454.故郷の思い出
夕焼けで空が茜色に染まる中。
シンはマレットへと伝える。
ユリアン・リントリィとの決着をつける時が来たのだと。
「そうか、明日か」
「ああ」
漸くと言うべきか。いよいよと言うべきか。
ともあれ、シンにとって最も大切な戦いが始まる。
シンの10年にも及ぶ苦悩が報われるのか。
それとも、ユリアンの100年を超える執念が勝るのか。
決着の時は刻一刻と近付いている。
「終わったら、すぐに戻るつもりだ。
だから、それまでは――」
――邪神を、世界再生の民を頼む。
そう言おうとしたシンの額に痛みが走る。
視線の向こうでは中指を勢いよく弾き出したマレットが、不敵な笑みを浮かべていた。
「解ってるよ。こっちだって、そのために色々と準備もしてる。
お前はまず、フェリーとユリアンのことを優先しろ」
マレットからすれば、今更言われるまでもない。彼の願いに手を貸すと決めたのは自分なのだから。
その願いを全て叶える為にも、まずは眼の前の事に全力を尽くすべきだと促す。
「……助かる」
「いいってことよ」
額を抑えながら礼を言うシンに対して、マレットはケタケタと笑っていた。
「マレットが居てくれて、本当に良かったと思う」
「っ」
不意に漏れたシンの本音に、マレットは言葉を詰まらせる。
毎度言っている、感情が籠っているのか今ひとつ伝わらない感謝の言葉とは違う。
零れ出たからこその本音が、彼女の鼓膜を揺らしていた。
「急にそんなこと言うな、馬鹿野郎」
どうかしたのかと問い質そうとするマレットだが、口を真一文字に結ぶことで堪えた。
違う。彼は下らない嘘を吐くような人間ではない。
いつもだって、今回だって。紛れもなく本当に感謝をしているのだ。
ただ、自分の受け取り方がいつもと違っただけに過ぎない。
そう解釈をして心を落ち着けようとするが、胸が熱くなるのを止められない。
かつてこの青年に救われ、再びこの少年に救われた自分だからこそ。
憧れた、力になりたいと思った。そして、叶った。感情が昂るのは、必然だった。
「俺は本当に感謝しているんだが」
「うるせえ。分かったから、もういいっての」
そんな彼女の気持ちも露知らず、シンは再び感謝の言葉を述べようとする。
これ以上言われると、こっちの調子が狂いそうだと拒絶するマレットの様子に眉を顰めていた。
……*
マレットから追い出されるようにして研究所から住まいへと戻る最中。
シンの視界へ移るのは、扉の前で佇む一人の少女。
まだ夜が冷え込む中、自らの手に息を吐きかける少女はフェリーだった。
「あっ、シン!」
シンの姿を見つけた彼女はたちまち笑顔となり、彼の元へと駆け寄る。
ユリアンに大切な話を聞かれてはいけないと思い、重要な会話だと思われる時はついて行かなくなっていた。
その為、どうしても動き回っているシンとの時間が削られてしまう。
彼女にとって、それだけが不満だった。
「フェリー。どうしかしたのか?」
フェリーは明らかに自分を待ってた事が窺える。
それも部屋で待っている訳ではなく、わざわざ肌寒い外でだ。
重大な事件が起きたのではないかという考えが脳裏を過ったが、彼女の様子を見る限り違うようだ。
「えとね、明日……。あたしも、シンと出かけるんだよね?」
「ああ、そのつもりだ」
行先を伏せたまま、フェリーへは出かける旨を伝えている。
それがユリアンに関係する事だから伏せられているのだと、彼女は察していた。
だから、敢えて深くは問い質さない。シン達の努力を無駄にはしたくないから。
「その確認のために、外で待っていたのか?」
「うーん……。それもちょっとはある……っていうか、だからって言うか……」
歯切れが悪い。というよりは、整理がついていないのだろう。
首を左右交互に傾げているフェリーに、シンは眉を顰めた。
彼女は一体、何を想っているのだろうか。
「えと。明日はだいじなんだなっていうのはわかるから。
ちょっとだけ、シンとお話がしたいなーって……」
本当なら、フェリーはいつだってシンと話をしたかった。
他愛のない話を毎日毎日。何度も同じ話題が出ても、飽きずに繰り返したい。
けれど、現実はそんな機会もあまりなくて。
重要な戦いを控えた中でしてもらえるのだろうかという不安を抱きながらも、僅かに甘えようと試みる。
