447.夢
アンダルが永遠の眠りについたその日。
ボロボロと大粒の涙を流し、声にならない声を上げ続けるフェリーの手を、シンはずっと握り締めていた。
本当はシンも悲しかった。泣きたかった。
フェリーに負けないぐらい、彼もアンダルが好きだったから。
それでも、シンはぐっと涙を堪えていた。
泣き止まない少女を放ってはおけなかったから。
アンダルからはたくさんのものを教えてもらった。彼の冒険譚もそのひとつだ。
シンとフェリーはどんな物語よりも、彼の話が好きだった。フェリー共々、彼に憧れるのは自然な流れだった。
自分に魔術の才能は無かったけれど、アンダルは様々な事を教えてくれた。
そのアンダルはもう居ない。
死んでしまったら、どれだけ大好きでも逢えない。
単純で受け入れ難い現実を、誰もが乗り越えなくてはならない。
シンにとってその言葉は、単にフェリーを慮っただけではない。
アンダルと離別した悲しみを乗り越える為に、自らを奮い立たせる為の言葉。
「フェリー、俺はずっと傍にいるよ。フェリーを置いて行ったりなんてしない。
ずっとずっと、じいちゃんの分まで」
シンに握り締められていただけの、彼女の手がピクリと動いた。
泣き叫んでいたフェリーの動きが止まる。
「ホント……?」
鼻を啜り、声を滲ませながら。フェリーはシンに尋ねる。
まだぽろぽろと涙が零れるのは止められない。潤んだ瞳でシンに縋るような視線を向けていた。
「本当。俺は絶対、フェリーより先に居なくなったりしない。
だから、もう泣くのは終わり。じいちゃんだって、フェリーがいつまでも泣いてたら困っちゃうだろ」
「……ん」
シンの言葉に安心をしたのか、フェリーは残った右手の袖で自らの涙をゴシゴシと拭った。
左手はシンに握られたまま。彼女が解こうとしないので、シンも力を弱める事は無かった。
「おじいちゃん……。ありがとう」
涙でぐしゃぐしゃになった袖を下げながら、フェリーはアンダルへ礼を述べる。
彼の死を受け入れたからこそ、さよならの言葉は口にしなかった。
大好きなおじいちゃんは、自分の笑顔を好きだと言ってくれていたから。
それを見せる為にも。これからの心配を掛けない為にも。「ありがとう」こそが相応しいと感じたから。
この日。シンとフェリーは、一歩だけ大人へと近付いた。
……*
窓から差し込む光が、瞼を透過する。
これから日は昇る一方で、抗っても意味がないとシンは朝を受け入れた。
拓けた視界の向こうは、大きな木目をした天井が待ち受けている。
アルフヘイムの森が生み出した樹によって造られた家である証拠だった。
ゆっくりと身体を起こし、窓を開ける。
取り込まれた新鮮な空気が、肺の中まで爽快感を満たしてくれる。
窓の向こうでは、子供達の元気な声が轟いていた。
妖精族の里の日常であると同時に、自分にしては寝すぎてしまったのだと知らされる。
そこまで熟睡した理由は、やはり見ていた夢の影響だろうか。
久方ぶりに思い出した。アンダルが亡くなった時の頃を。
自分はただフェリーに泣いて欲しくなくて、その言葉を口にした。
いつもみたいにまた笑って欲しかったから、その言葉を口にした。
時間が過ぎて、大人になったけれど。あの日に交わした約束は今も生きている。
やはりシンは、フェリーに泣いて欲しくない。
コロコロ変わる表情の中でも、彼女の笑顔が一番好きだった。
だからこそ、自分が原因で何度も泣かせた事実に自己嫌悪してしまう。
それどころか、約束を反故にしようとした事さえもあった。
「……じいちゃんに怒られるどころじゃなかったな」
もしも。あのままフェリーの不老不死だけを解いて、自分の『罪』を生産していたなら。
交わした約束は達成されない。彼女をまた、深い悲しみへ誘ってしまっていた。
死後の世界がもしもあるのなら、アンダルからは永遠に赦されなかっただろう。
アンダルだけではない。きっと自分の家族からも、同じ視線を向けられていたに違いない。
そういった意味では、カランコエに立ち寄れて良かったと思う。
己の願いを再確認した上で、改めて決意を口に出せたのだから。
10年に及ぶ旅へ区切りをつける時が来た。
尤も、満足をしたかと訊かれれば頷く事を躊躇うかもしれない。
だって、知ってしまったから。この世界には、自分の知らない事で溢れかえっていると。
だけど、同じぐらい故郷も大好きだからこそ決意をした。
シンはフェリーと共に、カランコエへと帰る。
全てに決着をつけた上で。フェリーを、世界を救った先の世界を故郷で過ごす為に。
「マレットのところに、顔を出すか」
幸い、自分にはたくさんの仲間が出来た。
頼りになる仲間達ばかりで心強い。
自分の背中を押してくれる皆に報いる為にも、シンは今日も一歩を踏み出す。
来るべきその日に向けて。
……*
(これ、夢だよね)
フェリー・ハートニアは、自分の置かれている状況を即座に夢だろ理解した。
透明な海を泳いでいるような感覚。それでいて、不思議と不安は無かった。
身体の力を抜き、流されるままに身を任せる。
するとやがて、ひとつの情景が海の中から浮かび上がってくる。
フェリーはその中に佇む少女の姿を、見間違うはずが無かった。
(イリシャさん……?)
