幕間.とある男性の懺悔
リオビラ王国、ジルリア。
この街は眩暈がする程に人で溢れている。
その大半は冒険者だ。
鍛え上げられた筋肉をこれ見よがしに晒す、腕っぷしに自信がありそうな男。
常に本を魔術所を持ち歩き、研鑽に余念のない魔術師。
無事に冒険が終わり、暖かい食事と風呂が待ち遠しい女。
この手合いには、ジルリアを拠点としている者が多い。
要するに、この土地に対する慣れから来る余裕だ。
一方で、対極に立つ一行だって少なくはない。
手始めにこの街で一旗揚げようと、意気揚々に街中を歩く少年。
傷ひとつついていない革の胸当てと、剣の鞘がいかにも新米だ。
初めての都会を前にして、人に酔ってしまったと思われる少女もいる。
持ち歩いている錫杖を杖代わりにしているが、その調子で冒険者としてやっていけるのだろうかと心配になる。
彼らは何処を目指すのだろうか。
ただ家を飛び出してみただけなのか。それとも、大きな希望を胸に秘めて来たのか。
何にせよ、彼らの冒険に幸あれと勝手ながら祈ってしまう。
どうしても思い出してしまうのだ。もう20年以上も前の、冒険者だった頃を。
自分では届かない高みへ手を伸ばして、そして仲間を喪った。
生き延びた仲間も、心身共に深く傷ついた。
いや、それはおれも同じか。
「ねえ、お父さん? 全然声が出てないんだけど!?」
「あ、ああ。悪い」
娘のエマが、怪訝な顔つきでじっと見てくる。
視線を下ろせば、まだ捌き切れていない干し肉やチーズが敷き詰められている。
妻の実家である牧場で作った、自家製のものはとても美味い。
気に入って買ってくれる冒険者も少なくはないが、今日はまだあまり捌けてはいなかった。
「もう! 冒険者が居る間に売らなきゃって言ってるの、お父さんじゃん!」
「まあ、父さんもトシだから疲れたんだろ。ずっと立ちっぱなしなわけだし」
エマが憤慨する向こうで、フッと軽い笑みを浮かべたのは息子のポール。
軽口を叩きながらも淡々と商品を捌いていく息子は、一番の働き者かもしれない。
「第一、エマはさっさと売り捌いて遊びに行きたいだけだろ?
最近、彼氏が出来たって喜んでたもんな」
「ちょ……! 兄さん! お父さんにはまだ内緒だって……!」
「なに……?」
慌ててポールの口を塞ぐエマだったが、もう遅い。おれは聞いてしまった。
そうか。そうか……。エマに、彼氏……。ねぇ……。
けれど、何もおれだって頭ごなしに否定をするつもりはない。
そりゃあ、エマだってもう18歳だ。男の一人や二人ぐらいいてもおかしくはないだろう。
どちらかと言うと、おれにだけ内緒だった方が悲しいぐらいだ。
だから、ちょうどいい機会だ。教えてもらおうではないか。可愛い娘が惚れた男のことを。
「エマ。その彼氏とやらは、どんな男なんだ?」
「父さん、顔引き攣ってるって」
ポールに言われて、おれは自分の顔に手を当てた。
自覚はなかったが、どうやら身体は自分の想像以上に正直らしい。
完全にやらかしてしまった。エマは明らかに話すのを躊躇っているじゃないか。
「いや、何も怒ろうってわけじゃ……」
このまま妙な距離感が生まれるのはまずいと、おれは怒っていない旨をまず伝えた。
尤も。肝心のエマは完全に警戒をしているが。
この様子じゃあ、今日話してもらうのは無理そうだ。
今晩、それとなく妻にでも訊いてみるか。そう思った矢先のことだった。
「ゼッタイ、逃がさないよ!」
ジルリアの商店街に響き渡る、力強くも透き通った声。
台詞の内容から、恐らくは掏りにでも遭ったのだろう。悲しい話だが、この街では決して珍しくはない。
お上りさんや冒険者なら尚更だ。前者は警戒心が薄いし、後者は仲間内に恥を知られたくないと口を噤む。
ただ、今回はいつもの雰囲気が違っていた。少女は間違いなく「逃がさない」と言った。
つまり、掏られた相手を把握している。もしくは、掏られたことを恥だとは感じていない。
声の持ち主はどんな人間なのだろうかと興味を持った瞬間。
一陣の風が、おれの頬を撫でていった。
その発生源である少女の姿に、おれの視線は釘付けとなる。
腰まで伸びた金色の髪が、重力に逆らうように泳いでいる。
頬に張り付いた前髪の向こうから見える碧い瞳は、真剣そのもの。
あどけなさの残る顔立ちを前にして、おれは言葉を失った。
(……クロエ?)
