445.願
周囲が薄暗くなっていく中。
シンとイリシャは肩を並べて、地面へ腰を下ろしていた。
「ごめんね、シン」
何に対しての「ごめん」なのか。
あまりにも謝りたい事が多すぎて、言った本人でさえも考えが纏まらない。
それでも、イリシャは言わずには居られなかった。
自分の本心なのだから。
「先刻も言っただろう。イリシャは何も悪くない」
「だけど……」
気にしなくていいというシンの言葉を、鵜呑みには出来なかった。
彼の身に振りかかった不幸は間違いなくユリアンの手によるもので、その発端は自分にある。
ユリアンを愛しているからこそ、イリシャは自分に責任が無いとは思えない。
「それに、謝るのは俺の方だ」
「……どうして?」
茜色に染まる空を見上げながら、シンは告げる。
イリシャにとっては、それこそ意味が解らない。
ただひとつ。自分を気遣っての言葉ではないというのは、彼の表情から読み取れた。
「俺はフェリーを救いたい。……その結果、ユリアンが消えてしまうとしても。
だから、謝らないといけないのは俺の方なんだ。
イリシャとユリアンをもう一度、引き離そうとしている。恨まれるのを承知で」
じっと空を見上げるシンとは対照的に、イリシャは顔を俯かせる。
当然の事だった。シンにとって何よりも優先されるべきは、フェリーだ。
そして。彼女を不老不死にした、運命を狂わせた張本人は自分の夫なのだから、シンと相対するのは避けられない。
「ううん。シンの立場なら、当然と。
むしろ、そう言わないとわたしが怒っちゃうかも」
無理をして笑みを浮かべるイリシャだが、そこに覇気はない。
「わたしもね、ユリアンのしたことは間違っていると思うわ。
誰かの中で生き続けて、わたしとずっといるなんて。
だって、そうでしょう? 皆には皆の人生があったはずなのに。
狂わせてしまったんだもの……」
イリシャの声は、次第に涙声となっていく。
感情が纏まる気配はなく、喜びを哀しみが彼女の中で混ざり合っていた。
「でも、逢えて嬉しかったのは本当なのよ……!
だから、あんな風に変わってしまったのが辛くて……。
あんな、ユリアンは見たくなかった。なのに、それはわたしのせいなの。
ねえ、シン。わたしは、どうしたらいいの? どうしたら、元の優しいユリアンと逢えるの?
わからないの。わたし、ずっと生きているのに。どうしたらいいか、わからないの……」
整った顔をくしゃくしゃに歪め、涙を流すイリシャの姿をシンは初めて見た。
彼女もユリアンと同じだ。離れ離れになっても、ずっと相手の事を想い続けていた。
だからこそ、苦しいのだ。
ユリアンを愛しているからこそ、今のユリアンが受け入れられない。
どうすればいいのか判らない。
自分よりずっと年下の。下手をすれば仇ともとられかねない相手に、救けを求めなくてはならない程に。
「イリシャ。俺の願いは、イリシャの願いとはきっと違う」
「……そうよね。ごめんなさい、おかしなことを言って」
シンの言葉を受け、イリシャは涙を拭いながら懸命に笑顔を作る。
当たり前だ。シンはユリアンを恨んでいてもおかしくない。
救いを求める事自体が烏滸がましいのだと、自分を窘める。
けれど、イリシャが感じ取った意味も決して正しいとは言えない。
シンが本当に願うものは、フェリーを救うだけではない。
「俺はきっと、ユリアンを救えない。むしろ、奴の願いとは反対の結末を望んでいる。
それでも。イリシャとユリアンには、きちんと納得して最期を迎えて欲しい。
だから、教えてくれ。イリシャの願いを。俺に出来る範囲で、俺はイリシャの力になりたい」
例えイリシャやユリアンにとっては、最高の結末ではなくとも。
シンはシンなりに二人を救いたいと本気で願っている。
彼が出した結論を。思いの丈を、シンはイリシャへと告げた。
「シン……」
思わず上げた顔は、目元が腫れていた。
その一方で、イリシャの瞳には光が宿っている。
信じられないと、眼を見開きながら。
自分はどれだけ辛くても歯を食い縛ってきたというのに、他人を慮る。
イリシャは200年以上も生きてきて、彼以上のお人好しを見た事がない。