銀色の髪は自分と同じぐらいの長さで、今よりももっと可愛らしさを押し出した格好をしている少女。
僅かに幼さが残る顔つきのせいか。雰囲気こそ変わっているが、間違いなく彼女はイリシャだった。
まだ成長が止まる前なのだろうと、フェリーは本能的に理解した。
(これって、もしかして……)
フェリーは若かりし頃のイリシャを知らない。
だから、こんな姿を見るとすれば思い当たる節はひとつしかない。
自分の中に潜んでいる存在。彼女の夫である、ユリアン・リントリィの記憶だ。
彼がかつて見ていた景色を、フェリーも追体験しているのだと察した。
ユリアンの存在をフェリーが認知したからなのか。それとも、同居する『魂』が混線した結果なのかは判らない。
兎に角、自分は夢を通じて彼の記憶を見せられている。
少しだけ悪い気もしたが、フェリーの視線は映し出される情景に釘付けとなった。
(イリシャさん。幸せそう)
透明な海に映し出されるイリシャの姿は、どれも素敵な笑顔で溢れていた。
見ているだけでこちらの心まで奪われそうな、そんな笑顔。
ユリアンがどれだけ彼女へ惚れているかは一目瞭然だった。
一方で、その笑顔を引き出しているユリアンもまた、イリシャから好かれているのだとよく解る。
記憶の海に映し出される情景は次々と切り替わっていく。
やがて、イリシャが可愛らしい赤子を抱く姿が映し出された。
これがきっと、二人の子供なのだろう。
ユリアンの視点も、イリシャから赤子へと移っていく。
初めて抱いた自分の子供が父へ向かって手を伸ばす。その光景に、彼は感動しているようだった。
そこからはイリシャだけでなく、二人の記憶が映し出されていく。
徐々に成長をしていく赤子を見守る、イリシャとユリアン。
彼の瞳に映るイリシャの姿はこの辺りから変わらなくなってきていた。
恐らくは、不老の影響なのだろう。
ただ、この時点でユリアンや息子が気にしている素振りはない。勿論、イリシャ自身も。
(ユリアンさん、いいお父さんだったんだなぁ)
ユリアンの記憶を通じて、フェリーの中に安堵と羨望の混じった感情が浮かび上がる。
彼は『魂』だけの存在となる前。イリシャ以外にもたっぷりと愛情を注いでいたのだと、知る事が出来た。
その一方で、自分もアンダルと過ごした日々を思い出す。
あの永遠に続くと思われた時間は、掛け替えのないものだったのだと改めて感じ取っていた。
フェリーの想いを知ってか知らぬか。
ユリアンの記憶はここから、急激に転換していく事となる。
発端は自らが不老の存在だと自覚したイリシャが、彼らの下を離れた瞬間からだ。
彼の心情を映し出しているかのように。
そこから先の景色は全て、色がくすんで見えた。
捲られていくページのように、無機質な記憶が流れ込む日々。
やがて、彼の記憶は断片的なものへと移り変わっていく。
恐らくは、今までに彼が『魂』を移した者達を通しての景色なのだろう。
色褪せたまま、様々な景色が彼の視界を覆い尽くしていく。
怒りや苦しみと言った負の感情は、彼の精神を蝕むには十分だった。
ユリアンがどれだけ心を擦り減らしているかは、眼前に映し出される黒と白の景色が全てだった。
永遠にも思える様な時間。彼は神経を擦り減らしていたのだ。
イリシャへ抱いている愛情を失わないように、必死にそれだけを護りながら。
その証拠に、再び彼の情景は彩りを取り戻す。
100年以上、多くの白黒の景色を経た先で。
(イリシャさん……)