「……だめ?」
子供の時から変わらない、小首を傾げる仕草を見せるフェリー。
駄目で元々。彼は自分よりもずっと疲れているに違いない。
もしも断られたなら、素直に「おやすみ」と言おう。
「そんなことか。いいぞ」
「ホント!?」
そう考えていたフェリーだったが、シンは意外にも快く了承してくれた。
フェリーの表情がたちまち明るくなる。夜空で輝く星に、負けないぐらいに。
……*
アルフヘイムの森に位置する、妖精族の里。
芝生の絨毯に腰を下ろしながら、シンとフェリーは空を見上げていた。
「……で、何を話すんだ?」
ただ、シンは何を話すべきなのか頭を悩ませていた。
今、フェリーの事を考えると、どうしてもユリアンの存在がちらつく。
恐らく彼女は、そんな話題を求めてはいないだろう。
だからこそシンは、彼女の求めるものを問うしか出来なかった。
「んーと。これまでのコト! たくさん、思い出があるから!」
フェリーは座ったまま、両手を大きく広げる。
満天の星空のように、思い出は沢山あると言いたげな彼女へシンは問う。
「旅の話か?」
彼女の言う通り。10年にも及ぶ旅で様々な出来事があった。
尤も、互いを想っているが故にすれ違っている期間でもある。
シンにとっては幾度となく、彼女を傷付けた苦い時間だった。
「違うよ、もっと昔! 子供のころの思い出!」
記憶を掘り返す事を躊躇っているシンに、フェリーは首を横へ振る。
彼女が話したかったのは、あくまで楽しい思い出だった。
シンが帰ろうと言ってくれた、故郷での掛け替えのない宝物。
「子供の頃か」
「そうそう。例えばシンが、近所の子をぶったときとか!」
「あったな……」
彼女に言われるまで思い出そうともしなかったが、こうして思い出すとはっきり情景が蘇ってくる。
あれは20年以上も前。自分やフェリーが五、六歳の時まで遡る。
一緒に遊んでいた子供が、フェリーへ心ない言葉を投げたのが発端だった。
「じいちゃんのホントの孫じゃないんだろ」だとか「父ちゃんも母ちゃんもいないのは、ヘンだ」だとか言われて、カッとなって手を出してしまったのを覚えている。
「あの時ね。あたし、なにがヘンなのかわかってなかったんだ。
だからね、シンが急にオコってビックリしちゃった」
「知ってる……」
怒りのあまり手を出してしまったシンだったが、当のフェリーはポカンと口を開けていた。
何がおかしいのかを、彼女は一切理解していなかったのだ。
フェリーにとっての家族はアンダルで、そのアンダルと一緒に暮らしている。
彼女はそれだけで良かったのだと、よく解る一件だった。
とはいえ、シンは手を出してしまった。
軽く小突くだけだったとはいえ、相手の親が怒り心頭でキーランド家に乗り込んできた事ははっきりと覚えている。
「でも、シンと同じでおじいちゃんもオコってたよね!」
「だな」
尤も、フェリーはよく解っていないままに起きた事をアンダルへと話していた。
結果、怒り心頭となったアンダルが乗り込んできた事により一部始終がはっきりとする。
シンが小突いた子供の親は、ばつが悪そうにしながら平謝りをしていた。
「シンもおじいちゃんも、あたしのタメにオコってくれたんだよね」
フェリーもよく解らないなりに、それだけは伝わっていた。
安易に手を出してしまったという意味ではシンにとって後味の悪い出来事だったが、彼女にとっては大切な思い出のひとつだ。
「……他の話題にしよう。フェリーが木登りをして、降りられなくなった話とかでいいか?」
「むぅ……」
恥ずかしくなり、シンは半ば強引に話題を切り替える。
もう少し進んで、八歳になった頃だ。
近所の森で遊んでいたシンは、軽い身のこなしで樹の上を登っていく。
フェリーやリンが真似をしても登れない様を見て、彼は得意げになっていた。
「独りでこっそりと練習して、降りられなくなったのはどうかと思うぞ」
すいすいと樹の上を登っていくシンが羨ましくて。
フェリーはこっそり、独りで木登りの練習をする為に森へと向かった。
幾度となく練習をした結果、登れるようになったのはいいのだが。
あまりの高さに怖気づいてしまい彼女は枝の上で降りられなくなってしまった。