でも、知っている。
彼は決して、嘘を吐かない。
少なくとも、誰かを傷付ける嘘は絶対に吐かない。
「わたしは、わたしの……。願いは……」
だからこそ、イリシャは思い浮かべた。
自分が願っているもの。ユリアンに望むものを。
「……ユリアンと。優しいユリアンと、一度でいいから話がしたい。
フェリーちゃんの中からいなくなって、消えてしまうのなら。
わたしはユリアンと、きちんと話がしたいわ」
イリシャが彼の事を思い浮かべた時。
自然と零れ出た、本当の願い。
今の、変わってしまったユリアンではなく。
自分や息子と共に過ごした。あの優しいユリアンと言葉を交わしたい。
伝えたい想いが沢山ある。
聞かせて欲しいものが沢山ある。
そして――。
「ユリアンの手で納得をして。フェリーちゃんに、自由を返してあげて欲しい。
あなたたちの幸せを、ユリアンにも願って欲しいのよ」
元の優しいユリアンなら、必ず祝福をしてくれるはずだ。
イリシャはそう信じているからこそ、願った。
それが愛する夫との二度目の離別の先にあるものだとしても、受け入れる覚悟をした。
「だからね、シン。あなたがわたしの力になってくれるだけじゃなくて。
わたしも、あなたの力になりたい。一緒に、二人を救いましょう」
例え、全てが皆の願い通りではないとしても。
心だけでも救いたい。シンとイリシャは、共に同じ願いを抱いていた。
故にイリシャは立ち上がる。
もう一度、愛する夫と言葉を交わす為。
そして、その先にあるほんの僅かな祝福を求めて。
「……ああ」
シンは頷きつつも、イリシャに感謝をした。
ユリアンが消えてしまう事はイリシャにとって辛い選択なはずなのに。
彼女は堪えようとしている。受け入れようとしている。
シンはつくづく、自分は仲間に恵まれていると再確認する。
だからこそ、成し遂げなくてはならないと強く感じていた。
……*
「シンとイリシャさん、なに話してるのかな……」
二人から離れた位置で、フェリーは独り佇んでいた。
イリシャは明らかに心を痛めており、出来る事なら自分も声を掛けてあげたい。
けれど、今は違うと彼女はぐっと堪えている。
その原因は、自分の中に眠るユリアンの存在。
今の自分が近付けば、否が応でも彼を意識してしまう。
そう考えたフェリーは、気を遣って二人から離れていた。
一方で、フェリーの行動をユリアンは快く思っていない。
「身体を返す」なんて言っておきながら、胸がざわついているのを感じる。
尤も、自分も少しは嫉妬している部分がある事は否定できないが。
「だいじょぶだよ。シンも、イリシャさんもやさしいから。
あたしね、二人とも大好きなんだ。ずっとあたしの中にいたなら、ユリアンさんもわかるでしょ?」
そっと胸に手を当て、フェリーはユリアンに語り掛ける。
彼からの返答はない。本当に小狡いなと、フェリーは頬を膨らませていた最中だった。
「フェリー!」
自分を呼ぶ声が聴こえる。この声は、シンのものだ。
もう話は良いのだろうかと、フェリーは恐る恐るイリシャへと視線を向ける。
「フェリーちゃん。ごめんね、シンを借りちゃって」
目元こそ腫らしているが、イリシャはいつものように悪戯っぽい笑みを浮かべる。
気持ちは落ち着いているようで、フェリーは少しだけ安心をした。
「ううん。それよりも、もういいの?」
「ええ。ごめんなさい、心配をかけて。妖精族の里へ、帰りましょう」
「うん。みんな、イリシャさんがいなくなったって心配してたもんね」
「それは……。皆にも謝らないといけないわね……」
ふっと、笑みを浮かべるイリシャは吹っ切れたようだ。
フェリーは皆が心配していると伝えると、イリシャは申し訳なさそうに眉を下げていた。
「イリシャさんが無事なら、きっとみんなはオコらないよ!」
紆余曲折こそあったものの、イリシャが無事ならそれでいい。
満面の笑みを浮かべる中。二人はカランコエを後にしようとする。
「……シン?」
そんな中、シンだけが立ち止まっていた。
振り返るフェリーだったが、彼の立っている場所を見てきゅっと下唇を噛む。
その場所を忘れるはずもない。シンの家が存在していた地なのだから。