ユリアンはイリシャとの再会を果たした。つまり、今見ている景色が誰のものかが判った。
大好きだったおじいちゃん。アンダル・ハートニアのものだ。
アンダルを通したユリアンの記憶は、再び色鮮やかなものへと変わっていた。
彼がどれだけイリシャを愛しているか、否が応でも伝わってくる。
ただ、その景色は以前とは明確に違う。
イリシャ以外の情景が、とても朧気なのだ。
彼はイリシャへの想いを護った結果、彼女への愛だけが肥大化していた。
他のものへ一切興味が持てない。妄信的な光景へと変貌するほどに。
(そっか。久しぶりに逢えたんだもんね……)
どこか物悲しくなりつつも、フェリーは彼の気持ちに理解を示した。
あれだけ大切だった息子を置いてまで。ずっと、ずっとイリシャを求めていたのだ。
彼女を眼の前にして、冷静でいられるはずがないと。
やがてアンダルを通したユリアンの記憶に、ある一人の青年が映し出される。
自分もよく知っている男性。シン・キーランド。
(シン。ホントに過去へ行ってたんだ)
疑っている訳では無かったが、改めてこう映し出されると不思議な気持ちだった。
同時に、少しだけ羨ましい。自分を救ってくれる前のアンダルとも、言葉を交わして見たかったから。
ユリアンの意識がアンダルへ流れ込んでいる影響か、当初のシンはあまり快く思われていなかったようだ。
珍しくシンが困っている様を見て、フェリーは思わず笑みを溢した。
(あれ? でも……)
ただ、ここでフェリーは違和感を抱いた。
イリシャ以外見えていないはずだった朧げな世界の中で。
シンの姿が、はっきりと映し出されている事に気がついたのだった。
この事実が示しだす答えは、ひとつ。
ユリアンにとっても、シンはやはり特別な存在なのだと。
(ってコトは、ユリアンさんはシンを意識してるってわけだから……)
どうにかしてユリアンの心の内を知る事は出来ないだろうかと、フェリーは頭を悩ませる。
ヒントを求めるものの、記憶の海は遡ってはくれない。容赦なく移り変わっていく情景に、フェリーが目を回し始めた頃。
記憶の海そのものに光が差し込み、フェリーの視界は白く染められた。
……*
「う……ん……」
瞼を持ち上げた先には、木目の大きな樹で造られた屋根が待ち受けている。
妖精族の里にある、自分の部屋で目が覚めたのだとフェリーは理解した。
どうにかして、あの記憶をもう一度見られないかとフェリーは布団へと潜り込む。
けれど、とても質の高い睡眠を摂ってしまったのだろう。眼が冴えて、眠気が訪れる気配は一切なかった。
「むぅ、いいトコだったのに……」
観念したフェリーはやがて口を尖らせながら、身体を起こす。
次の瞬間。扉の向こうで床の軋む音が聴こえた。
自分より奥の部屋に居るのは一人しかいない。シンのものだ。
「えへへ」
フェリーの顔が自然と綻ぶ。
彼が自分の部屋を通る際に聴こえるこの音が、フェリーは好きだった。
アンダルを弔った日。シンはずっと傍にいてくれると言った。
かつて交わした約束が、今も生きている事を意味しているから。
魔力も無ければ、神器に見初められた訳でもない。
彼自身は何も持たない人間かもしれない。
だけど、やはり自分にとってシンは特別な男性だった。
(ううん。あたしだけじゃないよね)
いや、違う。シンはきっと、その優しさを以て色んな人に影響を与えている。
だからこそ、フェリーは今朝見た夢が忘れられなかった。
ユリアン・リントリィにとって、シン・キーランドはどういった存在なのかを知りたくて堪らなかった。