「あの時も、シンが見つけてくれたんだよね」
「見つかったからよかったけどな……」
フェリーが居なくなったと、アンダルやシンたちがこぞって探す中。
シンは樹の上にしがみついているフェリーを見つけた。
リンにアンダルを呼びに行ってもらっている間、フェリーが落ちないようにと踏ん張っていたのを今でも覚えている。
「えへへ、ありがとね」
「……なんで笑ってるんだ?」
自分の失敗談を思い返しているというのに、フェリーの頬は緩んでいる。
訝しむシンだが、彼女の真意までは知らない。
この思い出は彼女にとって、掛け替えのない大切なもののひとつだったと。
樹の上で震え、次第にしがみつく腕が疲れて来た頃だった。
自分を見つけたシンはアンダルが来るまでの間、樹に登って自分の傍に居てくれた。
樹の幹に自分と一緒に、ロープで身体を括り付けて固定をする。
落ちないように自分にしがみついていろと、シンは言ってくれた。
もう力が入らず、ふらふらの自分をシンは支えてくれた。
背中に体重を預けると、彼は「もうすぐアンダルじいちゃんが来てくれる」と励ましてくれた。
独り孤独に樹へしがみついている時は、不安でしかなかったのに。
彼の言葉と、背中の温もりを前にしてフェリーの心は温かくなっていた。
アンダルが救けくれた後も、温かな気持ちは変わらなかった。
それからというものの、今まで以上にシンを視線で追ってしまう。
きっと正確な意味で彼への恋心が芽生えたのはあの日だったのだと、今ならはっきりと言い切れるだろう。
子供の頃から、ずっとそうだ。
シンは自分をたくさん護ってくれている。
フェリーは彼と出会えた運命に、心から感謝をしていた。
「シン。ゼッタイに、カランコエに帰ろうね」
フェリーは彼の肩へ、コツンと自分の頭を預ける。
僅かに沈んだ分だけ、自分の想いを受け止めてもらえているような気がした。
護られるだけは嫌だけれど、これからもシンとずっと一緒に居たい。
その為なら、何が起きても戦い抜ける。
フェリーもまた、これから先に何が起きようとも受け入れる覚悟は出来上がっていた。
「ああ。勿論だ」
彼女の身体を支えながら、シンは夜空を見上げる。
再び、カランコエから星明りを見られる日が来るようにと切に願いながら。
翌朝。
シンはフェリーとイリシャを連れて妖精族の里を発つ。
フェリーの中へ潜む存在。ユリアン・リントリィと決着をつけるに相応しい場所へ向かう為に。
……*
「母上。ご心配をおかけしました」
「ああ、ビルフレスト……! よかった……!」
依然と変わらぬ鍛え上げられた肉体美を瞳に抑え、母は歓喜の声を漏らした。
シン・キーランドによって深手を負ったビルフレストだったが、完全な形での復活を遂げる。
否、むしろ当時よりも強力になっている。
そう主張をするのは、どんな闇よりも黒く染まった彼の左腕だった。
禍々しい魔力と悪意を振りまく『暴食』の左腕は、マーカスがアルジェントへ行った実験を元に更なる強化が施されている。
「貴方が元通りで、邪神も喜んでいるわ」
ファニルは艶やかな動きで指を滑らせる。
指先が触れているものは、悪意の煮詰まった黒い球体。
全てを無に帰す破壊の化身は、分体である『暴食』の適合者に反応してか大きくその身を震わせていた。
「邪神が三度目覚めるというのであれば、今度こそ破壊しましょう。
ミスリアを。腐敗したこの世界を」
「ええ。今度こそ、失敗は許されないものね」
愛する我が子が復活したとはいえ、戦力が削られている事はファニルも承知している。
だからこそ、彼女はマーカスへ用意をさせた。
実験を施し、極限まで力を与えた『強欲』の適合者を。
そして、愛する我が子の覇道を妨げる者を滅する為の忠実なる僕を。
「行きましょう。あの忌々しい国を。ミスリアを、墜とすのよ」
いくら世界がひとつに成るべく動いていたとしても。
その根幹は魔術大国ミスリアに在る。ミスリアさえ墜としてしまえば、機能を失うのは明白だった。
故に、狙うべき国は変わらない。
自分から息子を奪った憎き国へ復讐する為。
世界に邪神の恐怖を知らしめる為。
悪意は、またしても魔術大国ミスリアを覆い尽くす。
世界再生の民がミスリアへ襲い掛かるのは、シン達が転移魔術を用いた三日後の事だった。