443.消えたイリシャ
イリシャ・リントリィは向かわずにはいられなかった。
フェリーの中に潜む存在。その正体が、愛すべき夫だと知ってしまったのだから。
シンからその可能性を示唆された時。イリシャは俄かには信じ難かった。
そんなはずはないのだと自分に言い聞かせながらも、纏わりつくような不安を抱いていた。
だからこそ、はっきりとさせたかった。
けれど、ユリアンの口から告げられた真実は彼女へ重く圧し掛かる。
全ての発端は自分にあったのだ。
他者とは違うこの身体が。
奇異の眼差しを向けられる事を恐れて、彼の元を去ったから。
誰も傷付けない為の行動は、彼女の意に反した結果となってしまった。
故に、彼女はその身を歩み進める。
ただの自己満足だとしても。そうしなければ、ならないから。
……*
イリシャが見当たらない。
コリスから連絡を受けた者達は、一斉に彼女を探して散開する。
妖精族の里も、周辺の草原や荒野も。
隣国や小人族の里さえも。
イリシャを呼び求めるが、彼女は影も形も見当たらない。
「シン!」
「フェリー」
騒ぎを聞きつけたフェリーも、家から飛び出すようにしてシンと合流をした。
ユリアンと会話をすべく夜更けまで起きていたが、衝撃的な出来事を前にして眠気は完全に飛び去っている。
「イリシャさんが居なくなっちゃったって、ホントなの!?」
「ああ。フローラ殿下やコリスの話では、朝の時点では居たらしいが……」
シンコリスから説明を受けた経緯を、フェリーへと話す。
朝食を終えるまで、イリシャはいつものように過ごしていたという。
子供の世話をしているコリスを尻目に、イリシャは昼食の準備をすると言った。
そこからだった。彼女が姿を消したのは。
出来上がった昼食と『すぐに戻ります』という書置きだけを残して。
直ぐに異常を察知したコリスが、フローラへ相談をしなくてはならないと駆け付ける。
思えばイリシャは、朝から何か考え込んでいるようだったという。
気を付けるべきだったと、コリスは表情に影を落としていた。
「それって……」
フェリーは自らの胸元にそっと手を添える。
心臓の鼓動がいつもより速く、暴れているようだった。
中に潜むユリアンの。彼の焦りが色濃く出ているのだと、フェリーにも理解できる。
「~~っ。ユリアンさんも、アセってるみたい」
昨夜はあれだけだんまりを決め込んだと言うのに。と毒づきたくもなるが、今はそれどころではない。
イリシャが突然姿を消して、心配にならない者など妖精族の里にはいないのだから。
「……だろうな」
シンも今は、ユリアンに構っている場合ではない。
書置きの内容から察するに、イリシャはこのまま姿を消そうとしている訳ではない。
彼女も理解しているのだ。そんな事をしても、意味がないのだと。
ユリアン・リントリィはイリシャへの情愛だけで動いていると言っても過言ではない。
漸く逢えたイリシャがその身を引けば、ユリアンは必ず追い求める。
その結果。新たに傷つく者が現れるかもしれない以上、迂闊に離れる訳にはいかない。
一方で、シンには懸念している事がある。
少し前までであれば、レイバーンや魔獣族の嗅覚を頼りに見つけ出せたかもしれない。
だが、今は違う。
これだけ探しても見当たらないのだから、彼女はもっと遠くへ向かったと考えるのが妥当だ。
そして今なら、転移魔術によって長距離の移動は容易かった。
「今、マレットに転移魔術を使用した痕跡がないか調べてもらっている」
「……そっか」
とはいえ、予想が当たっていても俄かには喜び辛い。
前提として、妖精族の里から繋がっているのはミスリアだけだった。
オルガルがマギアに設置した転移魔術は既に稼働していない。
今はミスリアからマギアに繋がる転移魔術へと入れ替わっている。
世界がひとつになる為。全ての起点をミスリアに設置している。
逆に言えば、ミスリアからなら世界中に飛べるのだ。
自身も転移魔術の設置に関わった以上、イリシャが気付いていないはずもない。
そうなればお手上げだと考えている最中。
シンとフェリーは栗毛の尻尾を揺らしながら走る女性の姿を視界に捉えた。
転移魔術の使用痕跡を調べ終えた、マレットの姿だ。
彼女らしくない。
僅かに急いでいるその様は、語る前から既に結果を示しているようなものだった。
「シン! 転移魔術を使用した痕跡がある。
恐らくは、イリシャだろうな」
「……そうか」
マレットは息を切らせながら、予想通りの結果を持ち運ぶ。
汗が散るのも厭わず、髪を掻き毟る。深いため息が、事の重大さを現わしているようだった。
「でも、ミスリアに行ったなら……。
イディナちゃんやイレーネさんが声を掛けてくれたりしてないかな?
