446.誓
荒廃した故郷に再び訪れた彼は、一体何を思うのか。
シンはゆっくりと、一歩ずつ確かめるようにして歩き始める。
ほんの僅かな哀愁を漂わせる彼の姿を前にして、フェリーにも幸せだった情景が脳裏に浮かび始める。
一緒に花を育てた庭。元気な声が毎日の轟く玄関。
台所では、笑顔の絶えない食卓がいつも繰り広げられていた。
全てが懐かしくて、大切な思い出。
気が付けばフェリーは、彼と同じように一歩を踏み出していた。
「……イリシャさん、ゴメン! ちょっとだけ待ってて!
あたしも行かなきゃ!」
フェリーはそれだけ言い残すと、シンの元へと駆け寄る。
自分達が過ごした場所を共に歩みたかった。
「ええ、行ってらっしゃい」
イリシャはそんな二人を優しく見守っている。
自分が傍にいては、内にいるユリアンがまた『表』へ現れるかもしれない。
二人の時間を邪魔してはいけない。これはシンとフェリーだけの宝物なのだから。
「シン、あたしもいい?」
「ああ」
フェリーと合流したシンはやがて、自分の家があった場所から離れていく。
向かう先は、ほんの少し離れた場所。
アンダルの家が存在していた地をぐるっと回り、やがてフェリーが皆を埋葬した先へと進む。
「シン……」
墓の前で足を止めたシン。
フェリーは心情を測るべくゆっくりと、彼の顔を見上げる。
迷いのない眼差しには一体、何を想っているのか。
やがて振り向いたシンは、この村全体を見渡していた。
「父さん、母さん、リン。それに、アンダルじいちゃん。
こないだは、村をめちゃくちゃにしてごめん」
じっと村を眺め終えた彼は、再び墓と向き直り口を開く。
まず語られたのは、謝罪の言葉だった。
久方ぶりの帰還だというのに、戦闘で派手に故郷を破壊してしまった。
『傲慢』の介入が原因であり、仕方がない事だとしても。
この村で生まれ育ったシンからすれば、やはり気分が良いものではない。
「……でも。この間、フェリーから聞いたかもしれないけど。
俺も改めて言うよ。俺もフェリーも、こうして元気でいるって」
「シン……」
フェリーはまたしても、きゅっと下唇を噛みしめる。
シンの家族も、アンダルも。生きていたならきっと自分と同じぐらい彼を心配していただろう。
だから。彼の言葉からこうして伝えられたのは、とても大切な事だと思う。
ただ、この時。シンが伝えたかった言葉はこれだけではない。
自分の想い、願い。そして、誓いを。強い決意の下、言葉として紡いでいく。
「それでさ。これもフェリーから聞いたかもしれないけど。
もう10年を旅をして、色んな所を見て来たんだ」
フェリーはじっと、彼の話を聞き入れる。
きっと少し前までならば、彼の旅は苦悩の一色で染まっていただろう。
では、今ならどうなのか。この旅を今のシンはどう捉えているのか。
フェリー自身も知りたくて、じっと彼の話に耳を傾けた。
「俺たちが小さい頃。じいちゃんがよく、旅の話を聞かせてくれただろ」
アンダルはよく、旅や冒険の話を聞かせてくれた。
どんな仲間と探索をしたか、どんな魔術で魔物を撃退したか。
そこで芽生える友情の話や、反りが合わない人間と喧嘩をしたりしたとも。
見つけた宝をどう分けるかで揉めた時は、一行解散の危機だったと笑いながら話してくれていた。
「じいちゃんはいつも笑って話してくれるから、楽しいものだと思ってたよ。
実際にやってみると、じいちゃんが言ってたことよりずっと大変だった」
未熟だった自分は、何度も命の危険があった。
フェリーにだって、何度も危ない場面はあった。
それでも何とか旅を続けられたのは、自分が周囲に恵まれていたからだ。