胸の奥から湧き上がる感情は、既視感だった。
かつて、おれが冒険者をしていた頃。ミスリアから来た女性と恋に落ちた。
彼女の名はクロエ。おれの……。前の妻。
眼の前を通り過ぎた少女は、クロエによく似ている。
だけど、絶対にクロエではない。彼女はまだ、冒険者をしていると風の便りで耳にしたのだから。
冒険者の端くれである彼女は、掏りに遭ったなんて口が裂けても言わないだろう。
ただでさえ、最近は単独での冒険ばかりだというのだ。
これ以上、自分の評価を落とすような真似は絶対にしない。
何より、あの少女は出逢った時のクロエよりも遥かに若い。
瞳の色も違うし、別人なのだろう。
そう思った時、おれは少女の瞳が碧かったことを思い出した。
(まさか、おれとクロエの……?)
おれがクロエと結婚をした時。一人だけ、子を授かった。
その子供はクロエの金髪と、おれの碧眼を授かって生まれた女の子だった。
(いや、まさかな)
娘が成長した可能性を考えたが、おれは即座に否定をする。
だって、あり得ない。一目見ただけだが、彼女はどう見ても15、6ぐらいだろう。
再婚後に生まれたポールやエマより年下じゃないか。いくらなんでもあり得ない。
結局のところ、おれの罪悪感が勝手に妄想を膨らませただけだろう。
そう一人で納得をしようとしていると、エマがおれを指差している。何事だ?
「あーっ! お父さん、娘より下の女のコに見惚れてた!
お母さんに言ってやろーっと!」
「は? いや、待て。おれはそんなつもりじゃ……」
自分としては一瞬見ただけのつもりだったが、エマ曰くずっと眺めていただろう。
そんなはずはないとポールに確認を取ったものの、息子もおれの弁護はしてくれなかった。
「確かに可愛い娘だったけど、父さん。流石に家族の前でそういうのは……」
「誤解だ!」
必死に無罪を主張するものの、おれの主張をエマが認めることはなかった。
帰り際に気が付いたが、エマは自分の彼氏のことを有耶無耶にしたかったのだろう。
してやられた気分だった。
……*
「あなた。エマから大体の話は聞いたわ。
金髪の、ながーい。可愛らしい娘に、鼻の下を伸ばしていたとか?」
夫婦二人。机を挟んで向かい合った中で、妻のメリルが淡々とした口調でそう告げた。
高揚のない声に冷や汗を流しつつも、おれは必死に弁明をする。
「待ってくれ! 偶々視界に入っただけでだな!」
「本当にそれだけ?」
尤も、メリルの圧は本物だった。
彼女もきっと、思い浮かべているのだろう。クロエのことを。
「……いいや。クロエのことを思い出したのは事実だ」
観念したおれは、認める。
眼の前を通り過ぎた少女に、クロエの面影を感じたことを。
「……まあ。クロエさんからあなたを奪ったのは私だから。
その件については、あまりとやかく言いたくないのが本音だけど」
そう言ってメリルは、紅茶を口に含む。
彼女も複雑な気持ちなのだろう。夫が娘より年下の、前妻に似ている少女に眼が奪われたという事実が。
「待ってくれ、メリル。おれは奪われただなんて思っていない。
むしろ、救われたと思っている」
だけど、メリルが自虐的に呟いた内容だけは聞き流すわけにはいかなかった。
端から見れば略奪愛なのかもしれないが、おれは間違いなく彼女に救われたのだから。
昔の話になる。
当時、子供が生まれたばかりのクロエはおれたちの一行に復帰はしていなかった。
代わりに入ったのが、メリルだ。おれたちは四人一組で、冒険者として一行を組んでいた。
少しずつ実績と信用を積み重ねていったおれたちは、いつか名を上げることができるに違いない。
そう信じ切っていたおれたちの夢を一瞬で打ち砕いたのは、一匹の魔物。
冒険の最中で遭遇した刃を持つ蜥蜴は、順風満帆だったおれたちの冒険者生命を一瞬で断ち斬った。
仲間の一人はおれたちを逃がすために、命を落とした。
それでも、もう一人は心と身体に一生残る傷を負った。いや、心に関してはおれもだ。