……ううん、ムリだよね」
フェリーは自分で言いながらも、それはあり得ないと頭を抱えた。
転移魔術を使ったと気取られない可能性すらあるのだ。
そんな手間を挟むぐらいなら、最初から書置きに示すなりコリスに伝言を残すなりしていただろう。
つまりイリシャは、行先を知られたくないのだ。
ただ一人で向かいたい場所があるのだと、結論を出さざる得ない。
(しかし! イリシャの身に万が一のことがあれば!)
「……わかってるってば。あたしだって、イリシャさんが心配なんだもん」
不意にユリアンが、フェリーの頭に響く程の声を張り上げる。
こめかみを抑える様子を前にして、シンとマレットはユリアンが干渉しているのだと察した。
「フェリー。ユリアンは、なにを言っているんだ?」
(君にイリシャの心配をされる道理はない!)
「もう、ユリアンさん! それどころじゃないってば!
……えと、イリシャさんに万が一のことがあればって、心配してるよ」
シンが彼女を気にしている事自体が、ユリアンにとっては気に食わないのだろう。
無関係だと喚き立てる声をいなしながら、フェリーは状況を伝える。
「ユリアンの言うことは正しい。
世界再生の民が何処へ潜伏しているか判らない以上、イリシャ独りにしはしておけない」
ユリアンとは対照的に、シンはまだ状況に対して冷静だった。
今はユリアンと反目している場合ではない。イリシャの身を第一に考えるべきだと考えている。
何せ、彼女は知っていたのだ。
かつて世界再生の民が潜伏をしていた場所。三日月島を。
彼女の視点からすれば、32年後の未来から現れたシンに告げられた情報のひとつ。
だが、世界再生の民にとってはまるで違う受け取り方をしているはずだ。
不意に自分達の急所を貫かれたような不快感が残っていると想像するのは決して難しい話ではない。
全てを見通す力。千里眼の類を持っていると誤解をされてしまっているのなら。
世界再生の民にとって、イリシャ・リントリィは警戒に値する人物と捉えられるのは在り得る話だった。
今、行方を眩ましている彼らにとってこれ以上の脅威は存在しないのだから。
そして、最大の問題は。
千里眼など持ち合わせていないイリシャにとっては、狙われる心当たりがないという点だった。
彼女自身の戦闘能力を鑑みると、今の状況はまずいと言わざるを得ない。
「でも! カンジンのイリシャさんがドコにいるかわかんないよ!」
シンの話を受けて、フェリーの焦燥感が一層強くなる。
気持ちばかりが逸る中、彼女以上に感情を揺さぶられた男が強い感情と共に『表』へ姿を見せる。
「……芸術の国だ! イリシャは、芸術の国に居る!」
フェリーと同じ声でありながら、その形相は彼女のものとは思えない。
依代であるフェリーが存在を認識したからか。それとも、彼自身が隠れようとしなくなったからか。
今までよりも簡単に。ユリアン・リントリィが強い感情を以て、声を荒げていた。
(コイツがユリアン・リントリィか)
ユリアンの存在を初めて見るマレットは、その変わり身に驚いていた。
今まで自分がどれだけフェリーの身体を探っても。フェリーが自らを痛め続けても。
彼は決して姿を見せなかった。
フェリーの行動には意味がない。興味がなかったといえばそれまでだが、100年以上もイリシャへの想いを糧に魂だけで生き永らえた存在だ。
今の様相といい、どれだけイリシャに執着しているかが窺える。
「芸術の国には、私とイリシャの出逢った場所がある!