だけど、旅について弱音は吐きたくなかった。
アンダルは面白おかしく、冒険譚を聞かせてくれたのだ。
彼が嘘を吐いているはずはない。辛いだけではないはずなのだと、シンは信じていた。
勿論、自分達の旅が異質なものである事も影響はしていただろう。
フェリーを殺す事が彼女への『救い』だと言い聞かせていたシンは10年もの間、精神を摩耗させていた。
そんな状態で見える景色が輝いているはずはなかったのだ。
シンの言葉を経て、フェリーはほんの僅かに顔を俯かせてしまう。
だが、またすぐに顔を上げる事となる。彼の言葉は、まだ全てを語り終えてはいなかったから。
「だけど、じいちゃんが言うよりもっともっと。楽しかったんだ。
色んな人に逢って、色んな景色を見て。色んな体験をした。
どれも全部、俺にとって大切なものになったんだ。
辛かったことや苦しかったことでさえ、必要だったんだって言い切れる」
フェリーは胸がいっぱいになり、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
シンは全てを受け入れた上で、こうして一緒に居てくれる。
苦しかった昔も。まだ戦っている今も。彼はいつも、自分を想ってくれている。
旅の全てを、大切だと言ってくれる。楽しかったと、言ってくれる。
彼女にとって、こんなに嬉しい事はない。
「……っ」
今、彼はどんな表情をしているのだろう。
シンの顔が見たいと、見上げた瞬間。彼と眼が合った。
自分を慈しむような真っ直ぐで優しい眼差しに、フェリーは頬を赤く染める。
「……世界の全てを見て来たわけじゃないけど。
もうすぐ、俺たちの旅は終わると思う」
――終わる。
再び墓を見下ろしながら、シンは確かにそう言った。
その言葉が何を意味しているのかは、フェリーにも判る。
彼自身の決意を語る、誓いの言葉なのだと。
フェリーの中に潜むユリアンと、決着をつけるという意味。
そして、世界を悪意で覆い尽くそうとする世界再生の民。邪神との戦いを、終わらせるという意味だった。
胸の鼓動が、僅かに乱れた。だが、フェリーには判らない。
それが自分の感情によるものなのか、反発するユリアンによるものなのか。
どちらにとっても、大きな意味をもつものだから。
シンは決めたのだ。自分の旅の終着点を。
ならばフェリーは、彼の決意を尊重したいと思った。
だが、シンが家族へ伝えたい言葉はそれだけではない。
むしろ、ここから先が本当の意味で、彼の誓いなのだから。
「だからさ。全部終わったら、帰ってくるよ。フェリーと一緒に、この村へ」
「シン! それって……」
フェリーは思わず、シンの顔を見上げる。
驚くのも無理はない。彼の言葉は旅をどう終えるかさえも、皆の前で宣言しているのだから。
「ああ。フェリーのことも、邪神のことも。全てを片付けたら、帰ろう。カランコエに。
やっぱりここは、俺たちの村だから。俺はフェリーと、ここに帰りたい」
フェリーは目に大粒の涙を浮かべた。
いくら奥歯を噛みしめようとも、すぐに緩んでしまう。
この気持ちは、自分のものだ。
喜びの末に昂ったものだと、フェリーは確信していた。
「あたしも……っ! シンといっしょに、帰りたい!」
必死に声を絞り出しながら、フェリーは強く頷く。
嬉しくて堪らない。彼は一緒に、カランコエへ帰ろうと言ってくれた。
それはつまり、これから先もずっと傍にいてくれる。
フェリーは間違いなく断言できる。
自分にとって、これ以上の幸福はないと。
「あたしも、ぜんぶ。ぜんぶ終わらせて、それで!