初めて直面した『死』の恐怖。それは呪縛となり、おれの身に纏わりついた。
それ以来、剣を握ったり血の臭いを嗅ぐだけで足が竦むのだ。
一行で唯一、その恐怖を知らないクロエは冒険者を続けようとした。
当然、夫であるおれは駆り出される。クロエは荒療治で治そうとしていたようだが、逆効果だった。
おれは少しでも恐怖を忘れようと、浴びるように酒を呑み続けた。
はっきり言って、あの頃が人生で一番クズだったと言い切れる。おれも、クロエも。
冒険に出られないという酷く自分勝手な理由で、クロエはずっと娘を放置していた。
むしろ、自分の娘だというのに忌避していた。最低限の食事を、適当に転がしているだけまだマシだったと思えるぐらいに。
金が尽き、クロエが子供を人買いに売ると言った日も。おれは彼女を止めなかった。
止める気力すらなかったというべきか。止めなければ、おれがまた冒険に駆り出される。
我が身可愛さに、おれは娘を売ったも同然だったのだ。
そんなおれを見かねたメリルが、クロエと別れて自分の下へ来るようにと言ってくれた。
正直、メリルとクロエの間でどんなやり取りがあったかはどちらからも教えられていない。訊く権利があるとも、思えないが。
何にせよおれは、クロエと離婚をしてメリルと再婚をする運びとなった。
彼女は酒に溺れたおれを必死に支えてくれた。献身的な彼女の姿を見て、おれも立ち直らなくてはならないと思ったのだ。
必死に酒を断ち、彼女の実家である牧場で兎に角汗を流した。
慣れない仕事は苦労の連続だったけれど、不思議と充実していた。
それから有難いことに、二人の子供も授かった。
ポールとエマは、おれにとって宝物だと断言できる。
その一方で、どうしても脳裏にこびり付いてしまっている。
おれのもう一人の子供。名前さえつけてやれなかった、娘のことを。
どれだけ後悔をしても、もう遅い。
人買いに売られたのだから、良い人生を送っているとは思えない。
その償いと言うにはあまりにも自分勝手だが。
おれはポールとエマには幸せになって欲しい。勿論、メリルにも。
本気でそう思っているのだ。
「……そう」
メリルはそう呟くと、もう一度紅茶を口に含んだ。
俯いた先にある表情は、決して怒っているわけではないのが伝わってくる。
「おれはクロエとの子も、大切にするべきだったんだ。
すまない、メリルには嫌な話を聞かせてしまった」
「いいえ。むしろ、ほっとした」
ずっと抱き続けた後悔を吐露したおれに、メリルは優しくそう告げた。
「今更、その娘を探すのは難しいと思う。
もういい年齢でしょうし、足取りを掴むのはきっと不可能ね。
だけど、もしも生きていて。少しでもその娘が幸せを感じられるのなら……。
ううん、あなたはそう祈るべきなのよ。せめてもの、懺悔の印として」
「……ああ、そうだな」
メリルの言う通りだった。おれの娘がどんな名前で、どんな姿で、どこで何をしていようとも。
おれは娘の幸せを祈るべきだ。何の力を持たなくても、そう願うべきだ。
それはおれが娘を決して忘れないという自戒であり、自分の手が届く家族を幸せにしようという誓いになる。
「君の言う通りだ。ありがとう、メリル」
「どういたしまして」
おれの礼に、彼女は意に介していないという風にまた紅茶を口へ含んだ。
彼女はもう20年以上も、献身的におれを支えてくれている。
いつか彼女にも、きちんと幸せだと感じさせてやりたい。恩返しをしたいと、誓いを新たにした。
「ところで、メリル。話は変わるんだが……。
エマの彼氏とやらを、君は知っているのか……?」
「知ってはいるけど、あなたには教えるなって言われているから」
「そんな……」
淡々と。高揚の無い声で、メリルはおれを切り捨てる。
どれだけ問い質しても「エマが許可するまで、教えられない」の一点張りだ。
信用されていないというわけではないだろうが……。
家族を幸せにするというのは、おれが思っているより遥かに難しい。
暗にそう言われているような気がした。