私たちはいつも、あの樹を背景に語り合っていた。愛を深め合っていた!
私の存在を識った彼女が、改めて向かったんだ。そうに違いない!」
ユリアンは迫真の表情を浮かべる。
彼にとってイリシャと出逢った地はとても大切なもので、彼女もそうであるはずだと確信している。
あれから更に刻は進み、ユリアン自身も樹がどんな風に姿を変えたかを知らない。
感動の再会を演出するならばそこ以外はあり得ないと、ユリアンは主張する。
イリシャは何も忘れてはいなかったと昂るユリアンだったが、彼は自らの胸を抑えつけながら悶え始める。
強引に現れた彼を諫めるようにして、依代であるフェリーが再び顔を覗かせた。
「……もう! ユリアン……さん! 落ち着いてよ!」
「……フェリーか?」
浅い呼吸を繰り返し、やがて落ち着く様にゆっくりと息を吐く。
上げられた顔は変わらないものの、頬を膨らませる仕草から、返答を待たずしてフェリーに戻ったのだと理解できた。
「うん、ゴメンね。
ずっとユリアンさんに話し掛けてたから、すぐに出て来られるようになっちゃったのかなぁ?」
「お前、今まで以上にヘンテコな身体になったな」
「シツレーだよ!」
まじまじと興味深そうに、視線を送るマレット。
気心の知れた彼女だからまだ許せるが、とても他人に向けていい視線ではないと、フェリーは眉間に皺を寄せた。
(いいか! 芸術の国だ!
イリシャは必ず、そこにいる!)
「もう、わかったってば!」
そして、相変わらずユリアンはイリシャの行先を強調している。
ここまで熱くなるのなら、昨夜の質問にも答えて欲しいものだとフェリーは若干の怒りを帯びた返答をした。
「……だ、そうだぞ。シン。ダンナがそう言ってるんだ。
芸術の国に行ってみるか?」
とはいえ、ユリアンのイリシャに対する想いは本物だ。
自分達が彼女を知る遥か前から、大切な場所を持っている。
ましてや、イリシャからすれば思いがけぬ再会なのだ。
その地を訪れているというユリアンの言葉は、真実味を感じさせるものだった。
「うん。あたしも、ユリアンさんがそういうならって……思うけど。
ユリアンさんはほんとうに、ずっとイリシャさんのコトばっかり思ってたから。
イリシャさんのコトでウソはつかないよ、きっと」
二人の言葉を受けて、シンは考え込む。無論、ユリアンの言葉を軽視している訳ではない。
むしろ、彼の目的はイリシャそのものだ。真に迫った発言だっただろう。
けれど、シンはどうしてもイリシャが芸術の国に居るとは思えなかった。
それはイリシャがユリアンを軽視しているからではない。
彼を愛しているからこそ、彼女はやらなくてはならない事があるのではないか。
シンにはそう思えたのだ。
「……いや」
自分の知っているイリシャ・リントリィと、昨日の彼女を鑑みた結果。
シンにはひとつだけ、思い当たる節がある。
どうしても、先にそこへ向かわなくてはならないと思った。
彼女だけではない。
ユリアンを含む自分達が、きちんとこれからに向き合う為にも。
「イリシャはきっと、芸術の国にはいない」
「えっ……?」
そう言ってシンが告げた場所を受け、フェリーは驚きのあまり目を見開いた。
彼女の中に潜むユリアンは露骨な不快感を露わにするものの、フェリーの胸をざわめかせるに留まる。
フェリーも、シンに言われて納得をしたからだ。
イリシャなら、きっとそこに居てもおかしくはないと。
「フェリー、行こう」
「うん」
シンとフェリーは、イリシャを探し求めて妖精族の里を発つ。
ユリアンだけが「そんなはずはない」と、シンの推理を否定していた。