今までの戦闘で把握している。
この壁もどれだけの時間稼ぎになるか解らない。
だからこそ、造り上げた一瞬は決して無駄には出来ない。
イルシオンは紅く染まる刀身を掲げ、大地を蹴り上げた。
「オレの眼の前で、これ以上好きにさせてたまるか!」
彼の心からの叫びに、焔と清浄の神は応える。
悪意によって造られた歪な生命を救うかの如く、浄化の神剣は合成魔獣を灼き斬っていく。
一人でも多くの人間を救う為に。イルシオンは無心で、剣を振り続けていた。
「へぇ……。やるじゃんか」
一方。灼熱の渦に閉じ込められながらも、女は感心していた。
自分を閉じ込めた連携ではなく、あくまで仲間を護ろうという姿勢に。
「あの馬鹿弟子の精神も、少しは受け継がれているってことか」
炎の中でただ独り、感慨深いといった感情を覗かせる。
必死になって国を護ろうとする彼らを視ていると、考えてしまう。
このまま戦いが終わるのを、灼熱に呑まれながら待つのも悪くはない。
そんな戯言が、許される環境であるならばの話だが。
「――何をしている。貴殿ならば、大した障害でもあるまいに」
「だよな」
不意に鼓膜を揺さぶる声に、女は辟易した。
その声は低く、重く、冷たいものだった。
当然、声の主は知っている。むしろ、この場に於いて彼を知らないものなどいなかった。
女はそっと炎の壁に手を当て、氷と風を混合させた魔術注ぎ込む。
小型の吹雪にも近いそれは、瞬く間に炎の壁を消し去っていた。
「はあ、やれやれ。アタシ、アンタのこと嫌いなんだけど」
拓けた視界。その頭上で佇む男へ、女は視線を合わせる。
大きくため息を吐きながら、精一杯の抵抗を吐き捨てた。
「私は一向に構わない。貴殿はどの道、戦うしかないのだから」
「ったく……」
尤も、男もそんな彼女の態度を改めさせようとはしていない。
あくまで彼女は戦力のひとつであり、自分に逆らえない事も知っている。
いくら嫌われようとも脅威ではない以上、警戒する必要が無かった。
「もう少し愉しみたかったんだけどな。
はあ、つまんねぇ。あと、アイツらに同情するよ」
自分が愉しめる時間は終わってしまった。
ここから先は、更に戦場が血で染まる事だろう。つまらないと、女はもう一度大きいため息を吐いた。
そんな男女のやり取りを、言葉を失いながら眺める者達が居る。
女と相対していたヴァレリアやフィアンマは勿論、合成魔獣と戦闘中のイルシオンさえも。
突如現れた、黒衣の男の姿に目を奪われていた。
男の名は、ビルフレスト・エステレラ。
悪意を振りまく現況であり、この世界を破壊しようとする者。
「ビルフレスト……」
平時であるならば、イルシオンもヴァレリアも怒りを露わにしていたかもしれない。
そうならなかったのには理由がある。
明らかに今までのビルフレストと違う姿に、本能が警鐘を鳴らしていた。
「お前、その姿は……」
ぽつりと、フィアンマが声を漏らす。
黒衣に身を包んだビルフレストは、漆黒の左腕に一本の剣を握り締めている。
神器にも匹敵しうる魔剣、世界を統べる魔剣は禍々しい殺気を放つ。
だが、紅龍族の王が声を漏らした理由は左腕ではない。
彼の佇まいそのものが、フィアンマの神経を逆撫でしていた。
「紅龍王か。貴殿からもらい受けた翼、使わせてもらっているぞ」
「……ッ!」
ビルフレストの言葉通り。彼の背中から、大きな翼が広げられている。
それは紛れもなく、吸収によって奪い取ったフィアンマのものだった。
「ヴァレリア、イルシオン。貴殿らがここに居るということは、貴様等さえ墜とせばミスリアは終わりだ。その命、今ここでもらい受ける」
構えられた魔剣から迸る魔力の圧に、ヴァレリアは思わず息を呑んだ。
明確に『死』がイメージできる程の殺気。それでも逃げようとしないのは、彼の言葉が決して大袈裟ではないからだった。
「そうはいかないんだよ、ビルフレスト」
黄龍王の神剣を構え、かつての同胞と向き合う。
眼前に並ぶのは超一流の騎士と魔術師。ヴァレリアは分が悪いと苦笑いを浮かべながら、乾いた唇を嘗めていた。