シンと一緒に、この村に帰ってきたい!」
溜め込んだ涙はやがて、フェリーの頬を伝う。
ごしごしと眼を擦る彼女の頭に、シンがぽんと手を乗せた。
「じゃあ、決まりだな」
「……ん」
硬く分厚いシンの手を乗せたまま。フェリーは小さく頷く。
そして、シンは告げる。フェリーの中へ潜んでいる存在、ユリアンへ。
「ユリアン・リントリィ。聞いての通りだ。
俺たちは全てを終わらせて、カランコエへ帰るよ。
悪いが、お前の願いは叶えてやれない。フェリーは必ず、返してもらう」
ユリアンは沈黙を貫いている。
元より、今はフェリーの感情が昂っている。
そうそう身体の主導権が奪える状況ではない。
何より、ユリアンにとって気持ちのいい宣言ではなかった。
態々噛みつく必要もなく、フェリーの胸の内は凪のように穏やかだった。
それは避けられない嵐に対して、身構えているようにも感じられた。
シンは敢えて、自分もイリシャも彼の心を救いたいと思っている事は伏せた。
どちらにせよ、イリシャと共に永遠に生きると言う目的は達成できない。
今の状態で彼に伝えても、恐らくは反発をするだけだろう。
だから、今はこれ以上の言葉を必要としなかった。
そんな真似をしなくても、決着の刻は近いのだから。
……*
「もういいの?」
「ああ、待たせて悪かった」
「ううん。わたしの方こそ、勝手な真似をしてごめんなさい」
肩を並べ、シンとフェリーはゆっくりとイリシャの下へと近付いていく。
シンは相変わらずだが、フェリーを見ればどんな会話が繰り広げられたかは想像できる。
彼女は目元を腫らしてはいるが、顔の綻びを隠せていない。
いや、そんな事を考えてすらもいないのか。
フェリーにとって良い事があったのだろう。それを訊くのは野暮でしかない。
ましてや、彼女の中には自分の夫が存在しているのだ。
そんな状況下で、フェリーが明るく振舞っている。それだけで十分だった。
こうしてシン達は、カランコエを後にした。
翌日。ゼラニウムで一泊したシン達は妖精族の里へと帰還する。
……*
「もう、イリシャちゃん! 心配したんだからね!」
「本当です。せめて、きちんと話をしてから出ていってください」
妖精族の里へ帰って早々。
心配からの憤りを見せるリタ。彼女へ追従するフローラ。
彼女達だけではない。矢継ぎ早に、イリシャへと皆が声を掛けていく。
人間、妖精族、小人族、魔獣族。
種族だけではない。老若男女問わず、皆がイリシャの身を案じていた。
「心配かけて、ごめんね」
イリシャは申し訳なさを感じる反面。嬉しくて堪らない。
夫と出逢い、愛を育んだ芸術の国も大切な場所である事には変わりない。
だけど、イリシャは見つけたのだ。年老いぬ自分が過ごす、安寧の地を。
それも全て、皆が自分を受け入れてくれたから。
自分の居場所はここなのだと、心の底から思う事が出来た。
だからこそ、イリシャはユリアンと本当の意味で心を通わせないといけない。
彼が狂ってしまったのは、自分に原因がある。
自分のあの時、勝手に家を出ると決めたから。
未練がましく手紙を送り、彼の優しくに縋ったから。
心の奥底で抱えていた孤独感が、優しい彼を狂わせる切っ掛けになった。
ユリアンの愛は自分が思っていたよりもずっと大きかった。
故に、彼は狂う事を。手を汚す事を厭わなかった。
今もきっと、自分が間違っているとは露程も思ってはいないだろう。
全ては妻を護る為。幸せにする為に。
行き過ぎた愛情が、色んな運命を狂わせた。
イリシャは伝えなくてはならない。
「ありがとう」と「ごめん」を。そして、「もう、大丈夫」と。
その上で、イリシャはユリアンへ伝えたかった。
どんな形であれ、逢えて嬉しかったと。
今度こそ、気が済むまで話し合わなくてはならない。
真実を知って尚、優しいままのシンとフェリーへ報いる為に。
何より、自分と夫にとっての『罪』を償う為に。
不老不死の少女を巡る旅は、終わりの刻が近付いていた。